第33話 ヴィーナ

「久しぶりね、グレン。あなたさっき、この道を急いで行ったでしょう? ここで待っていれば会えると思ったの。やっぱり、間違っていなかったわね」


「何? 今、急いでるんだけど」


 珍しくグレンが緊張している。ノアは心配になって、グレンの袖を引いた。


「誰? 知り合い?」


 ヴィーナがこちらに向かって歩いてくる。


「かわいい坊やね、こんにちは」

「こんにちは」


 グレンの背後に隠れながらも、ノアは挨拶を返した。ヴィーナはくつくつと笑う。


「教会の寮には戻らないほうがいいわ。部屋がめちゃくちゃだし、あなたたち指名手配されているみたいだから」


 青ざめて絶句するノアをよそに、グレンは「だろうね」と返事をかえす。


「でも、一体どういう趣向のかえし? 見守る愛には飽きちゃったわけ?」


「飽きていないわ。だから今もこの状況を見守っているの。慈愛の天使として、ね」


 目が飛び出そうなほどノアは驚いた。口を開いたまま、グレンを見上げる。グレンは照れているのか視線を逸らす。


「なんだよ……。お姉ちゃんなの、ぼくの」


 ノアは声にならない悲鳴をあげた。ヴィーナとグレンを交互に見比べる。


「ちなみに、ナルシスはお兄ちゃんだから」


 あごが取れてしまうかと思った。


「じゃ、じゃあ。グレンは……末っ子ってこと?」

「そうだよ。なんか文句あんの?」


 グレンの頬が赤く染まっている。その様子にノアは噴き出してしまう。


「グレンが末っ子だなんて、似合わないなって!」


 大きな声で笑ったのはヴィーナだった。口元に手をあてているけれど、大きな口が隠せていない。


「面白い子! 坊やは物分かりのいい子のようだから、良いことを教えてあげる」


 ヴィーナがふぅっと息を吹く。唇からうす桃色の吐息が流れる。それは、小さな雲となって光の道をスーッと流れて行った。


「これを追いなさい。その先にナルシスがいるわ。会いたい人たちが、そこにいる」


 胸の奥がぎゅっと掴まれたような気がした。期待と緊張と不安がノアの足を止めている。

 早く会いに行きたいのに。


「ほら、行けよ」


 背中を押されたノアは数歩歩いて立ち止まる。振り返ってグレンを見る。


「グレンは一緒に行かないの?」

「ぼくは、ヴィーナと話すことがあるから行けない」

「でも」

「早く行ったほうがいい」


 グレンはヴィーナと向かい合う。ヴィーナはほほ笑みをたたえたまま弟の視線を受け止める。

 目の前の道の先では、ヴィーナが作り出した雲がノアを待っている。


「……わかった」


 グレンの方を見ないように、ノアは走り出す。

 その手をグレンが掴んだ。


「待って」


 振り返るとすぐ近くにグレンの顔があった。

 揺れる灰色の瞳で、ノアの顔をのぞき込んでいる。

 ノアは唇をきゅっと結んだ。


「――気をつけて」

 耳元でグレンがささやいた。ノアは深くうなずく。

 踵を返すと、力強く駆け出した。


 

  *


「ずいぶんと情熱的なのね」


 ヴィーナは走り去る人間の子を視界の隅でとらえながら言った。


「情熱が足りないのは、ヴィーナの方じゃない?」

「言うじゃない、ガキんちょが」


 ヴィーナが長い髪を後に払う。あごを引き上げて、グレンを上からにらみつける。指先がポキポキと鳴っているのは、グレンに飛びかかる準備をしているのかもしれない。


「やめてよ。喧嘩しに来たわけじゃないでしょ?」

「あなたの口の利き方次第だけど?」

「わかったよ。末っ子なんだから大目にみてよ、お姉ちゃん」


 首をかしげて、グレンはほほ笑みをつくる。けれども、目線はヴィーナをにらみつけたままだ。


「これだから末っ子は、世渡り上手って言われちゃうのよ。昔は尻尾をふってお姉ちゃん、お姉ちゃんってついて回っていた子はどこへ行っちゃったのかしら」


「……そんな話はどうでもいいだろ!」


 勝ち誇ったようにヴィーナは笑う。

 どんなにグレンがわめこうとも、姉のヴィーナにとって主導権を握るのは簡単なことだった。


「グレンは、これから何をしようとしているの?」

「人為的に作られる虚影を止めるんだよ」


「どうしてそんなことをするの? あなたがする必要があるの?」

「逆になぜ傍観しているのか、ぼくには理解できないね。関係ないから? 所詮、箱庭の中だから?」


 額に手をあて、ヴィーナは優雅な動作で腰をかける。光の粒子でできた椅子が、ヴィーナの体を支えた。


「肩入れするなって、言ったわよね、私」


 手をかざして、ヴィーナは整えられた爪の先を眺める。


「堕天の意味知ってる? ぼくは半分人間みたいなもんだ」

「でも半分は天使でしょう? あなたは、まだこちらに立っていないといけないの」


「じゃあ、もう片方の羽もむしり取ってやろうか」


 グレンはゆっくりとひだりてで、残った羽の根元に手をかける。ぎち、っと不穏な音が鳴った。

 ヴィーナの顔に一瞬だけ影が差す。

 美しい顔をゆがませて、ヴィーナはため息を吐き捨てた。


「困った弟だわ。この私を脅そうっていうの?」

「かわいい弟の無惨な姿を見たくないだろ?」


 二人は数秒。いや、数分もの間、黙ったままにらみ合っていた。


「我儘な子ね、グレン。私にどうして欲しいの?」

 グレンは口の端をあげる。


「傍観者をやめろ」 


 ヴィーナの片眉が持ち上がる。


「それだけ?」

「そう。ヴィーナはヴィーナのやり方で、この世界に干渉して欲しい」


 はっ、とヴィーナの唇から息がもれる。


「私のやり方でいいなんて。あなた、私のやり方を知っているわけ?」

「ヴィーナなら、上手く立ち回れる。そうでしょ、お姉ちゃん」


 今までのグレンではないと、ヴィーナは思った。

 ヴィーナと対等に向かい合おうとしている。

 いや、グレンが相手をしているのはヴィーナではない。

 箱庭であるルナリアの国だ。


「いいわ。これが終わったら、三人でお菓子を食べましょう? 約束できるなら、お姉ちゃんがんばってあげる」


「そん時は、かわいらしく尻尾でもなんでも振ってやるよ」


 グレンは駆け出した。

 ノアが向かった先とは別の方に向かって。

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