第9話

 深夜の王都の貧民窟の酒場では歌と政治への愚痴、それから娼婦や男娼たちが酒精の代替をしているらしかった。

 フィーロ王子との決別を決意したセルウスは王宮で着ていた服を古着屋で売ってから平民街の隅で日雇いの仕事をして一晩の宿を確保した。粗末な宿屋の一階に設けられた場末の酒場の、上手でも下手でもない歌手の歌を聞きながら、セルウスは恐ろしいほどに薄い酒を一人ですすっている。その左手の小指には赤く輝く糸が結ばれている。絶対に切れない糸、というのは真実らしく、一日埃にまみれてもその輝きがかげる様子すらない。

(運命糸、そのまま持ってきちまったな。……今更返しに行くのもおかしな話か)

 店の外でいきり立った酔いきれない酔っ払いたちが罵りながら殴り合っているのをぼんやりとながめてふと思い出すのは、昼間フィーロの胸ぐらをつかんだことだった。

(結局殺し損ねたな、あいつのこと)

 初めて出会った時、一度は本気で絞め殺そうとした。あの時の殺意は本物だった、自信を持って言える。けれど今はあのフィーロの首の感触を思い出すとぶるりと手が震えて、嫌な汗がにじむ。セルウスは情を交わした相手のすべてを許せるほど甘くはないが、だからといって情を交わした相手を殺せるほど冷血にもなれなかった。

(中途半端は俺もか)

 自嘲して水を飲んだ方がましなくらいの酒をちびちび飲んでいると、向こうの方で「だからさぁ!」と客の一人が叫び、同席者が焦ったようにそれを抑えた。

「バカ、落ち着けって!」

「国王陛下の悪口がばれたらしょっぴかれちまうぜ! 王は怖いお人だ」

「でも気持ちは分かるわ。少なくとも、王様が約束通り奴隷歩兵を解放して自由民にしていれば、復員した彼らが水道施設を壊すなんてことにはならなかったはずよ」

 ねえ、と娼婦と思しき女がセルウスの隣に座った。彼はそうだな、とだけ返事する。化粧品と香水の香りが懐かしい娼館時代を思い出させた。酒場の店主は大げさにため息をつく。

「食い物も酒の類も足りてないからな。水みたいな酒しか出せないんじゃ商売あがったりだよ。その水の供給も危ういって噂だし」

「ここの酒は元から薄いだろ!」

 ドッと酒場が湧いて釣られたようにセルウスも笑う。

「王侯貴族ってのはてんでダメだな。ちょっとだって期待したオレたちがバカみてぇだ」

「クラヴァラ王女様でしょう? 羊戦争の半年くらい前に王宮を追い出されてド田舎の領主になって、そこから出る様子も無い」

「それよりもっと期待外れなのはあの王子様のほうさね」

 その声に、店内の人々の視線が店の入り口に注がれる。カランとドアベルを鳴らして店内に入ってきた新規客の一団は松葉杖をつき、あるいは服の袖の片方をぶら下げ、あるいは肌の一部が変色していた。薄汚れて破れた服の下に奴隷の焼き印が見える。彼らが羊戦争に参加した元奴隷歩兵であるのは明らかだった。

 店内の先客たちが立ち上がって彼らに非難の声を上げる。

「てめぇら、よくも堂々と表を歩けたもんだな!」

「ここらの水道施設を壊したの、お前たちだろ!」

「自由民になれなかった腹いせにみんな水不足で死ねってか? まずお前らが死ねよ!」

 先客の一部が戸口に立つ復員兵たちに拳を上げたが、それが振り下ろされることはなかった。立ち上がったセルウスがその手首をつかんで止めたのだ。大柄なセルウスには敵わないと踏んだのだろう、先客たちは大人しく自分たちの席に戻る。元奴隷歩兵たちがカウンターに近づくとセルウスはポケットの小銭を酒場の店主に差し出した。

「彼らになるべく濃い酒を」

 その場の全員の視線がセルウスに突き刺さった。

「豪気だぜあの兄さん! 天下一の気前の良さだ!」 

「わ、悪ぃよ、自分の酒の一杯程度なら自分で払えるから!」

「俺たち何も返せるモンがねぇんだ」

「気にするな、戦友を気にかけるのは当然のことだ」

 セルウスがかすかに微笑んで胸元の奴隷印と捕虜印を見せると、復員兵の一団は瞳を潤ませて彼の手をぎゅっと握り、あるいはその背を抱擁した。

「兄さん、捕虜になっとったんか」

「巻角川渡河作戦に成功して、その後にな。隣国で三か月ほど過ごしたか」

「あんな過酷な作戦に参加したんか! ……帰って来れて良かったなぁ、本当に良かったなぁ」

 片腕の男が涙交じりの声でセルウスの背を撫でた。年上の戦友たちに囲まれながら彼はヒヨドリ小隊の面々を思い出していた。良かったわねぇ、と隣に座っていた娼婦の歌うような口ぶりが、かつての人生で比較的楽しかった娼館時代を思い出させてセルウスは目を細める。最悪な過去を語る口ぶりもつい軽くなる。

