第2話 カフカ
ポーリャが袖を動かすと、つんと苦い生薬の匂いがナランツェツェの鼻をくすぐった。
ポーリャが一族のなかで特別な位置を占めるのにもその生薬がひと役買っている。
ナランツェツェの一族は大陸中央の草原地帯を東西に移動しながら、牧羊と物産の交易とで生計をたてている。草原にあまた跳梁する諸部族は互いに交易し、利害が一致すれば協同し、反すれば敵し、弱ったものへは掠奪をくわえる。油断のならない弱肉強食の草原に生きるかれらの、一族の血の結束はかたい。よそ者であるポーリャが二年もかれらとずっと行動を共にし、大事にされているのは、かのじょのたしかな医術の腕ゆえだ。
つねづね競合するナイマン族との
「たぶん十四年間、ペテルシェヒルで暮らしたわ。はっきりとは分からないけど」
ナランツェツェはあくる日も、羊たちを陽の当たる丘へ追う手伝いをしながら、ポーリャにペテルシェヒルのことを訊いた。
――はっきり分からない? どういうこと?
ポーリャはいたずらっぽい目をして、問いに問いで返した。
「ナーチャは小さいときのこと、いつ頃からおぼえてる?」
問われてナランツェツェは印象に残るいちばん古い記憶をさがした。夏の河でおぼれそうになったとき。いや、市場で母さまとはぐれて泣いたとき?
「私の記憶は」とポーリャはやさしく言った。
橋の上でひとりふるえていたときから始まるの。真冬の、夕方だったわ。ううん、もしかしたらまだ昼だったのかも。ペテルシェヒルでは冬は、すぐに陽が落ちてしまうから。
もうずっとまともな食べ物は口にしていなかった。それよりとにかく寒くて眠くて、ぼろきれを身のまわりにかき集めてよこになってたわ。橋の上をたくさんの人の足が行き過ぎるのをぼおっと見てた。そのうち雪が降ってきたの。広場の店もどんどん店じまいをはじめてしまって、人通りが急にまばらになった。私は半分夢に落ちかかりながら、真っ白な雪のベッドってすてきだな、なんて思ってた。
「こんなところで寝てると死んじゃうよ」
完全にまぶたがとじて、死に至るふかい眠りに落ちたそのときに、頭上から声がとどいたの。やさしい、聖母さまみたいな声だったわ。
――聖母さまって?
ナランツェツェにはこの言葉は耳慣れない。ポーリャはうんとやさしい表情でナランツェツェを見おろした。
聖母さまって、すべての人たちのお母さまみたいな人。その人はね、ナーチャ。子供たちが幸せになるよう見守ってくれて、不幸せな子供たちのために泣いてくれるのよ。なぜって自分のたいせつな息子が、自分より先に死んでしまう運命にある人だから。
「ほら、このお金を持ってお母さんのところにお帰り。それから、このパンはあなたが食べるのよ。まあこんなに頬が痩せちゃって!」
別の女の人の声がして、私の手にコインとパンを握らせてくれたわ。その頃ペテルシェヒルは貧しい人たちがたくさんいてね。そこらじゅうの親が自分の子供を辻に立たせて、お金をめぐんでもらっていたの。私もそんな一人に見えたのね。
私はまだ意識がはっきりしないまま、私お母さんいないわ、ここで寝させてちょうだい、ってまわらない舌で言った。
するとまた別の男の子の声で、
「かあいそうに。明日の朝には冷たくなってるだろうねぇ」って言うのが聞こえた。
それが全然かわいそうなんて思ってなさそうな口ぶりなのよ。
「カフカ、この子は――」
あわてて女の人が言いかけたところで私はふわっと抱き上げられた。それで私はやっと目が覚めてまわりを見まわした。抱き上げてくれた人と、
抱き上げてくれたのがカフカ。女の人がイリス、男の子がディオ、それにもうひとり背の高い女の人がアルテ。それが私と家族との出会い。そのときから、私の記憶ははじまるのよ、ナーチャ。
「カフカ、その子をどうするんですか?」ってイリスが心配そうな顔して訊いたわ。
イリスはとってもカフカに甘くて、カフカのことをいつも心配してるのよ。
「家につれて帰るんだ。あたたかいベッドで寝かせてあげなくちゃ――いけないかな?」
カフカがゆるしを求めるみたいに訊くんだけど、そう言われるともうイリスはだめって言えない。代わりにアルテが、
「やめときな。人なんて簡単に死んでいくんだから。かかわったってろくなことないぞ」
断固とした口調で言ったの。そしたらディオが、
「そりゃ大変だ」
って能天気に茶々を入れたっけ。その間も雪がどんどん降ってきて、私とカフカの上に積もってったわ。私の髪のうえで氷になりかけてる雪を、カフカははらってくれた。
「ディオには、明日の朝冷たくなってる姿が見えたのかもしれないけど」
そして、こう言ったのよ。
「ぼくには、この子が朝、家でわらっている姿が見えるんだ。それは幸せそうに
そう語るとポーリャは羊の群れと並んで歩いていたナランツェツェを抱きあげて、つよく抱きしめた。
一面雪に覆われた高原を見おろす丘の石のうえに座って休みながら、ナランツェツェは話のつづきをねだった。ポーリャは雪をとかした水でお茶をつくり、自分が味見したあとナランツェツェには薬とともに飲ませた。冬に入った高原は日に日に冷えこみが厳しくなるが、今日は風がなく陽も照るので帽子から顔を出せるほどにはあたたかい。それでも歩くのをやめてしばらく休んでいると、体形が分からなくなるほど厚く着込んだフェルトの服の下で汗がつめたくなってくる。
羊たちが雪の下の草を食む様子を見ながら、ふたりはひとつのマントにくるまってお茶をすすった。
――あのときは
話しているあいだにナランツェツェは、ちいさな頭をポーリャの肩にあずけてうとうとしかけていた。ポーリャの処方した薬には眠りを誘う副作用があったから。ポーリャはナランツェツェが冷えないようマントを掛けなおすと、顔を上げて一面に広がる真っ白な草原をながめながら、子守歌をうたうように語りつづけた。
――カフカの腕のなかで眠りに落ちたあと、つぎに目覚めたときはやわらかなソファの上だったわ。私の頭はカフカの膝に乗っかってて、上からカフカが私の顔をのぞきこんでいた。最初私はまだ橋のうえにいるつもりでいたけど、地面から底冷えが沁みることはない、風は吹かないし行き交う人たちの靴音も酔っぱらいの喧騒も聞こえてこない、それでまだ焦点の合わない目でカフカを見ながらなんだか変だなって思ってた。
どうやら私が目覚めたらしいと見てカフカは扉のむこうへ、
「イリス、スープを用意してちょうだい」
と声をかけた。
私はようやく夢から覚めた心地で、ソファのうえに起き直ると、まわりを見まわした。部屋のなかにはカフカのほかにアルテがいて、最初にアルテと目が合ったわ。なぜだかカフカの方へは視線を向けなかったけど、その代わり私カフカの手を両手でぎゅうって握ってた。アルテは私と一瞬目が合ったあとすぐに顔ごとあっちを向いて、ナイフで何やら木片を削りはじめた。
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