ロールキャベツにうってつけの日
相馬みずき
第1話:日常
「ねえー、マスター。このままだとお店つぶれちゃいますよ-」
いつかのテレビドラマか映画の中で聞いたことがある台詞が、無人の喫茶店内に慎ましく流れるジャズ・クラシックを上書きするように響いた。
カウンターの内側に立ったまま読んでいた新聞をたたみ、マスターと呼ばれた男――
発言者である
彼女は店の客ではない。市内の大学に通う女子大生で、この店のアルバイト店員だ。
アルバイトの店員が客席に腰をおろし、雇い主に軽口をたたいても良いものか。
結論から言えば一向に構わない。
なぜなら彼女が怠惰でこうしているのではないことを矢上は理解しているからだ。
彼女を雇って11ヶ月になるが、これまで無遅刻無欠勤。大学生にありがちなバイト中のスマホいじりもせず、実に良好な勤務態度。物覚えも良く、たまに来るお客にも失礼にならない程度に明るく愛想良く接してくれる。
今日も彼女――北山心春は時間どおりに出勤してきて、客のいない店内をくまなく掃除し、食器を一つ一つピカピカにして定位置に片付け、さらにやることが無いからと観葉植物の葉を一枚一枚ていねいに拭いてくれた。最後に入り口の近くにあるパキラの鉢に水をやり終えると、彼女にできる仕事は本当に無くなってしまった。
現在の時刻は18時45分。
喫茶店『すのうどろっぷ』、この時点での本日の来客はゼロである。
お気楽な女子大生でなくても「この店大丈夫なのか」と不安になることだろう。
暇だけあってもスマホもゲームもできず、店内にはマスターの矢上の拘りによりテレビも置いていないのだから、彼女のような元気と若さあふれる学生にとってはつまらない仕事先であるに違いない。
「心春さんは手厳しいですねえ」
細い銀縁のフレームに囲まれたレンズの奥で、矢上は目を細めた。彼の年齢を示すように、目尻の皺が深くなる。
白髪混じりの灰色の髪は襟足で短く切りそろえられて清潔感があり、落ち着いた喫茶店によく似合っている。その一方で、固めることなく降ろしたままの前髪は、彼の気取らない性格を表しているかのようだった。
「一日くらいお客が来ない日もありますよ。商売のコツは慌てないことです。慌てない慌てない、一休み一休み」
「なんですか、そのフレーズ」
「あれ? 知りませんか?」
「知りません。何かのCMとか?」
「……気にしないでください」
矢上は新聞を横に片付け、カウンター奥の厨房へと向かった。
「とはいえ、今日はもうお客さんもないでしょうし、少し早いですがまかないをお出ししますよ」
「え! いいんですか!」
しばらくして、矢上は心春の前に白磁の深皿を載せた銀色のトレーを運んできた。
「実は新しいメニューを考案中でして、まだ試作品なんですが、よければ感想も聞かせてください」
「新しいメニュー?」
「お店の看板メニューになるかなと思いまして」
「えー? 慌てないとか言って、マスターもお客が少ないの気にしてんじゃーん。かわいー」
「どうぞ」
心春の言葉の後半を無視して、矢上はカウンターに深皿を置いた。
「わあ!」皿をのぞき込んだ心春が少女のような声を上げる。
白磁の皿の中に、キャベツの葉の包みが三つ。トマトベースの赤いスープの中に浸かっていた。
「ロールキャベツですか? 私、ロールキャベツ大好きなんです!」
「ラハナ・サルマスです」
「らはな……?」
フォークとナイフを持った手を止めて、心春は聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「ラハナ・サルマス。トルコ料理ですよ」
「へえ」
どう見てもロールキャベツだけどなあ、と心春はキャベツの包みの一つにナイフを入れる。
よく煮込まれて柔らかくなったキャベツは、全く抵抗なくサクリと切れた。