「ある日ヴァシリールの奴らがやって来て、俺たち捕虜を連れ帰りたいって言う。母国に帰れるとみんな喜んだが、ふたを開けたら奴隷として買われただけだった。おまけにヴァシリールに帰ってみたら自国は負けてて、それを理由に国王は俺たち奴隷歩兵を解放するって約束を破った」

 セルウスが肩をすくめる。許せねぇよなぁ、という声が周囲からボソボソと上がった。

「許せねぇよ」

 かみしめるように呟いたのは松葉杖の男だった。ささくれたカウンターの上に乗せた拳を血がにじむほど握りしめ、全身をぶるぶると震わせ、額をカウンターに押し付けてて声を絞り出す。

「許せねぇよ、王族が。俺たちに希望を見せて」

「ああ、国王アヴァロは俺たちの命懸けの戦いを」

「そうじゃねぇよ、オレが一番許せないのはフィーロ王子だ!」

 松葉杖の男は張り裂けんばかりの声で怒鳴ったかと思うと勢いよく体を起こした。周囲がしんと静まり返り、男の目から涙がこぼれる。

「オレは牛皮丘陵で戦ったんだ。フィーロ王子はその最前線で戦ってた、騎馬隊を率いて……オレたち奴隷歩兵は騎馬隊に負けないように一生懸命走ったんだ。王子のあの背を追いかけて、あの人と一緒に戦いたくて」

 そこが男の感情の限界だったらしい。涙でろくに言葉が紡げず、傍にいた火傷を負った者がその言葉を引き継いだ。

「フィーロ王子が奴隷歩兵部隊出身の少年従卒と背中を預けあって戦っている様は、我々の希望そのものでした。従卒が死んでも、あの方は大きな背で我らの先頭を行き、毅然と戦っておられた。この方がいるのなら戦後には我々は必ず解放されて自由身分になれる。……そう信じていた。信じて、いた」

 火傷の男が嗚咽混じりに問いかける。

「信じて、いたのに。それとも、我々が勝手にフィーロ王子に期待して、勝手に裏切られただけなのか? あの方は端から我々奴隷のことなどどうでも良かったのか?」

「……違う」

 セルウスのくちびるが囁くように否定した。あるいは、それは無意識のことだったかもしれない。

 セルウスは知っている。この二年間フィーロが地方巡視官として王都を離れ、何をしていたか。だがその実態をつまびらかに語ることは憚られた。ここで王位簒奪の計画の全てを語って情報が洩れるようなことは避けたかった。フィーロが震える背を誤魔化してついに決行までこぎつけた作戦を水泡に帰すなど。

「それは、それだけは違う」

「どこが違う!」

 黙って話を聞いていた酒場の先客の一人が、噛みしめるようにもう一度否定したセルウスの胸ぐらをつかんだ。

「現実を見てみろ、どこか違う! 実際問題、国王アヴァロの奴隷歩兵の解放の約束は果たされてない。それを咎められて玉座から追い出されてもいない。王子が、同じ王族である王子が同じ王都にいるにも関わらず、だ! それどころか王子は巡視で王都を留守にしがちだ。国中の食料不足も野党化した兵士のことも解決してない」

