ー 5 ー



 風の音が、少し遠くなった気がした。


 最初は気のせいだと思っていた。


 だけど最近は、窓を開けても頬を撫でる感覚が曖昧で、あの日感じた冷たい風の痛みが、もう思い出せなくなっている。


 ——ああ、また一つ、世界が薄れていく。


 医師の言葉はいつも穏やかで、まるで深刻なことなんて何もないみたいに話してくれる。


 でも僕はわかっていた。


 “その優しさ”が、終わりの近さを示していることを。


 今日も病室のドアが開いて、看護師さんが薬を置いていく。


 目を合わせて笑ったつもりだったけれど、もしかしたら僕は、ちゃんと笑えていなかったかもしれない。


 鏡を見ても、自分の顔が少しずつぼやける。


 体温も感じづらくなった。


 ベッドに寝転がっても、シーツの冷たさがわからない。


 まるで世界の輪郭が、少しずつ滲んでいくみたいだ。


 それでも、ひとつだけ変わらないものがある。


 ——陽翔の声。


 あの人の声だけは、不思議とはっきり聞こえる。


 音じゃなくて、心の中で響くような感じ。


「また会おうな」


 そう言って笑ってくれた日の声が、今も頭の奥で何度も繰り返されている。


 僕はその声を抱くように、静かに息を吐いた。


 ——風が吹いた。


 だけど、もう匂いは感じなかった。


 でもその風の中に、陽翔の名前が混じっている気がした。


 “今日の風には名前をつけた。——陽翔。”


 そう言った夜を思い出す。


 あれから、星を見上げるたびに目が霞む。


 光が滲んで、空と混ざっていく。


 それが悲しいはずなのに、不思議と怖くはなかった。


 このまま、全部の音と匂いと光が消えていっても、君のことだけはきっと、消えない気がしたから。


 ——僕がいなくなっても、風はきっと吹く。


 その風が君に届いたら、少しだけでいい。


 僕のことを思い出して。


 その想いが届くたびに、僕はまだこの世界にいられる気がする。


 だから、どうか。


 君が走るとき、風を感じて。


 僕はその中で、君を見ているから。


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