パラダイス・ロスト

久里 琳

第1章 草原の千夜一夜

第1話 ポーリャとナーチャ


 はるかな西からとどく風にオオカミの遠吠えがまじる夜々をポーリャに見まもられ幾たびも越えた、あの冬をナランツェツェは忘れない。

 ちょうど九歳から十歳になるときだった。重篤化した疱瘡のため、冬のあいだじゅうポーリャの看護を受けることになったのだ。かのじょの天幕ゲルにはじめて迎え入れられたとき嗅いだ生薬のつんと苦い匂い、さいしょはおもわず鼻をつまんだのにそのうち慣れたあの匂いはずいぶん後になってなにかたいせつな、かけがえのない賜物のようにおりにふれナランツェツェの胸をせつなく満たした。

 朦朧と熱にうなされた地獄の七日七夜のあと、気のとおくなるほどの回復期がだらだら起伏しながらいつまでもつづいた。それは謂われのない罰のようでナランツェツェは辟易したのだったが、一方で青い瞳のポーリャを独占できることに幼いしあわせを感じもした。

 ポーリャの瞳の青さに魅せられたのはまだ疱瘡で寝こむまえ、夏の丘のうえだった。太陽がいちめん緑を萌えたたせる草原で、荒馬からおちて負ってしまった足の傷をかのじょが治してくれたのだ。

 もの心つくまえから馬に慣れた一族のなかでも特に馬のあつかいに秀でたはずのナランツェツェが落馬したのは、まだ人を乗せたことのない半野生のはだか馬に乗ってしつけの真似ごとをしたためだ。晴れあがった天はたかく、丘を吹く風はすがしく、西風にたなびく草原はむんと青い匂いをそこらじゅうに振りまいていた。馬とたわむれる子供たちは皆おさなくとも草原の覇者たる遊牧の民の面目をやどしているから、北の都に生まれ育ったポーリャは目にするすべてにいちいち感嘆の声をあげた。そのあかるい声援がとおくから耳にとどくと、ナランツェツェはもっといいところを見せようと調子に乗ってしまったのだ。

 はでに落馬したにしては意外なほどナランツェツェの傷はかるかった。かのじょが声をあげて泣いたのは、痛みよりも口惜しさのためだ。


 ――痛い? 薬は沁みる? でもこうしておかないと、後でもっと痛くなるからね。


 べそをかくナランツェツェの足に薬を塗ってやりながら、ポーリャはしゃがんだ姿勢からナランツェツェを見あげた。まともに目が合ってナランツェツェはおもわず目をそらしてしまった。目をそらしたさきで、はだか馬がこちらに尻を向け逃げていくのが見えた。


 ――ここは痛い? じゃあここは?


 ちいさなからだのあちこちを押したり曲げたりしながらポーリャがたずねるたび、ナランツェツェは首をよこに振って「ううん」とこたえた。するとポーリャは彼女を立たせて、

「えらいわ、あんた強いのね」

 と笑った。

 その笑顔につられてまたまともに青い瞳と目が合った。太陽のひかりをうけ、泉のように透きとおった青い色だ。どこまでも深い。青さに引きこまれてつい、ナランツェツェは泣くのをわすれてしまった。



 冬風が三日月まで吹きとばしかねない嵐の夜もふたりゲルのなかでやり過ごした。ナランツェツェの脈をとるポーリャの手は肌がまっしろに透きとおって、すこしひんやりとしていた。まるでおとぎ話の雪の精みたいだとナランツェツェは思った。

「明日はね、ナーチャ」

 おさな子の手のうえに視線を落として雪の精みたいなポーリャは言うのだ。

「太陽といっしょにあんたは目覚めてすぐ羊のとこにすっとんでくわ。今日は病気がおもくて一日じゅう寝てなきゃならなかったのにね。ちゃんとお母さんの手伝いをするのよ。そしたらいっぱい褒めてもらえるから」

