第32話 声

 空の青さが濁っていく。光の位置が移動していって、世界が影になる。


 最初、それは虫の羽音くらいかすかな音だった。


 心臓の音が大きくなっていくのを感じた。

 手に汗がにじむ。

 地面がわずかに振動し始めた。

 足元から立ち昇る違和感と恐怖に、ノアは助けを求めてグレンの方を向いた。

 グレンも世界に耳をすませている。


 ――きこえる。


 風の音でも、羽音でもない。

 小さいささやき。


 ――声だ!


 無数の声が一斉に押し寄せた。

 誰かが泣き、誰かが叫び、誰かが悲鳴をあげる。

 声を失った言葉が一斉にノアの体に入り込んできた。


「――痛ッ!」

 耳を押さえて、途絶えることのない痛みに耐える。

 息を大きく吸って、吐き出す。次に息を吸うことが難しい。


「グレン。グレン」


 名を呼ぶと、ノアの異変に気がついたグレンが加護を与えてくれた。

 ようやく落ち着いて息を吸い込む。頭痛の波も徐々にひいていく。


「一体、何が起きたんだ?」


 冷や汗をぬぐった時だった。

 森から鳥が一斉に飛び立った。

 地面が大きく揺れ、風が渦巻いて突き抜けていく。

 耳鳴りがした後、ノアは信じられない声をきいた。


(――ノア)


 ずっと聞きたかった、懐かしい声。


「兄さん」

 立ち上がって周囲を見回す。


「兄さんの声だ!」

 ノアは数歩駆け出して、立ち止まる。

 どこかに兄のライがいる。

 いるんだ。たしかに、ライがいる。


「今更、突然きこえたわけ?」

「今更だけど、たしかに聞こえたんだ!」


 ノアは耳をすませる。


(ノア、帰ってきて)


 風がびゅーびゅー吹きすさんでいる。木の葉がぐるぐるとノアの周りをまわっている。


「帰って? 兄さん、どこにいるんだよ」


(ルカスを助けて)


 サッと血の気が引いていく。ルカスの顔が浮かんだ。


「グレン、ルカスさんに何かあったのかも。ルカスさんを助けてって、言ってる。帰ってきてって」


 ノアがいる場所は、東の街にある渓谷だった。中央の教会に戻るまでは半日かかる。

 いったいルカスがどんな状況にいるのか、ノアには検討もつかなかった。


「急いで、中央に戻ろう」


 走り出したノアの襟をグレンが掴まえる。


「走っていくなんて、やだよ」

「じゃあ、グレンだけ歩いてこいよ。おれは先に行くからさ」


 もがいたノアの足が、地面から浮かび上がる。辺りの景色が一変する。

 ノアはまぶしさに目をすがめた。


「わっ! 何だ?」


 先ほどまで草原の上にいたはずなのに、春の陽光のような光に包まれた場所に立っていた。


「ノアって、いちいち反応が面白いよね。ついて来て、このままちょっと歩けば中央の教会に着くから」


 グレンにとって慣れた道なのだろう。進む足取りには迷いがなかった。


「こんな移動の仕方あるんだ。便利だな」

「それ、ロイも同じこと言ってた」


「ルナリアの国のどこへでも行けるのか?」

「ルナリアだけじゃないよ。ぼくにとって――」


 グレンが急に立ち止まった。ノアはグレンの背中にぶつかって、鼻を打った。


「なんだよ、急に止まるなよ」


 黙るように、グレンが右手でノアを制した。


 道の先には、一人の女が立っていた。

 金色の髪が波うつたび、辺りはいっそう輝きを増す。

 こちらを見る女のまなざしは、慈愛にあふれていた。


 グレンは、ごくりと喉をならす。


「……ヴィーナ」

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