第15話 煙草
食堂から出ることができたのは、昼過ぎだった。腹をすかせた残響師たちの流れに逆らって、ノアたちは食堂を出た。
「おれは、ルカスさんの部屋に行くけど。グレンはどうする?」
「行かない。戻って、寝る」
とぼとぼとだるそうに部屋へ戻っていくグレンの後ろ姿を見送りながら、まだ体が本調子ではないのだとノアは不安になる。
プリンを手に、ノアはルカスの部屋へ向かった。買ったばかりのものを届けたかったのに、時間が経ってしまった。
部屋のドアをノックする。
「ルカスさん、おれです。ノアです」
返事がない。もしかしたら、まだ寝ているのかもしれない。
ルカスと相部屋だった時は、ノアがルカスを起こす係だった。強くて、やさしくて、完璧な残響師のルカスは、朝が苦手だった。何度起こしてもベッドに戻ってしまうし、服を着替えながら眠っている時もあった。ノアが起こさなければ、一日中寝ているのではないかと思うほど、ルカスは起きない。
もう一度、ノアはドアをノックした。
「ルカスさん、入りますよ」
ドアノブに手をかけたときだった。
「ノア」
後ろからルカスの声がして、ノアは「よかった」と振り返る。すぐ目の前にルカスがいた。何か言おうとする前に、ルカスの腕がノアを抱き寄せた。
ノアの背にぬくもりと重みがのしかかる。
「……ルカスさん?」
うつむいたままのルカスの表情はうかがえない。けれども、ノアはルカスが纏う空気から哀しみを感じていた。
「何か、あったんですか?」
問うと、ルカスが顔を上げる。青白い顔をしていた。疲れ切って、ひどく傷ついた瞳でノアを見つめている。
ルカスの冷え切った指先が、ノアの頬に触れた。
「ライ」
ノアは目を見開く。ルカスの瞳には、ノアではなく兄が映っている。
「ルカスさん」
ひどく小さな声で呼びかけると、ルカスは手を離した。その瞳に、動揺がはしる。
「すみません。疲れがたまっていたようで」
ルカスは飛び退いて体を離す。
「いえ。おれは、その」
「ノアがライに似ているように見えて、つい気を許してしまいました。申し訳ありませんでした」
「おれは、大丈夫です。大丈夫っていうか、おれでよければ」
ノアがそう言うと、一瞬ルカスは驚いた表情をした。それから、ぷっと噴き出す。
「大きくなりましたね、ノア」
頭をなで、ルカスはほうっとため息を吐いた。ようやくいつものルカスに戻ったような気がした。
「今から、昨日行った場所へ行きませんか?」
「あの虚影がいた?」
「ええ」
ノアは、ふと昨日の光景を思い出して気が沈む。
「グレンを呼んできます」
「グレンは休ませてあげましょう。今日は、私とノアの二人で」
ルカスは本当に疲れ切った顔をしていた。だから、ノアは困らせたくないと思いうなずいた。
「わかりました」
昨日と同じ道を通ってノアたちは歩いていた。途中、ルカスは花束を買った。白い花束だ。
海風が吹いて、昨日の集落が近づいていることを知らせる。細い煙が目の前をたゆたって、ノアは顔をあげた。
「ルカスさんって、煙草吸うんですね」
細い指で煙草をつまんで、ルカスは唇から離す。反対の方向を見上げて、吐息のように煙をはく。その仕草が大人っぽく見えて、ノアの心は躍った。
「煙草なんて、久しぶりに吸いました。本当に久しぶりです」
くすぶっている火を見つめながら、ルカスは笑って煙草の火を消した。
「ライにはよく怒られていました。体に悪いと」
「兄さんに? ルカスさんが怒られていたんですか?」
意外な一面に、ノアはうれしくなる。
「そうです。ですから、煙草はやめていたのですが……。今日は、ダメですね」
もう一度、ルカスは息をゆっくりと吐き出した。体に残った白い煙が、風にほどけていく。そこには、ノアが触れられない悲しみがある気がした。
「何か、あったんですか?」
力になりたいと、ノアは思った。今日のルカスは、触れれば崩れてしまいそうなほど弱々しく見えた。
「ええ。心が揺さぶられるようなことがありました。もう一本吸っても?」
ノアはうなずく。
煙草に火がつく。煙草の先がゆっくりと燃えていく。指先で挟んだ煙草を口元に持っていこうとせず、ルカスは眺めていた。
「もし私が、虚影になったら。ノアはどうしますか?」
ノアは息を止める。
言葉が出てこない。
ルカスはゆっくりと煙草をくわえた。
「おれは……」
「冗談です。忘れてください」
ルカスが吐き出した煙が、まるで生きているかのようにノアの目の前で揺れている。ルカスの心の中を代弁しているかのようだった。
