第5話 ガラスの糸 一冊の書

再び重い沈黙が戻ってきた。俺と桜坂さんはソファに並んで座り、互いに視線を合わせようとしなかった。「し」と書かれたカード。俺はそれを手に取ったまま、ぼんやりと見つめていた。

(なんで、俺は……)

心臓は、未だに激しく波打っていた。先ほどのキスは、彼女の純粋な心を弄んだようで、深い罪悪感が胸を締め付ける。進学資金のために必死だった。焦りから、彼女を深く傷つけてしまった。その事実に、胃の腑がねじれるような不快感が込み上げた。

隣に座る彼女は、膝の上で両手を固く握りしめていた。その震えが、俺の罪悪感をさらに深くする。


両手の汗が止まらない。キス、しちゃった。いつかの夏休み明けに、友達の一人が自慢げにしゃべってた。悲しいのか嬉しいのかさえよくわからない。ただ、肩から手のひらに続く全部の力が私のいうことを、聞いてくれない。


「ごめん、桜坂さん……」

絞り出すように言った。彼女は何も答えず、ただ静かに首を振るだけだった。その沈黙に俺は責められているように感じられた。


耳に言葉は届く。彼の顔を直視できない。今見たらきっと、あの唇の感触を思い出してしまう。

少しだけ、わがままを聞いてくれた右手が、かろうじて彼の左手に触れる。

「大丈夫だよ、綾野くん。…わかってるから」


(もしかして、嫌われたか……?)

一瞬、そんな考えが脳裏をよぎる。しかし、次の瞬間、彼女の震える手が、俺の手にそっと触れた。

彼女の声はか細かったが、その言葉には不思議なほど温かみがあった。

「俺は、タイマーが止まらなかったから、その……」


「わかってる。綾野くんが、私たち二人をこの部屋から出してくれようとしてくれていること、わかってるから」

これ以上口を開くと言葉がとめどなくこぼれ落ちそうで、私は触れた手のひらにギュッと力を込めた。

(伝わって)

整理しきれない思いを乗せた。


彼女は俺の手を優しく握りしめた。その温もりは、心を少しだけ軽くした。罪悪感は消えなかったが、少なくとも独りではない、という思いが支えてくれた。


その時、モニターの画面が再び切り替わった。マスターが、先ほどと同じ感情のない笑顔で現れる。

『お二人、課題達成おめでとうございます。それでは、第二の課題を提示します』

『第二の課題は、こちらの選択肢からお選びください』

マスターの声とともに、モニターに文字が映し出される。

『選択肢1:女性の秘部を刺激し、愛液が親指と人差し指で糸を引く状態にする。成功で10分追加。』

『選択肢2:胸で男性器を刺激して充分に興奮度を高めたら成功で15分追加。』


知ってる。知っている。

モニターの下のカメラのレンズは、ゆったりと右と左を行き来する。ズームからワイドに。

その向こうに誰かを感じた瞬間、言葉が口をつく。

「そ、それは……いや……っ!」

頭に浮かんだ想像をかき消そうと、首を左右に振る。でもいったん居着いたそれは、容易に出て行ってはくれなかった。


彼女は、目に涙を滲ませながら、首を激しく振った。

理性が「これを選ぶのは無理だ」と即座に告げていた。彼女の震え方を見れば、とても耐えられない命令であることは明白だ。


『どうなさいますか? 選択は自由です』

モニターの声は淡々としている。だが、その残酷さは隠しようがなかった。

「……そんなの、できるわけないだろ」と、思わず声が漏れる。


隣で彼が立ち上がる。

離れた手のひらが彼を追って、ポロシャツの裾を掴む。


彼女は必死に頷き、しがみつく。

その瞬間、マスターの声が新たに響いた。

『よろしいでしょう。では――救済ミッションを提示いたします』

――

 

豪華な観戦ルームでは、大勢の男たちがグラスを傾けながら、興奮した様子で画面を食い入るように見ていた。

「ついに来たな」元老が満足げに笑った。

「こいつはきっと見ものになりますね」若手IT企業社長はモニターに映る結衣の顔を見て、下卑た笑みを浮かべた。

「あの娘の表情、最高じゃないですか。純粋な人間が、ここまで追い詰められる様は、見ていて飽きないね」

観戦ルームはざわめきに包まれていたが、その背後でもひそやかなやり取りが交わされていた。

「……次は、きまりそうなのか」

「いえ、最近はなかなか仕込みが大変でして」

「うむ、では頑張ってもらわねばな」

ギャラリーたちの間には、次なる展開を予想する声が飛び交う。裕介と結衣がどちらの選択肢を選ぶか、あるいはミッションに挑むのか――賭けが始まろうとしていた。

その中で、裕介の父親である安藤清志だけは、グラスを静かに揺らしながら、息子の顔を凝視していた。彼の目に浮かんでいるのは、満足でも、失望でもない、ただ冷たい品定めだった。

「さあ、見せてみろ。お前がどれだけ強くなったか」


――


左手をみつめる。じんわりとした温かさがまだ残っている。結衣が背負っているものを思うと、俺はくらくらする。

でも、俺しか彼女を守れない。今は他になにもなかった。左手を右手で包んでみる。守ってみせる。根拠はないが、今俺が折れたら終わりだ。彼女の夢も俺の金も。


救済、ここから出られるのだろうか?まだ課題はひとつしか……。それとも、何かこの二つをしなくて済む仕組みがあるのだろうか?