 お告げのように言って、ポーリャはにっこり笑った。かのじょからは一族の者たちのような草と獣のまじった匂いはしなくて、かわりになにかの花の匂いがした。いつかどこかでたしかに匂ったことのある花の。でもなんの花だったか思い出せそうで思い出せない。すぐそこにあるのに手を伸ばしたらついと逃げてしまうような。それはゲルのなかに満ちる生薬の匂いのせいかもしれなかった。

「でもほどほどにしときなさい、あんまりむりしちゃまた寝こんじゃうからね。わかった、ナーチャ?」

 かのじょをナーチャと呼ぶのはポーリャだけだ。ナランツェツェはこの呼び名を気に入っていて、呼ばれるたびくすぐったいようなぼおっと心地いいようなきもちになる。


 ふたりがおなじゲルで暮らすようになったさいしょの日からポーリャはナランツェツェをナーチャと呼んだ。響きがポーリャとおそろいのようでナランツェツェはそう呼ばれるとうれしくなった。うれしいってことをあらわにするのがなぜだか気恥ずかしくて、むりになんでもないみたいな顔していた。でもやっぱり表情に出てしまうからときどきナランツェツェは顔をそむけてかくした。

 おさな子の心を知ってか知らずかポーリャは渓あいに人知れず咲く花のような謎をたたえた笑顔で言った。

「ナーチャ……って、なつかしい響き。うん、あんたにぴったりだわ」


 ポーリャの生まれ故郷での呼びかたに倣えば、ナランツェツェはナーチャになるのだそうだ。

 ベッドで毛布にくるまりポーリャに頬をつねられながらナランツェツェは、このひとの故郷ってどんなとこなんだろうとふと思った。そのとき芽ばえた問いはひと月ばかりも胸の奥にしまい込まれていたが、狼の遠吠えと羊たちのざわめきにかこまれた冬の夜のゲルのなかで、ふと思い出してポーリャにたずねた。

 問われたポーリャはゆっくりナランツェツェから目をそらし、ゲルの隙間からもれ入る月あかりに視線をうつして狼の啼く声に耳をすませた。はぐれ狼の遠吠えは、楽園を逐われた後悔のように未練がましく長く尾をひいた。それがとうとう途絶えたとき、ポーリャはゆっくりナランツェツェに向き直った。ほんとうにゆっくりと、しずかな、おそろしいほどに自然なようすで、これからだいじな秘密を伝えるよっていうかのように。


 ナランツェツェの祖母が生まれるずっとまえから草原じゅうを旅してきただろう年季たっぷりのベッドに身をよこたえ、おさな子はポーリャを見あげた。ポーリャの青い瞳は夏の小川のように透きとおって底が知れない。狼も嵐も息をひそめた。束の間のしずけさを乱すことのないよう、川のうえをわたるそよ風のような声でポーリャは話しはじめた。


 私が生まれ育ったのはね、ナーチャ。ずっと北の方よ。ペテルシェヒルというの。うんとおおきい町で、まんなかに河が流れていてね。人がうじゃうじゃいて、どこの酒場でも夜じゅう騒いでるんだから、うるさいったらなかったわ。夏は鍋のなかみたいに蒸し暑いの。そんで、冬は雪がふってそこらじゅうが凍るのよ。


 ――住みにくいみたい。

 ナランツェツェはベッドからポーリャを見あげて笑った。ポーリャは笑みでこたえた。


 そうね。でも国じゅうからみんなこの都を目指してやってきて、なぜだか離れられなくなってしまうのよ。

 ――ポーリャは今ここにいるじゃない。どうしてペテロ……を出たの?

 ナランツェツェの問いの、町の名の発音があやしい。


 ペテルシェヒルは――ゆっくりと発音して、ちょっとをあけてから――安全な町ではないと、私の家族は思ったらしいのね。うえの学校に上がるとき、私はそとに出されたの。結局十四歳までペテルシェヒルで暮らした。わすれないわ。


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