外側に巻かれたキャベツと挽肉で作られた中身がバラバラになることもなく、ぴったりと合わさったままの断層が綺麗だ。
切り分けたそれをフォークで貫き、キャベツと中の具を一緒に口に入れる。
じゅわりと肉汁が広がり、同時に鼻に抜けるスパイスの香りと、挽肉に混ぜ込まれた野菜の甘さ。それらを周囲のキャベツが緩やかにまとめている。
「ん、おいしー!」
「それは良かった」
「すっごくおいしいです! マスター、いつも思うけど料理上手ですよねー!」
そう言いながら、心春は早くも二つ目の包みにナイフを入れていた。
「すごーい! これ、えーっと、ラハナ……?」
「ラハナ・サルマスです。ラハナはキャベツという意味です」
「サルマスって?」
「サルマは料理の名前です。意味は包むとか巻くとか、そういう意味ですね」
「それってロールキャベツじゃない!」
「ラハナ・サルマスです」
「意味同じじゃない!」
にぎやかに食べ終えた心春は「ごちそうさまでした!」と元気よく両手を合わせ、椅子から飛び降りた。
カウンターの中に入り、矢上の隣に立って後片付けをしながら、彼女が大学で所属しているという料理研究会「Stella Kichen」が、来週の月曜日に地元テレビ局の情報番組の取材を受けるという話題を始めた。
「ほう、テレビの取材ですか。それはすごいですね」
「でっしょー?」
洗い終わった食器を拭きながら、心春はふふんと笑い、並んで立つ矢上の左腕を右肘でこづいた。
若者特有の距離の近さに困ったように、矢上は半歩ほど彼女から離れる。彼女のこういうところは少しばかり困ったところだ。
「ついでに、この店の宣伝もしちゃいましょうか?」
「取材と関係ない話をしちゃダメでしょう」
「そこは何とかうまい具合に、あ、ほら、今日のトルコ料理、えっと、ラハ何とか」
「ラハナ・サルマスです」
「それそれ、今度は研究会でトルコ料理作りまーすとかって。それで、バイト先のこのお店のマスターの新メニューを参考にしまーすとか」
「ダメですよ」
矢上がそう答えると、心春は「まあ、無理がありますかねえ」と素直に聞き入れた。
内心で矢上は胸を撫で下ろす。
無用に目立ちたくはない。
「心春さんはお優しいですね。お気持ちだけ有難くいただきますよ」
矢上がそう言うと、心春はえへへと嬉しそうに笑った。
心春が隣に立つ矢上を見上げたその時、手が緩んだのか、拭いていたナイフがするりと布巾から滑り落ちた。
「あっ」
「おっと」
心春の足の甲めがけて落下したナイフは、素早く横から伸ばされた手によって、彼女の腰の高さで止まった。
ナイフの柄は、矢上の左手にしっかりと掴まれている。
「え、すっごーい! マスター、めっちゃ反射神経いいですね!」
「たまたまですよ。それよりも気をつけて。お預かりしている若いお嬢さんに怪我をさせたなんてことになったら、ご両親に申し訳がたちません」
「お嬢さんをお預かりぃなんて何か古臭ーい。私は成人してるし、バイトだけどちゃんと働いてるんですから、一人の従業員として扱ってくださいよ」
「心春さん?」
「はーい、ごめんなさい。以後気をつけます、マスター」
20時。
『すのうどろっぷ』は喫茶店としては少し遅めの21時まで開いている。閑古鳥が鳴いているはいつものことだが、特に今日は大合唱だ。
「心春さん、もう上がってもらって大丈夫ですよ」
矢上にそう促され、心春は『すのうどろっぷ』を出た。
暦は5月に入ったとはいえ、この街――
ひやりと湿った風に頬を撫でられて、心春は小さく身震いした。上着代わりに持ってきた薄手の長袖パーカーを首元まで閉め、彼女は自転車にまたがった。
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