「大丈夫だ。君がこれ以上傷つけられるいわれはない」


「でも、時間がないよ……」と呟いた。モニターに表示された「10:00」という数字に彼らの本気が示されているようだった。ほんとに記録されていたら、ほんとにネットにアップされたら、その先のことは考えたくない。


二つの選択肢を前に、俺たちは互いに顔を見合わせた。結衣の顔は羞恥心と恐怖で赤く染まり、その瞳は不安に揺れている。彼女がこのまま、どちらかを選ぶことは、あまりにも残酷だ。俺は彼女の手を強く握りしめた。


その時、マスターの声が再び響いた。

『このゲームには、あなた方を助けるための「救済措置」が用意されています。ベッドの下をよく見てください』


彼が離れていく。こんなソファに一人残るのは嫌だ。自然、追いかけてベッドの下ののぞく。壁際と同じ箱が、ここにもあった。新しいカード?なにが入っているの?


『この「救済ミッション」に挑むことを選択すると、箱が開錠されます。中には、特別なコスチュームが入っております。このコスチュームを着用し、ミッションを達成すれば、タイマーは停止します。これは大変有用なものです。正しく使えば、あなたにとって望む未来を手に入れることもできるでしょう』


マスターが「コスチューム」を着ればいいと言っている。バニーガールやチアリーダー、メイド服。浮かんでは消え、消えては浮かぶ。

(でも、それなら着れないこともないかも。)この部屋に更衣室なんて無いから、それはちょっとつらいけど。


『もちろん、するもしないもお二人の勝手ですし、一度挑戦を宣言した後でも、ミッションを撤回することは可能です。ただし、その場合、これまでの持ち時間の半分がペナルティとして引かれますがね。でも、お困りなんでしょう?』


俺の心臓が激しく脈打った。中に何が入っているのか、ミッションが何を意味するのか、まだ理解できていなかった。だが、ここで何か行動を起こさなければ、結衣に再び酷な行為を強いることになる。俺は、迷うことなく決断した。

「救済ミッションに挑戦します!」


私の方を見てもくれなかった。冷静そうな彼も、いつも余裕があるわけじゃないんだ。私もなにか、なにか。


俺が叫ぶと同時に、モニターの画面が切り替わり、タイマーが「00:00」からカウントアップしていく。同時に、ベッドの下にあった箱の電子錠がカチリと音を立てて開いた。

二人の手には、信じられないほど小さな布切れが残った。これではほとんど隠せないだろう。

結衣は、薄く半透明な生地を見つめた瞬間、血の気を失って立ち尽くした。

「嫌……」

か細い声で呟くと、膝から崩れ落ちた。震える手でブーメランパンツを握りしめ、涙を滲ませながら言葉を絞り出す。


「これ……こんなの、着られないよ……」

とても、立っていられない。膝に力がはいらない。


胸が締め付けられた。彼女の瞳に、今にもあふれ出しそうな涙が溜まっている。安易に選択した「救済ミッション」は、結衣にとって新たな絶望でしかなかった。

(俺は、また……)

