第28話 ロイの話
運命を変える相手と出会ったのは、春がもう少しでやってくる、そんな曖昧で薄い希望に満ちた季節だった。
「死ぬの、お前」
普段は人間に話しかけることはしない。でも、この少年が橋の欄干に登ったまま、立ちすくんでいる姿にはもう見飽きていた。
「ずっとそうしてるじゃん。死ぬのかやめるのか、どっちかにしたら?」
体をふるわせたまま、少年は振り変える。声の主を見て「ぎゃっ」と叫んで体のバランスを崩した。欄干から足を滑らせ、真っ逆さまに落ちていく。下にあるのは冷たい川だ。
「――助けて!」
少年が叫んだ。グレンは橋の上からのぞき込んで、ため息を吐いた。ぴょんと橋から飛び降りると、少年の服を摘まんで岸まで運んでいってやった。
「あ、ありがとうございます。死神の人」
「はあ? お前の目はどうかしちゃってんじゃないの? どう見たって天使だろ」
荒い息を整えながら、少年はグレンの頭の先から足先まで視線をやる。
「ぼくの思ってた天使とかなりちがう。口悪いし」
グレンは舌打ちして、その場から離れようと歩き始める。
「ああ、ねぇ天使様! 待ってください」
「何だよ」
「ぼくの前に現れたってことは、何か救いを与えてくださるんでしょ?」
「はあ? 勘違いすんな。自分の力で生きろ。じゃあな」
ひらひらと手を振ってグレンは少年に背中を向ける。
(ひどい)
(やっぱり死のう)
(神様もぼくのこと嫌いなんだ)
(最悪だ。ぼくの人生なんて)
「あー、うるせぇな」
踵を返して、グレンは少年の元に大股で近づく。
「え? ぼくは何も言ってませんけど……」
「言ってただろ! 聞こえてんだよ」
「ええ……。理不尽だ……」
一方的に怒鳴られた少年は、がっくりと肩を落とした。
心の声がきこえる時がある。
普段から聞こえているのだろうが、グレンには風の音が耳元で聞こえる、その程度にしか感じていなかった。
「で? なんで死のうとしてたわけ?」
グレンは少年を――半ば強引に――連れて、北の街にある店にきていた。
「その前に、ぼく、子どもだから、お金持っていませんけれど……。あの、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫。ぼくはいっぱい持っている。この店来てみたかったんだ」
グレンは目の前にある、山盛りのスイーツに満足する。
「あの……天使の羽はどこへいったんですか?」
少年が体を寄せて小声で言った。
「しまっただけだけど?」
「収納可能なんですねー」
「まあね。だって、邪魔でしょ? こういう狭いところに座ったりする時」
「はあ」
「何? 食べないの?」
グレンが言うと、少年は思い出したように動き始める。グレンもお菓子をつまみ上げて、口に放り投げる。
「これ、うまい」
まぶしいくらい赤いマカロンを気に入って、グレンは同じものをもう一度口に運んだ。
「うん、おいしい」
「ラズベリー味だと思いますよ、それ」
「ラズベリー。初めて食べるかも。甘いのにすっぱくって、意味が分からない感じが気に入った」
グレンがそう言うと、少年は吹き出して笑った。
「何?」
「なんだか、実感なくて」
「何の?」
「天使といるってことです。ぼくの目の前にいて、ラズベリーマカロンを気に入って食べているなんて信じられない」
「そりゃいるでしょ。存在するし、好物も食べるし、睡眠だってとるよ」
ドーナツをほおばったまま、少年は目を丸くする。
「あはは。なーんだ、ぼくらと変わらないんだね」
少年の笑い声を聞いて、グレンは「すっぱい」と思った。新鮮で、みずみずしくて、刺激的に通り過ぎていく。
「……変わんないよ。全然」
不思議な気持ちだった。ヴィーナたちと話しているのとは、また違う。もっと話がしたいと思った。もっとグレンの知らない、この世界の話をして欲しいと思った。
「お前、名前は?」
「え? ぼくですか?」
「それ以外に誰がいるの?」
「ですよね。ぼくは、ロイっていいます」
