第13話 女皇エリーナ
ルカスは片膝をつき、差し出された手の甲に軽く口づけをした。厄介なことになってしまった、と思う。
くすりと吐息をふくんだ笑い声に、ルカスは思わず目線を上げた。
唇の端をゆるくあげた少女が、髪をかき上げて払う。薔薇の芳醇な香りが部屋を満たした。
「残響師のルカス。……美形ね。わたくしの側近にならない?」
熱っぽい視線を投げかけられたら、どんな男でもなびいてしまうだろう。けれども、ルカスはこの少女の裏の顔を知っていた。
「ご遠慮しておきます」
「あら、面白い男ね。気に入ったわ。それとも、もう誰かのものなのかしら」
ルカスはどっちつかず、といった表情でほほ笑んだ。
「まあ、いいわ。昨日、その目で見たものを報告しなさい」
「はい。女皇陛下」
女皇エリーナ。十八歳にして教皇の座を引き継いだ、若き指導者。女皇の容姿が、月神像と似ていることから、生き神や聖女と呼ばれ崇められている。
だがそれは見た目の印象であり、女皇の内面は潰れたトマトのようである――と、ナルシスは評価していた。
上目遣いでエリーナを盗み見てから、ルカスは目を伏せ、淡々と昨日の出来事を語ってみせた。
「ふぅん。虚影が塊にねぇ」
エリーナは、右手小指の爪が気になるらしい。ルカスが報告している間、ずっと小指の爪をいじっていた。
「形を変化させた虚影は初めて見ました」
「そうでしょうね」
報告内容にエリーナは一度も驚きを見せなかった。
「ねえ、ルカス。その虚影の塊を見た時、あなたはどう思ったの?」
「危険だと感じました」
「ハズレ。わたくしが欲しい回答は、それじゃない。言い方を変えましょうか」
エリーナは立ち上がった。ドレスの裾を優雅に従え、ルカスの周囲をぐるぐると歩き回る。
「あなたがもし、残響師でなかったら。虚影の存在も何も知らない民だったら。突然、目の前に虚影の大群と、その塊が現れたら、どう思う?」
「化け物が現れたと恐怖するでしょう」
エリーナがピタっと足を止める。ルカスに向かって拍手をした。
「それよ。完璧な回答ね。ついてらっしゃい」
ルカスは一瞬、眉をひそめた。エリーナの真意がわからなかった。だが、女皇の誘いを断るわけにはいかない。
エリーナについて部屋を出ると、護衛が一人待機していた。背の高い若い男は、ノアと同い年くらいかもしれない。
「姫、あの場へ向かわれるのですか?」
護衛がエリーナにボソッと話しかけた。
「残響師がいるのよ。何があっても問題ないわ」
「ですが――姫」
ルカスが「姫」という呼称に違和感を覚えていると、それを察したのかエリーナが笑った。
「この人には、わたくしのこと姫と呼ぶように言ってるの。姫と
返事に困ってルカスは、ただほほ笑みを浮かべた。護衛の男が、険しい表情でルカスをにらみつけている。
「ハロルド、わたくしはルカスが気に入ったのよ」
「はい、姫!」
ハロルドは女皇に気のいい返事をかえしたが、ルカスの方を向くと再び険しい表情でにらみつけた。
――まるで番犬のようですね。
ルカスは出来る限り、ほほ笑みを崩さないように努力した。
――巻き込まれるのは厄介ですが、女皇が何を考えているのか知るには、絶好の機会です。
ハロルドににらまれながら、ルカスはエリーナと共に教会を出た。そこで待っていたのは、枢機卿だった。
「ハゲ、行くわよ」
ルカスは驚愕して、エリーナと枢機卿を交互に見る。エリーナはもうすでに数歩先進んでいる。その後ろをついて行く枢機卿が慌ててついて行く。
――枢機卿をハゲと呼ぶとは。
ナルシスの言う通り、聖女とは程遠い方かもしれないと、ルカスは思った。
エリーナは教会の敷地内にある、古い塔の前で立ち止まった。今は使われていない塔で、敷地の隅にあるので誰も近寄らない場所。
「開けて」
エリーナが言う。枢機卿とハロルドが女皇の足先にしゃがみこむ。
その時、ルカスは初めて地面に隠し扉があることに気がついた。男二人がかりで、地下の扉が開かれる。扉の先には、下へと続く階段が見えた。
「ハロルドとハゲは入り口を見張って。わたくしとルカス、二人っきりで行ってくるわ」
「姫! それは危険です。この男がまだ何者かもわからないのに」
「ハロルド」
エリーナが声を張り上げた。
「わたくしはルカスが気に入ったの。気に入ったものは、全部わたくしのものよ」
そう言い放ったエリーナは、手をふわりと持ち上げた。意味を理解して、ルカスは自分の腕を差し出す。
「行きましょ」
背後からハロルドの怨念のこもった視線を感じる。ルカスは頭の中で、プリンを買いに行くノアの姿を想像して現実逃避することにした。
――だが。
呻き声が聞こえてきた。奥底から湧き上がってくる不気味な声。苦しみと憎しみのこもった声が、地下から這い上がってくる。
ルカスの額には汗がにじみ出ていた。
「気がついた?」
エリーナが上目遣いでルカスを見上げた。下水の匂いが地下からたちこめている。
「この下に虚影がいます」
「そうよ」
「一旦、戻りましょう」
「嫌よ。この下に危険なんてないもの。ただ見て欲しいの、あなたに」
ルカスの腕から手を離すと、エリーナは先に階段を降りていってしまう。
「お待ちを。私が先に」
「あら、やさしいのね。でも、言ったでしょ。危険なんてないの」
ほらね、とエリーナは最後の階段をぴょんと飛び降りる。
「だって、ここは――。わたくしの実験所なんですもの」
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