「……見捨てられたんだろ、アタシらは」

 セルウスの隣にいた娼婦が吐き捨てた。その胸元に奴隷の焼き印があることに、セルウスは今ようやく気づいた。

「別にその奴隷身分の従卒の子とやらも、王子様には大した存在じゃなかったのさ。だからその子が死んでも毅然として戦っていられた」

「それは違う!」

 反射的にセルウスが声を上げる。今の彼には分かる、戦友であり友人であり愛していた従卒を失った後、フィーロがどんな思いで戦っていたのか。

「違う、あいつは、フィーロは違う、あいつはずっと」

 言葉を紡ごうとしたセルウスのくちびるに、娼婦の指が封をするようにぴたりと押し当てられる。問いかける声は静かだった。

「お兄さん、アンタいったい、アタシたち奴隷と王子様、どっちの味方なんだい?」

 周囲が静まり返る。セルウスは言葉に詰まって黙り込む。正確には、喉元まで出かかった「両方」という言葉を飲み下したのだ。

 今、無性にフィーロに会いたかった。左手の小指に結ばれた赤い糸が輝いているのが目に入ると、セルウスはポケットに入っていた小銭を全てカウンターにばらまいた。

「少ないが、これで好きなだけ飲んでくれ」

「良いのかい?」

「……そういやさっきから気になってたんだが、兄さんのその指に結んでる糸、何なんだい?」

「願掛けみたいなものだ」

 言うや否やセルウスは店を飛び出して、夜空を背景に大きな影となってそびえる王宮を目指して深夜の王都を走った。空には三日月が低く輝き、夜明けがそう遠くないことを告げている。

(……中途半端などではない)

 セルウスは己の手を何度か握って開いて、それを繰り返す。

(フィーロと奴隷歩兵の戦友たち。俺にとってはどちらも大切で、どちらの味方もしてやりたい。どちらにも出来るだけ傷ついてほしくない。その気持ちが、矛盾せず俺の心に同居している)

 少なくとも、フィーロが命を懸ける覚悟で遂行する計画が成功してほしいと思う程度にはセルウスは彼を信じていて、ああいう場で思わず擁護してやろうと思う程度には彼を好きでいる。そして自分の気持ちを共有したいと思う程度には、彼はセルウスにとって特別だった。

(フィーロ、今戻る……! お前と共に、王位簒奪を必ず成功させる!)

 西の空に月がますます深く沈み、遥か東の空がかすかに白み始めていた。そして太陽が地上に顔をのぞかせる頃、王宮に地方領主ヤイ伯爵からの早馬が到着した。

「クラヴァラ王太子殿下が軍を上げ、攻城兵器と共に王都に進軍しているとのこと!」

「これに合わせて一部の地方領主も自領の兵士を連れて進軍している模様!」

「クラヴァラ殿下の王都到着は六日後になると思われます!」

 寝台からたたき起こされた国王アヴァロは夢の世界から引っ張り出されたことに苛立ちつつも、的確な内容で臣下たちを叱咤した。

「各地の領主は何をしておる! あの小娘とそれに従う領主の軍を止めんか。これは国王たる余への謀反であるぞ!」

「それが、足止めしていたはずの兵士や奴隷が反乱軍に参加するケースもあるようで」

「反乱軍は教会の坊主共を引き連れて川を下っております、聖職者を攻撃することをためらう者も多く」

 話を聞いている間にも各地からの早馬が次から次に王太子挙兵を報告し、宮廷は一瞬にして上を下への大騒ぎになった。ヴァシリール国王は舌打ちし、息を切らしてはせ参じた重臣たちに命じた。

「クラヴァラはこの王都を攻め落とす気だ! 王命である、全ての城門を固く閉ざし、攻城戦に備えよ! 何人たりとも決してこの王都に入れるな。市民、貴族、兵士、浮浪者はもちろん、それがたとえ水道の修理資材や食料を運ぶ商人、農民であってもだ!」

 血相を変えた王の命令に重臣たちはぎょっとなった。奴隷制度支持派として意見を同じくする王とその一派ではあるが、その他の点についても同じ意見を持つとは限らない。重臣たちは揃って王に抗議の声を上げた。

「水道は王都の生命線! 破壊された水道施設を修理しなければ、いずれ王都は本当に干からびます!」

「そうなれば対王太子殿下の防衛戦に耐えられないのはもちろん、これからますます気温の上がるこの初夏のこと。水不足は衛生状態の悪化を招きます!」

「たしかに攻城戦では防衛側の我々が有利。難攻不落の王都の大壁もあります。しかしそれは、水と食料が万全である場合の話!」

「ただでさえ王都は食糧不足なのです、近いうちに限界が来ます! 食料が無ければ大壁の防衛にあたる兵士たちも動きません!」

 だが歴史ある大壁の街に座すヴァシリール国王は頑として重臣たちの言葉を受け入れなかった。

「貴様ら、歴史を忘れたか! かつて、そうやって攻城戦のさなかに外からの資材や食料を受け入れたばかりに王都が内側から攻略されたこと、知らぬわけではなかろう!」

 王命、と言われたうえ、こう反論されては重臣たちも押し黙る以外なかった。国王アヴァロは欲深くどちらかと言えば暴君の類だったが、決して暗君ではなかった。ゆえに、最後にこう命じた。

