【閑話】ある侯爵令嬢の恋物語2



 カランセベシュ家の別邸で、私はずっとお姉様に刺繍を見てもらっていた。


 お姉様が提案してくれる図案はどんどん簡単なものになっていく。何度も隣でどのように刺すか見せてくれるが、それでも私は上手く刺すことができなかった。


 先程完成させたハンカチの刺繍は、小鳥と言うよりも、まるで落ちる葉のようだ。


 明日は馬での遠乗りを控えている。

 もう、時間切れ。


 まあ別にいいわ。

 明日、無理をして渡す必要なんてない。

 自然な形で彼にハンカチを渡すには、明日が最適だっただけの話。


 そう……上手くできたら渡せばいい。


 そんな事を思っていたつもりなのに、口と身体は全く正反対のことをする。


「糸がなくなったから部屋から取ってくるわ」


 お姉様にそう告げて、私は一つ下の階にある自分の部屋に戻った。しかし、いつの間にか使い切っていたらしく、いくら探しても糸は残っていなかった。


 ため息を吐いてお姉様の部屋に戻ろうとした時に、ふと視線を向けた窓の外で動く人影を見た。


 驚いてカーテンを小さく開ける。

 その人影は──アークレイ公爵だった。


 あの優秀と名高い公爵閣下が。

 花を持って自分の屋敷のバルコニーをよじ登っている。


 その姿はなんとも滑稽だった。

 花を渡したいなら玄関を通ればいいのに。

 

 でもお姉様に不埒な行いをする可能性がないわけでもない。私は急いでお姉様の部屋に戻り、扉の前で異常な物音がしないかと耳を立てる。


 バルコニーで話してるのかもしれない。

 重厚な扉が音を阻み、殆ど声は聞こえてこなかった。


 もどかしい気持ちに、いっそ入ってしまおうかと反芻しながら悩んでいると、突然ドアノブがガチャリと音を立てながら動きお姉様が部屋から出て来た。


 お姉様は私が扉の前にいた事に一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「丁度良かった」と笑顔になる。


「シャーロット。お菓子を作りましょう」


「え?この時間に?使用人も部屋に下がってるわ」


「大丈夫だから任せて」


 その後しばらくして、屋敷の使用人が花瓶を届けに来た。お姉様は待っていましたとばかりに、その使用人に頼んで台所を貸してもらう。


 何がどうなっているのか分からない。

 ただお姉様に言われるがまま、私はその場で一番得意な焼き菓子を作る。


 焼きたての方が美味しいものは、朝もう一度台所を借りて作った。


「これでどうかしら」


 お姉様は、私が作ったお菓子を下手くそなハンカチで優しく包み、ポーチへとしまって私に渡した。


 確かにお菓子を渡す体でなら、私にも渡すことができるかもしれない。


 まだ少し熱を持っている焼き菓子。

 その熱が、ポーチの布を伝って私の手を温めた。



♦︎ ♦︎ ♦︎



 ぶ厚い雲が空を覆う中、私たちは遠乗りへと出発した。


 彼の腕の中は安心感に満ち溢れていて、思わず緩みそうな頬を必死に抑える。


 しかし、物事はそう簡単にうまく行かない。


 もうじき目的地に到着するだろうという所で私達は雨に見舞われた。

 その上お姉様の馬が急に暴れ出し、それをアークレイ公爵が追いかけていく。


「どこかで雨を凌いでいろ」と彼に言われたエイブラハムは馬を降りてその場に馬を繋いだ。


「シャーロット、濡れるといけないからどこか探そう」


 そう言って彼は、上着を脱いで私の頭にそっとそれを被せた。


 まだ彼の熱が残る上着が、風を受けて少し冷えた身体を優しく包み込む。


「ちょっと!何するのよ!」


「身体が冷えるかもしれないから、嫌かもしれないけど羽織ってて」


 嫌なわけない。

 でも、それすら伝える事が出来なくて、顔を背け温かい彼の上着の裾を手で握りしめた。


 足場の悪い森の中を少し歩くと、二人なら入れそうな岩場の陰を見つけ、そこに身を寄せる。

 それまでパラついていた雨が、急に強まり、ポタポタと音を立てて木々の葉や岩を叩き始めた。

 

