第2話 少女の悪夢
おぼろげな意識の中、少女が真っ先に感じたのは柔らかさだった。
記憶からだいぶ薄れてしまっていた、上質な枕と布団の感触。身を預けてドロドロに溶けてしまいたいくらいの温もり。
しかし、目を覚ました瞬間、彼女は反射的に起き上がる。
「……っ!」
自分がいる部屋の風景も目に留めず、少女―――リエル・エルティケは素足のままベッドから出て、そのまま飛び出した。
「あれ」
「……っ」
そして、台所に立っている男を見て息を呑む。
異常な雰囲気の男だった。藍色の髪と、虚ろだけど光を宿している灰色の瞳。
沈んでいて、落ち着いている印象とはあまり似合わない筋肉質の体。高い背丈。
戦士を思わせるような風格なのに、全体的に疲れて燃え尽きているようにも見える。年齢は、20代半ばくらいだろうか。
リエルは、目を大きく見開いて男を見つめる。
男は、肩をすくめてから言った。
「起きたのか。もっと寝ててもよかったのに」
「………」
「ちなみに、朝ごはんはスープとパンだ。悪いね、あんまり料理に興味ないから」
昔は、生き残るために仕方なくやってたけど。
男がそう言いながら笑っている姿を見ると、リエルの警戒心は薄まるどころがどんどん強くなっていく。
今まで何回も経験したことだった。無駄に顔だけは気に入られた自分を搾取するために、大人たちが企んだ下劣な作戦。
先に自分を安心させて、隙を狙って襲い掛かってくるパターン。だから、リエルに迷いはなかった。
彼女はすぐさま間近にあるドアに向かって、走り出す。
「――――」
普通の男だったら、一歩遅れてリエルが逃げ出したのを察して、追いかけるだろう。リビングが狭いため、出入り口がリエルのすぐ近くにあったのだ。
しかし、リエルが走ってドアノブに手を付けるも前に、男が目の前で立ちはだかる。
何の音もなく、当たり前のように。
「……ぁ、ぁ」
「……なんで急に逃げ出すんだい?」
「…………めて」
「うん?」
「やめて、ください。お願いですから……やめてください……」
すぐにでも泣き出しそうになるリエルの顔を見て、男の目が見開かれる。
普通の反応じゃない。まるで、今から自分が何かをされる前提で話が進められている。明らかな違和感があった。
「何もしない」
だから、男は落ち着いた声で伝える。少女の恐怖を少しでも薄めるために。
「何かをするために君を連れてきたわけじゃない。ただ、道端で死にかけている子供を見ていられなかっただけだから」
「………」
「俺はジンって言うんだ。君の名前は?」
「………」
リエルは答えない。ただ首を振りながら、徐々に後ずさるだけ。
ジンはそんな少女を見て、苦笑しながら思い返す。
雪が降り積もっていた真夜中、このまま自分を死なせてと懇願してきた少女の姿を、頭の中で映す。
導き出される答えは明白なものだった。
「君は、あまり生きようとする意志がないんだね」
そして、男は膝を折ってから、ニヤッと笑って見せる。
「また偶然だな、それは。俺も同じだからさ」
訳が分からない言葉に。
リエルは動きを止めて、呆然と目の前の男を見つめた。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
結局、リエルが何かを食べることはなかった。朝も、昼も、夜も、彼女は水も飲まずにずっと部屋に閉じこもっていた。
彼女に食事を強要することは恐怖の種になると感じたジンは、隣の部屋でのんびりと過ごしていた。
そして、夕闇が完全に消えて夜の帳が下りた時。すべての人が眠りにつく深夜。
未だに起きていたジンは、隣の部屋から異変を感じていた。
『―――めて、やめて!!やめてぇえええ!!!』
壁の向こうから聞こえてくる、鮮烈な悲鳴。
ジンは直ちにベッドから起き上がり、隣の部屋に向かう。
問答無用にドアを開けて中に入ると、ベッドの上でもがいているリエルが見えた。
「お母さん、ダメ……!!やめ、やめ――――」
ジンはすぐに手に魔力を込めて、リエルの額に触れる。
神聖魔法【サンライズ】。昔、一緒に生き残ろうと誓った司祭の仲間に教えてもらった、状態異常を癒すスキルだ。
効果は抜群だったのか、乱れていたリエルの呼吸が少しずつ落ち着いて行く。
しかし、それと同時に彼女の目が開かれた。
「…………」
「…………」
か弱い小動物を連想させる面持ちに、ジンは深い息をつく。
綺麗な子だ。年齢的にはたぶん10歳くらいなんだろうけど、彼女は既に美人の類に属する外見を持っている。
白金色の短い髪と、エメラルドのように輝く緑色の瞳。
栄養が取れていないため体こそ貧相だが、誰がどう見ても可愛いとしか言えない見た目だった。
……この見た目のせいで、彼女はずいぶん酷い目に遭わされてきたのだろう。
「……すみ、ません」
「えっ?」
「起こしてしまって、すみません……」
……まさか謝罪されるとは思わなくて、ジンの口が若干開かれる。
しかし、驚きはすぐに柔らかな笑みへと変わった。
「嫌な夢でも見てたのかい?」
「………」
「寝るのが怖いんだな」
「………」
肯定としか思えない沈黙の後、ジンは静かにこぼす。
「大丈夫だ」
「……え?」
「悪い夢を見たら、また起こしに来る。俺、眠りがけっこう浅い方なんだ」
「………」
「それじゃ、俺はこれで。おやすみ」
短い言葉だけ残して、ジンは部屋から去って行ってしまった。
一人取り残されたリエルは、さっきの言葉を噛みしめる。
悪い夢を見たら、また起こしに来るから。
……その言葉はどう捉えても、自分に対しての優しさしか滲んでいないような気がして、少女は混乱する。
あり得ない、あり得ないとリエルは何度も首を振る。
ろくな食事ができなかったせいで、頭は冴えていないからだ。無償の善意が存在するわけがない。
この男もきっと、他の大人たちのように自分を利用するつもりでいる。そんな屈辱を味わうくらいなら、死んだ方がマシだ。
「………」
その内にまた眠くなって、少女はベッドに横たわる。朝と同じく、枕は柔らかくて布団は暖かかった。
たったそれだけの感触で、リエルの心が少し揺らぐ。しかし……無理やりポジティブな可能性を押し殺して、少女は目を閉じて眠りにつく。
死んだ母親が殴られるところを夢に見ないよう、静かに祈りながら。
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