「地方巡視官フィーロ王子とその補佐官トトカ、騎士ムムを拘束せよ。王子は地方巡視官でありながら反乱の予兆を見逃した。何より、王太子クラヴァラ王女と仲が良い。反逆者のスパイの可能性がある」

 だがそれすらフィーロの予想の範疇だった。それゆえ、国王の命令を受けた兵士の一団が王子の館に押し寄せた時、館の主は至って落ち着いていた。

「焦るな。このフィーロ・ヴァシリールは逃げはしない」

 そう言われて、急な命令で王子の館に向かった兵士たちは気圧された。王子はアンナが注いだ食後の茶を優雅なしぐさで飲み干すと、一言も発さず椅子から立ち上がった。振り返りもせず自ら兵士と共に館を出ようとする王子だったが、館のそばの植え込みから「待て!」と聞きなれた声が響くと、若草色の瞳を丸くしてそちらに視線をやった。

 木々をかき分けてセルウスが姿を現した。王都の端にある貧民窟からここまで走ってきたのだ。全身汗みずくになったセルウスは息も整わないままフィーロに駆け寄った。

「フィーロ、王子! 俺、」

 押しとどめようとする兵士をかき分け、眉間に皺を刻み泣くのをこらえるような顔をしてフィーロに左手を伸ばす。フィーロもまた手を伸ばし、互いの小指を絡めて無言のまま瞼を閉ざす。再びそれが開かれたとき、フィーロは若草色の瞳に凛とした光を宿してセルウスに勝気に笑いかけた。

 大丈夫、セルウスの言いたいことは伝わった、と言わんばかりのその表情にセルウスもまた頷き返す。

 王子は居住まいを正すと潔く前を向き、補佐官トトカや護衛騎士ムムと共に自らの足で館を出て西の塔へと向かっていく。 

 その背をセルウスは言葉も無く見つめて見送った。朝の光を浴びた王子の後ろ姿はどこまでも眩しく、その歩みに迷いはない。そしてまたセルウスにも迷いはない。

(……待っていろ。作戦通り、王太子が王都に着いたら必ず俺とリリアンが助けに行く)

 胸のつかえがとれたような、胸が熱くなるような心地になって、セルウスは嵐の去った館の玄関先にへたり込んだ。それをどうとらえたのか、学のない奴隷ないしは元奴隷である、という理由で放置された3人のメイドが彼を励ました。

「セルウスさん、立てますか?」

「ああ、ありがとな」

 アンナの小さな手を取ってセルウスが立ち上がると、エルリダとリリアンが声を低くして言った。

「フィーロ殿下が殺されることだけは無いよ。国王陛下は殿下に愛憎半ばの執着を向けてる」

「下手に抵抗すればそれこそ陛下は何をするか分からんからな、一度大人しく捕まった方が安全だ。……それよりも大変なのはここからだぞ」

 国王の甥への執着ぶりはあの酒宴で見た通りだ。しかしそういった自分の愛情と、政治上の問題を切り離して考えることができるあたり、国王アヴァロは決して能無しではない。そしてリリアンの言葉通り、大変なのはその後だった。

 巨大な王都を支える食料は常に外から運ばれてくる。だが今、国王の命令によって街と外部を隔てる大壁の門は全てが固く閉ざされ、食料が入ってくることも無ければ、破壊された水道の修理も目途が立たなくなった。宮廷に飢餓が蔓延するのも時間の問題だった。結果として王都は本格的な水不足、食料不足に陥った。

「フィーロと王女様の計画通りだな。……見たか? アンナ。宮廷の食糧配給に貴族の使用人が並んでた」

「平民街の富裕層区画が奴隷に襲われたと聞きました」

 小さなアンナが腕に抱えた配給物資を見つめて物憂げにつぶやく。王都が封鎖されて四日も立つ頃には煌びやかな大都市は目に見えて荒れ始めた。物資不足のみならず、壁に囲まれた街から出られない閉塞感、戦闘の気配が住民たちを苛んでいた。

 一方、フィーロ王子とその部下たちの現状についてセルウスが通りすがりの宮廷人に問うてもろくな答えは返ってこない。自分たちの仕事で手いっぱいのようだった。

 館の庭の隅でセルウスが背を丸めて小指に結ばれた運命糸を見つめる。ほどけず汚れず赤くきらめくそれがひとまずフィーロの命を保証している。だが命があるからと言って無事なわけではない。彼がまた一人で背を小さく縮こまらせて震わせているのではないかと思うと、セルウスの心臓がズキズキと痛んだ。

