第19話 雨の福音(アヴェ・リデル)
悪夢だった。
俺の意識が戻ったのは、リデルが俺の顔を覗き込んでいたときだ。
リデルが俺の頭を抱きかかえて、泣いた死刑の日。
それが続いているのかと、勘違いした。
しかし、どうやら、それは、違うようだった。
小さな子供の手足で、かと思えば急速に身体が成長したのだ。
なんだこれ。普通じゃない。
声を出そうとしても、魂が焼けついて、声がでない。
身体を動かそうとしても、魂が後ろ手で縛られ動くこともできない。
ただ、見ることはできる。
いや、違う。見せられるのだ。
死刑の次は、痴態を繰り広げるリデルのための肉人形か。
ふたたび、地獄が俺に訪れた。
一体、俺が何をしたというのだ。
俺から妹を奪い、未来を奪い、俺の父からも俺を奪った。
リデルが『愛してるって言って』とか、言ってくる。
誰が言うか。
誰がお前なんかを愛せるものか。
俺の身体をナメクジのようになめ回すな。
俺の身体に勝手に触れるな。
俺はお前の快楽のために存在してるわけではない。
馬乗りになり、快楽にふける姿を見せつけられる。
これが、俺の見たかった光なのか?
いや。違う。
断じて違う。
俺の求めた光は、妹と共に消えてしまった。
同じ朝を何度も何度も。何度も迎えて来た。
同じ昼を繰り返してきた。
同じ夜をどれだけ数えただろう。
変わるのは、天気と窓の外の景色だ。
終わらない悪夢で、俺の意識は擦り切れそうだった。
ウノと呼ばれる男と、ドゥエと呼ばれる女がリデルの心をかき乱す。
リデルは落ち着かないと性行為に逃避するようになった。
つまり。俺だ。
俺は尊厳も根っこから腐らせられるようだった。
そこからさらに月が満ち欠けを繰り返した。
リデルが食卓で意識を失うように眠ったことがあった。
トレと呼ばれる男であり女。
右目の眼窩は何もなく、左の眼窩には黒曜石が埋め込まれた異形だ。
異形ではあるが、一番、人間らしい異形。
こっそりと俺に話しかけてきた。
「ごめんね。ボクがリデルを壊しちゃった」
どういうことだ?
最初からリデルは、壊れていたんじゃないのか?
「そうかも知れないね。でも、決定打はボクなんだ」
どうしたいんだ?
「ボクたちは、本来、自由であるべきなんだ。あなたを含めて」
自由だろ?俺と違って。
「この家、小屋は、リデルの方舟なんだ」
方舟?何が言いたい?
「リデルは自分の好きなものだけをこの小屋に詰め込んだ。いつかの日に向けてね」
そうだな。
トレが唇を、俺の唇に当てた。
ドゥエと呼ばれる女が、リデルが死んだように眠った後、俺の身体を舐め回していたように。結局、こいつもか。と思いつつも、小さな違和感があった。
鼻腔を抜けていく香りだ。
怖くて、思い出したくもないが。
俺が、リデルと出会った場所。
俺が、処刑された場所。
あの大きな森の小さな街の、暴君のような領主の敷地内にあった丘。
ハルメギアの丘に咲いていたハーブの香り。
「あなたに、必要なものは分け与えたよ」
ありがとう。
そして、そのまま。
この体になって初めて。俺は、意識を失った。
意識が戻ると、俺は食卓にいた。
外では雨が降っている。
鼻腔に残るハルメギアの丘のハーブの香り。
ウノと呼ばれる男と、ドゥエと呼ばれる女がリデルとぽつりぽつりと、語っている。
視界の端で、トレは俺を見て、微笑んでいた。
今朝は、川魚の塩焼きが並んでいる。
相変わらず、リデルは口を付けていない。
鈍色に光る、銀食器。
ナイフで川魚を切り分け、俺に食べさせるフリをするリデル。
食べられるわけがない。
よく見てみろ。それを。
俺の意識は、ハルメギアの丘にいた。
現実の天気とは違い、穏やかに晴れていた。
セラ...。
俺の最愛の妹、セラ。
お前は幸せだったか?きっと、お前なら天国に呼ばれているだろう。
物語であったよな。
天国では誰もが幸せで笑っていられるって。
お前は、幸せで、笑っているか?
もう、苦しむこともなく、眠れているのか?
俺はもう一度、お前に会いたかった。
本当だ。お前の苦しむ顔じゃなく笑った顔を見たかったんだ。
元気な声で、兄さんって呼んでほしかった。
だけど、俺はそっちに、行けない。
俺が行くのは、炎の中だ。
涙が零れそうになり、空を見上げる。
背中から風がそっと吹き抜けた。
「リデル!!!」
声では、ない。咆哮だ。
リデルの持っていた銀のナイフを取り上げ、一気に喉をかき切る。
すごい勢いで血が吹き出し、リデルの呼吸に合わせて大量の血が溢れ出てくる。
髪の毛を掴み上げ、何度も何度も銀のナイフで喉をかき切っていく。
最後にリデルの身体がビクンと跳ねた。
呆気ない。
俺もそ...
トレは見ていた。
獣としか、いえない形相と声。
瞬きくらいの時間で、リデルの喉をかき切ったルシオ。
大量の血が食堂を赤く染めていく。
それでも。何度も喉をかき切り続け、リデルの絶命と同時に、ルシオの身体も崩れ落ちた。
そうだろう。
あのルシオは、リデルの子宮で再構築されたからだ。
トレは椅子から立ち上がり台所へ向かう。
ウノは灰になり、風になったドゥエと共に煙突から抜けていった。
そして、トレだけが取り残された。
トレは静かに両の手を見つめる。
そこに宿っていた【光】が、もうどこにもないことを悟る。
「…これで。全部、終わったんだね」
声は驚くほど穏やかだ。
安堵と悲しみが、同じ温度で溶けあっていた。
ハルメギアの丘を撫でる風。
どこからともなく運んできたのは、ハーブの香り。
それは、やさしい記憶の匂い。
トレはその香りを胸いっぱいに吸い込み、
ゆっくりと目を閉じた。
光が、頬を、指先を、髪の先をほどいていく。
輪郭は崩れ、形は霞のように淡くなっていく。
それでもトレは、最後まで微笑んでいた。
「...どうか、もう苦しみが、誰にも残りませんように」
それが、トレという存在がこの世界に残した最後の祈り。
風が静まり。
小屋にはただ、光の欠片のような。ひだまりのようなぬくもりだけが漂っていた。
雨の福音(アヴェ・リデル) 兎束ツルギ @tsurugi_102k
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