第22話 悲鳴

 ノアは薄目を開けたまま、荷馬車が大きな一枚岩の前で止まるのを見届けた。


「降りろ」


 馬を操っていた男が振り返って怒鳴った。顔に大きな傷がある男だった。

 ノアは両手を突き出して、盲目の少年を演じる。


「俺につかまんな」


 隣にいた気の弱そうな男が腕を差し出し、ノアの右手を握らせる。


「ありがとうございます」 


 男にくっついて歩きながら、ノアは小声で男に話しかけた。


「おれは、どこに行くんですか? ここは何ですか?」


「あんまり大きな声で言えねえが、いいとこじゃねえよ。逃してやりたいけどよ、あんたの目じゃ無理だろ。黙って運命を受け入れるしかねぇな」


 ノアは悲しげにため息をつく。


「お父さん……父も、ここにいるんでしょうか?」

「いるんじゃねぇか? 南のやつらはみんな、ここに連れてくるよう言われてんだ」


「そうですか。よかったです」

「いいもんか。中はよ、バケモンだらけだぜ。気をつけろって言ったって、気をつけらんねぇか」

 へへっと男は小さく笑うと、ノアを一枚岩の前に立たせた。


「周りを確認しろ」

「へいへい」


 誰もいねぇって、と気の弱そうな男が小さな声で文句をたれながら離れていく。

 顔に傷のある男が舌打ちをして、ノアに背を向けて立つ。


 ――何をしているのだろうか?


 ノアが不思議に思っていると、地面がかすかに揺れていることに気がついた。

 足元の小石が、転がってぶつかりあう。

 男が岩壁に両手をついた。ごりっと音をたてて、岩肌がわずかに沈む。


 ――動いた?


 一枚岩だと思っていた壁が、ゆっくりと口を開いた。

 生温い風が吹き出した。湿った空気と生臭い匂いがする。

 奥は、闇に包まれた洞窟だった。


「おい、こいつを連れてけ」


 顔に傷のある男が振り返る。ノアは慌てて目を閉じた。背後からもう一人の男が文句を言う。


「え? 俺も中に入るのかよ」

「目が見えねぇんだから、仕方がないだろ。ほら」


 小銭が落ちる音がした。それを慌ててかき集める音も。


「へへ、行こうぜ」


 気の弱そうな男がノアの腕を掴んで、洞窟の中へ引っ張りこんだ。


 洞窟に入ったその瞬間、咆哮がきこえた。

 獣のような、悲鳴のような声。

 心臓に爪をたて、握り潰されるような激しい痛みが襲ってきた。ノアは頭を抱えて膝をつく。


「ほら、抵抗すんな。歩け」 


 男の声が遠くから聞こえる。

 耳鳴りがする。頭が割れて血が噴き出しそうだ。

 ノアは顔をそむけ、こらえきれずに嘔吐した。


「うわっ! なんだよ。やっぱ酔ったのか?」


 動けないノアの両脇に手を入れ、男は引きずっていく。体がひどく痛んだ。四肢をもぎとられるような痛み。


「勘弁してくれよな。俺は早くこんなとこから出て、酒飲みたいんだ」


 ノアが何度か気を失いかける度に、恐ろしい叫び声がノアの意識を連れ戻しにやってくる。


 ――死んだ方が、マシかもしれない。


 混濁する意識の中でノアはかすかに唇を動かした。


「……グレン……」


 グレンがいないとだめだ。

 グレン、どこにいるんだ。

 

 助けて。

 

 グレン。




 背中を強く打ちつけて、ノアは再び嘔吐する。


「なんだコイツ、だいぶ弱ってるじゃないか」 


 初めて聞く声がした。若い男の声。


「目が見えないんだ。運んでる時に酔っちまったらしい」


 金属音が鳴り響いた。鍵が回る音がする。牢に入れられたのかもしれない。

 頬に岩肌を感じる。冷たくて心地がいい。このまま、ずっと横になっていたい。

 男たちの声が遠ざかっていくのを感じながら、ノアは鈍い痛みに耐えていた。

 牢に入れられてから、あの恐ろしい咆哮は時折聞こえる程度になっていた。


 ――虚影がここにいる。


 ノアがいる場所からは、少し場所が離れているのかもしれない。

 さらわれた人たちが、この洞窟の中に囚われている。けれども、他に人の気配を感じない。


 先ほどから頭の中で複数の声がこだましていた。何と言っているかは、わからない。一つずつ手に取ってきいてみようとすると、糸が解けたように声の波は引いていく。


 ――そういえば、ルカスさんは女皇から重要な情報を聞いていた気がする。

 確か――。


 ごそり、と音がした。


 背中を冷たい汗が伝う。

 ノアは上半身を起こした。

 闇が渦巻いている。何かがそこにいた。

 液体がドロドロと流れる音がする。

 滴るような音。水ではない。

 濃い闇の中で、影が動いた。

 女皇は、何と言っていたか。

 ノアは息を止める。


 ――虚影に襲われた人は、数時間で虚影になる。


 ごり、ごり、と地を這う音がする。

 うめき声がきこえた。

 ノアは懐に手を忍ばせる。月奏剣がなかった。

 残響師の制服を脱いだことを後悔した。

 その時。


(目の、見えない子?)


 男の人の声がした。 


(もしかして、あの子?)


 ノアはゆるゆると立ち上がった。


「ルー……ルー……」


 ひび割れた声がした。はっきりと、ルールーと聞こえた。

 ノアは闇に飛び込んだ。


「ルールーのお父さんですか?」


 手を伸ばし、掴んだのは確かに腕だった。がっちりとした太い腕。あたたかい温もりがある人の腕に、ノアは安堵する。


「ルールーは無事です。一緒に逃げま――」


 その先が言葉にならなかった。

 背中を叩きつけられる。視界がひっくり返った。


「――え?」


 闇の中で赤い目が一つ、こちらを向いた。

 首が焼けるように熱かった。

 ふれると、手にべっとりと血がついた。

 襲いくる痛みにノアは悲鳴をあげた。

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