 騒がしい夕暮れの城下町を見下ろしてため息をつくと、その隣にリリアンが立っていた。

「……何してんだリリアン、もう夕飯だろ」

「最近どうにも腹が減らん。お前こそ早く食堂に行け」

「羊戦争で食いすぎたせいで二年越しに腹いっぱいになってきた」

 奴隷と元奴隷しかいないせいか、それとも拘束中のフィーロ王子の部下であるからか、宮廷本部からこの館に配給される食料は少ない。事前に備蓄していた食料も、館付きの使用人や兵士と分け合うと心許ない。さっきから二人して腹の虫が鳴き止まないが、幼いアンナに「食欲がない」と言ったばかりだった。

 不意にリリアンが言った。

「国王は尋問のため、殿下のおられる西の塔に毎日出入りしているらしい。トトカ殿とムム殿も塔内だ」

 その言葉にセルウスは焦りをあらわにした。酒宴の席で自身の甥に対する下心を隠さなかったあの国王のことだ。今頃フィーロがどんな扱いを受けているか、それを考えると嫌な想像ばかりが頭をよぎる。

「今はどうしようもない。だが殿下を信じろ。殿下もお前が必ず助けてくれると信じているはずだ、だからあの時あの方は笑ったのだ」

 リリアンの言葉でセルウスの脳裏に鮮やかによみがえるフィーロの勝気な笑み。震えることのない大きな背。

 大きくため息をついた元奴隷のメイドはセルウスの隣に座り込んで自嘲気味に呟いた。

「……お前だったんだな」

「え?」

「あの方がご自身の痛ましい傷を晒し、震える背を預けられる相手は」

 エプロンのポケットからいびつな手巻きのタバコとマッチを取り出して、リリアンは苦笑する。奴隷身分にとってタバコは日常生活で手を出せる嗜好品ではなく、羊戦争に従軍した際に時たま支給される高級品だった。 

「私もクラヴァラ王女殿下も、お前以外の誰も彼も、ソレにはふさわしくなかったのだ」

 咥えたタバコに火をつけて紫煙を吐き出すと、彼女は喫煙道具一式をセルウスに渡して誰に聞かせるでもなく語る。

「戦場で大切な者を失った殿下と同じ傷を負い、身分も立場も関係なく殿下に真っ向から感情をぶつけて対等であることを体現し、あの方を守ろうとするお前でなくては駄目だったのだ。……王子として民を、上司として部下を守らんとするあの方を守るには、忠誠を誓った我々では駄目だった」

 リリアンは悔しがるような恨みがましいような顔で、赤く輝く運命糸の結ばれたセルウスの小指を見つめる。

「駄目だったのだ。あの方のそういう高潔さに惹かれてそのお傍にいようと忠誠を誓い部下になったはずの我々は、殿下にとっての守るべき存在にしかなれなかった」

 セルウスが思い出すのは、王太子の館に泊まった夜のセルウスの言葉。自分が涼しい顔をしていなければ部下たちを不安にさせてしまう、と。だから何でも平気なフリをしている、と。

 フィーロ王子の側仕えの女が顔を伏せる。

「……結局、我々はあの方を孤独にしただけだった」

 手作りの紙巻きタバコに火を灯して吸い込むと、懐かしい香りがした。それはセルウスにとって、戦場のもう一つの香りであり、あのヒヨドリ小隊の香りでもあった。あの頃、隊長であるレット以下、隊員の誰一人としてまだ子供だったセルウスが喫煙することを許しはしなかった。

 彼は煙を吐き出して、黙って続きを促す。

「同じ王族で姉君である王太子殿下だって駄目だった。所領を離れられず羊戦争に参加できなかったクラヴァラ殿下では、戦場でシギを喪ったフィーロ殿下の苦しみを拭い去ることはできなかった。……お前が」

 リリアンの声は絞り出すような響きだった。

「お前だけがあの方の傷を撫でて、その一番柔らかく深いところに触れてみせた。そうしてほしいと殿下ご自身が望んでいたことに、お前だけが正しく応えられた」

 後には長い沈黙があった。顔を上げたリリアンは言いたいことを全てを言ったようで、煙と一緒にほぅと息をついて短くなったタバコを見つめた。セルウスもリリアンも、もう何も言わなかった。不思議と、互いにどんな顔でどんな心持ちであるか手に取るように分かった。

 誰かを守ろうとして命を張る者を今度こそ守りたかった。

 あのフィーロという一人の男を守りたかった。

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