「ぼくはグレン」
「グレンさん」
「さん、はいらない」
「……じゃあ、グレン」
「ん」
テーブルにひじをついて、グレンは気持ちよさそうに目を閉じる。ロイはグレンが眠ってしまったのではないかと思って、周囲を見回したりした。
「話してよ。なんで死のうとしていたのか」
ロイはきゅっと唇を結んだ。窓にには、重たい雲が空を覆っていく様子が映っていた。
「幼馴染のアーサーって子がいるんだ。小さい時から今までずっと友だちだった。でも、アーサーは学校で新しい友だちが出来たんだ。ぼくなんかと一緒にいるより、楽しいみたい。でも時々あっ、て顔をするんだ。あっ、ロイを置いていっちゃったって顔。ぼく、すごくみじめだった。だから、ぼくも新しい友だちと一緒にいることにした。新しい環境にいれば、アーサーのこと忘れられそうでしょ? アーサーがいなくたって、ぼくやっていけるんだって見せつけてやりたかった。だから、あの時――」
ロイは深くうつむく。その瞳には涙がたまって、今にも落ちそうだった。
「ぼくは、最低なことをしたんだ。学校で、アーサーが鼻歌をうたっていたんだ。何気ない感じで。ぼくは、その歌がなんだかすぐにわかったよ。アーサーの一番好きな歌。アーサーのおばあちゃんがよく歌ってくれる曲だってね。でも、ぼくの友だちがアーサーに言ったんだよ。その歌、古いねって」
歌が止まった時の空気をロイは今でも忘れられない。目を大きく見開いて、アーサーが信じられないって顔をしていたのも。
「友だちはぼくの方を向いて、古いよな? って聞いてきた。だから、ぼくは――うん、すごく古臭い曲だって答えた」
ロイは顔を覆う。何度も何度も繰り返しその時のことを思い出す。鋭い刃物で胸を貫かれたように痛い。
でも、一番痛い思いをしたのはアーサーだった。幼馴染のロイに後ろから刺されたくらいの衝撃だっただろう。
アーサーの顔色が、石像みたいに白くなっていく様子をロイははっきりと今でも思い出せる。
「すぐに謝ろうと思ったんだ。でも、アーサーは笑ったんだよ。ぼくに向かって。そうだよね、って」
その笑顔は、ロイとアーサーの関係を断ち切るものだった。
友だちという繋がりが、なかったことになった瞬間だった。
「それで、死のうとしたの?」
ロイは深くうなずく。
「死んだらアーサーってやつが、罪悪感を覚えてくれるかもしれないから?」
グレンが言うと、ロイは顔をさっと上げた。
「そんなことない!」
(確かに、グレンの言うとおりかもしれない)
(ぼくは、アーサーに自分のせいかもって思ってもらいたい)
(ちがう)
(本当は、ぼくのことをもう一度見てほしい)
(それだけなんだ)
グレンは首を傾げる。本心と真逆のことをロイは言う。グレンには、ロイの気持ちが全く理解できなかった。
「よくわかんないね。そんな理由で死にたいわけ? 普通に謝ればいい話じゃないの?」
ロイは顔を赤くしたまま、はらはらと涙を落とす。
――なんで、そんな顔をするんだ?
「グレン。人ってね、
訳がわからなくて、グレンは口の中にマカロンを突っ込んだ。
甘酸っぱい味。
好きな味。
「わかった。ロイの死にたい気持ちをぼくは理解したい。だから、ぼくが理解するまで勝手に死ぬな」
いいね? と強引にグレンは約束させる。
――人の心というのは、複雑すぎる。特にロイくらいの子どもは、訳が分からない。
「あ。グレン見て。雪だ」
ロイにつられて、グレンは窓の外を見る。灰色の分厚い雲から、大粒の雪がいつの間にか降っていた。
「明日、積もるかな」
静かな口調でロイは言った。
死にたいと言った唇で、明日の話をする。
ロイがふっと吐いた息が、白くあとを残した。
――ロイは、きっと死にたいわけじゃない。死んだ自分を想像して、少しの間だけ、楽になりたいんだ。
「変なの」
グレンは窓の外を眺めてつぶやいた。
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