「もし、そうなったら。おれはできる限り、ルカスさんの側にいますよ。ルカスさんに、刃なんて向けられません」
そう言うと、ルカスは小さく笑った。
「残響師として、お互い失格ですね。でも、ありがとうございます」
ルカスは煙草を落とす。赤く燃えた先端が地面に落ち、それを踏んだ後拾い上げて、ルカスは途方に暮れたように前方を見据えた。
「虚影になる魂は、決まっています。いえ、決められていると言った方が正確かもしれません」
ノアは黙って、ルカスの次の言葉を待った。
「我々が見て、見ぬふりをし、存在がないものと視界から追いやった人たちです」
ノアの脳裏に、同期のペルの声が蘇ってきた。
――俺、生まれてすぐ両親に捨てられてさ。
――なんて言うか、悪い言い方すると浮浪者が集まる集落で。
――あの人たち。たぶん、死んだら亡霊になるんだよ。
「彼らは、今、この国から法をかいくぐる者として、危険視されています」
「それは、間違っています! 住む場所がなかったり、両親がいなかったり……困っている人たちのことでしょう? 何も法をおかしていません。むしろ、助けるべき存在です」
「私もそう思います。けれども――」
ルカスは目をつむる。まぶたの裏に、エリーナの姿が映っている。女皇はこう言ったのだ。
*
「わたくしは今まで、困窮する人々を支え、支援してきたわ」
エリーナはくすりと小さく笑う。
「でも、裏切られたの。不正を働く輩が増えてきた。働かず、月神に恩寵も捧げないで生きる術を見つけてしまったの。真面目に働くこの国の民たちがかわいそうじゃない? それに加えて、海の向こうからやってきた民たちよ!」
エリーナは舌打ちをする。
「あいつらは本当に不届者。勝手にやって来て、好き放題。月神の加護を拒否して住み始めたし。そこに、裏切り者たちが加わった」
大きなため息が、部屋の中に吐き出された。
「誠実で真面目に生きた民たちは、残響師によって魂送りされる。それが救いよ。でも、あいつらは亡霊になれば救ってもらえるって魂胆なの。馬鹿にしてるわ」
エリーナはこめかみを押さえて、痛みに耐えるかのように眉を寄せた。
「あいつらを正しい道に導くには、時間もお金も、労力も、民の理解も必要なの。この大変さが、わかる?」
鋭い視線を向けられて、ルカスは黙るしかなかった。
「でも、全部一気に解決する方法があるのよ」
低い声だった。地面を這う霧のような冷たい声。
「みんな、虚影になればいい」
ルカスは言葉につまった。
「女皇陛下、それは――」
「わたくしが今、彼らを一斉に罰したら、民は非難するでしょ? でも、それって人の形をしているから。なら、化け物ならどう? 襲ってくる化け物を、わたくしが薙ぎ払い、民を守る。まさに、正義よ! みんな、わたくしを生き神だと讃えるでしょう」
「その化け物は――」
「お黙りなさい、ルカス。あなただって、斬ったじゃない。昨晩と今しがた。それに、どんな物語でも敵役はみんな醜いでしょ。見ている者にとって、その方が肌触りがいいからよ。化け物なら討伐されて当然。倫理観にひっかからないの。そういうものでしょ」
*
ルカスは、手元の白い花束に顔を寄せる。
今まで、沢山の虚影を斬ってきた。虚影になってしまった者だから、仕方がないと言い聞かせて。
その背景を正そうともしないで。
「私も、女皇陛下と同じなのです。陛下だけを非難するのは、何もせず陰口を言う者たちと変わらない」
ルカスから全ての話を聞いたノアは、何も言えなかった。胸の奥には感情が湧き上がり、燃え上がっているのに、喉元で溶けて消えていく。
泣きたい気分だった。
「でも」
ようやく出た声は、かすれていて風にかき消されてしまった。
(助けて)
虚影になってしまった少女の声が、頭の中でガンガンと響いていた。
忘れてはいけない声だ。
「声をきくのが、おれたちの仕事でしょ。ルカスさん」
誰にも言えなかった声を。
誰の耳にも届かなかった声を。
ノアはききたいと思った。
「おれは、ルカスさんやグレンの足ばかり引っ張ってしまう役立たずだけど。これだけは、間違ってない」
喉の奥がざらざらした。体の中で火がくすぶっている。
「命をそんな風に扱うために、おれは残響師になったんじゃない!」
抑えていた火が大きく燃え盛る。拳を固く握りしめた。
「女皇のやり方は、クソだ!」
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