「お姉様……大丈夫かしら」

 

「アークレイ公爵がついているから心配はいらないさ」


 ふと漏らした言葉に、エイブラハムは私を安心させようと笑顔を向けた。


 確かにお姉様なら馬をすぐに落ち着かせているだろう。公爵があれほど慌てて追って行ったのだから万が一があっても何とかしてくれそうではある。


 何故ならお姉様に花を届けるためだけに、自分の屋敷のバルコニーをよじ登った人である。


 何故公爵がそんな奇行に走ったのか理解はできないけれど。

 

 すると、ぐうという音がすぐ隣で聞こえた。顔を横に向けると、エイブラハムがはにかみながらお腹をさすっている。

 

「しかし腹が減ったな。もう少し朝食を食べてくるべきだった」


「昼食はお姉様が持っていましたからね」


 そう言えば、朝の調理場は私が使っていた。朝食を作りに使用人が出入りしていたが、私たちの昼食を一緒に作っている気配はなかった。


 お姉様は大きなバスケットを持っていたが、どこで昼食を用意したのだろう。


 ……まあそれはいい。

 私は、首から下げたポーチを握りしめた。

 中からハンカチに包まれたお菓子を取り出して、そっと開く。


「……わたくし、お菓子を持って来ていますの」


「え?」

 

 少し驚いた顔をしたエイブラハムは、私の手の上にある焼き菓子に視線を移した。そして、ふと何かを理解したように笑顔を浮かべる。


「食べさせてくれ」


「え?! どうしてよ!」


「手が汚れてるんだ」


 エイブラハムは私の返事を待たずに口を開けた。

 雨音が私の背中を急かすように優しく押す。


 恥ずかしくてたまらない。


 けれど、ここで照れてしまったら元も子もない。可愛げがない自分を必死に押さえ込む。


「美味しいかどうかは分かりませんからね?!」


 そう言い訳をしながら、一番自信のある焼き菓子を彼の口に入れた。

 サクサクという音を立てながら、彼は焼き菓子をよく味わい、優しい笑顔を私に向ける。


「美味しいよ。雨のおかげで久しぶりに君のお菓子にありつけたな」

 

「なっ……!!!」


 恥ずかしさの限界だった。彼にハンカチごと焼き菓子を押し付けて、私は顔の赤さを隠すように両手で覆う。


 その時──。

「あっ」という声が森の奥から聞こえた。


 顔を覆った両手の隙間から、その声がした方角に視線を向けると、そこには草陰からこちらを覗くお姉様と公爵がいた。

 何故か二人とも、木々の色と似た雨除けのローブを身に纏っている。


 声を出したのはアークレイ公爵のようだ。

 お姉様は声を出した彼を小突いた上で、彼を思いっきり睨みつけていた。


 何となくそれだけで全てを察した。

 私は上手くお姉様に乗せられていたらしい。


 きっとここで私が二人に手を振れば、声を出したアークレイ公爵は完全にお姉様の怒りを買うだろう。

 

 しかし……天下の公爵閣下がお姉様に言われるまま雨除けのローブを被って森の中で息を潜める姿は、まさに彼がお姉様に向ける愛情の大きさそのものに見えた。


 私は──見なかったことにすることに決めた。

 

 彼の滑稽な愛の献身は、いつかお姉様の固い心を解きほぐすかもしれないと思ったから。

 

 私の可愛げのなさをエイブラハムが解したように。


「あっ」と小さな声が今度は横から聞こえた。


 横を見るとすでに全ての焼き菓子が布の上から消え、私が刺した下手な刺繍のハンカチが現れていた。


 エイブラハムは驚きに目を見開くと、下手な刺繍のハンカチと私を交互に見る。


「あのね、エイブラハム。私……」

 

 今なら私は少しだけ彼に素直になれる。

 そんな気がした。

 




♢───♢───♢


シャーロットの恋物語でした。

本編に戻ります。


待ち続けたエイブラハム。超寛容。


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