軽率な判断を悔いた。守ると誓ったのに、彼女をさらに窮地に追い込んでしまった。俺は、結衣の震える肩にそっと手を置いた。

「ごめん、桜坂さん。俺が間違っていた」

絞り出すような声で言った。ここで時間を浪費することはできない。たとえペナルティを課せられても、これ以上、結衣に苦痛を与えるわけにはいかなかった。

「救済ミッションを撤回します!」

俺の言葉と同時に、タイマーは再びカウントダウンに切り替わった。数字が、一瞬で「04:00」に変わる。


『救済ミッションの撤回が確認されました。ペナルティとして、現在の持ち時間である8分から、その半分の4分が差し引かれました。残り時間、4分です』

マスターの声が無情に響いた。


残り時間は、わずか4分。黄色く点滅する数字が、胸を無慈悲に削っていく。

「桜坂さん……もう、やるしかない。俺に任せてくれるか」

声は震えていた。再び屈辱を強いることが、胸を締めつけてやまなかった。


力強い彼の腕に支えられて、よろよろと立ち上がる。

(なにか)私は彼をまっすぐ見てうなずいた。

「……わかってる。だから、お願い……」

あのベッドの近くにはいたくない。彼が支えてくれるので、ソファに戻れた。


俺たちはソファに並んで腰を下ろす。結衣は深く座り込み、震える手でスカートの裾を押さえていた。

私の右に座る彼が、左手を私の背中に回す。

「……ごめん。ちょっとだけでいい、スカートを上に持ち上げて。絶対に見ないから」


もう、やるしかないんだわ。

少しだけ腰を浮かせて、言われた通り両手でスカートの裾を持ち上げる。

持ち上げたスカートが、柔らかに光を透過させるがその先は見えない。ちょっとだけ、怖さが遠のく。


結衣は目を閉じ、ためらいに肩を震わせたが、やがて観念したように布の端をすくい上げた。白い下半身とフリル付きのショーツ、黒いニーソが布の下で並び立つ。

太腿の内側が付け根まで晒されていたが、俺は約束どおり局部を直視しなかった。手探りで布の下に右手を差し入れる。


彼の指先が布越しに秘められた突起を探る。

私の体が暴れそうになる、声がこぼれる。

でも、そこでは無い。そうか、彼は知らないんだ。

「ちがう……もう少し……上」

ギリギリ出せた声を彼が掬い上げる。

突起に触れられた瞬間、ついに声があふれだす。

自分でもよく知っているわけではない。試みに触れたときは、表現できない感覚に襲われた。だから、してはいけないことなんだと、思っていた。


結衣の体がびくりと震え、堪えきれず声が零れる。

彼女が恥を忍んで導こうとしている――。

突起に触れた瞬間、結衣の声が甘く弾けた。


綾野くんを中心に広がる未知の感覚に心が悲鳴をあげる。

「やっ……あ、ああっ……!」

耳に届く声は誰の声なんだろう。


『残り時間、2分です』

黄色い数字が減っていく。冷や汗が背筋を伝った。

(このままじゃ、間に合わない)

ネットで得た知識がどこまで通用するかわからない。でも場所なら結衣が教えてくれた。今なら、いけるかもしらない。俺は背中を支えた腕を引き抜き彼女の前に跪く。


スカートの向こうで、脚が開かれる。力は入らない。でも、彼が何をしているのか見えない。見えない不安と見ない安心が混じり合って溶けていく。


「よし、これなら……」

「結衣、ちょっと我慢してくれ!」

結衣に顔を近づけて、舌先で彼女にそっと触れた。


(あれ?名前、呼ばれた。こんなところで)

次の瞬間、湿ったなにかが私の中心に触れる。

腰が浮き上がりそうになるけど、彼の腕が優しく包み、動きがままならない。

「ひぁっ……な、なに……っ」


驚愕と羞恥の混じった声を上げ、結衣の腰が跳ねる。だが逃げられない。両脚で俺の顔を挟み込み彼女はただ震える体を預けるしかなかった。


『残り時間、1分30秒です』

結衣の吐息は熱を帯び、涙に潤んだ瞳が快感に揺れる。

「いや……だめ……っ、でも……気持ち……っ」

舌先に全ての感覚を集中させる。敏感な突起に直接振動が届き、結衣の体が大きく跳ね上がる。


「だめぇっ……あっ、あああっ……!」

涙が目尻から溢れる。嬉しくは無い。でも、ただ悲しいわけでも無い。そして、胸の中から湧き上がる反応が私の頭に否定を許さない。ああ、私の声なんだ。


『残り時間、30秒です』

数字が赤に染まり、点滅を速める。

彼の指が私を慎重に撫でる。

指の間が照明にキラリと光っている。


俺は震える指を結衣の愛液で濡らし、親指と人差し指に掬い上げた。逆光に照らされた糸が、ガラスのように煌めく。


電子音が鳴り、タイマーが止まった。

『課題達成。おめでとうございます。ボーナスとして10分を追加します』

結衣は声も出せず、ソファに崩れ落ちる。頬は紅潮し、胸は上下に荒く波打っていた。

「……大丈夫。終わったよ」

俺は彼女の背を抱き寄せ、そっと囁いた。

――

ギャラリーのモニターには、逆光にきらめく愛液の糸が拡大されていた。それは少女の純潔が快楽に染まりゆく証でありながら――どこか神聖な輝きを放っていた。

――

ぶぅんという音とともに壁際の箱が解錠される。中には「中」と記されたカードが収まっていた。

俺は「し」のカードと「中」のカードを交互に眺めた。頭の中で二つの文字が意味を帯びて繋がり始める。

その時、結衣が俺をじっと見つめていることに気がついた。

「ねえ、綾野くん……さっき、私を『結衣』って呼んだ?」

「え……ああ、ごめん。その、つい……」

照れ隠しのように視線を逸らすと、結衣は少しだけ笑顔を見せた。

「ううん、いいの。なんだか、すごく……嬉しかったから」

そう言って俺の手をぎゅっと握りしめる。その温もりが胸をじんわりと温めた。

「頼む。結衣、ちょっと聞かせてくれ」

「うん」

「どうしてここに来たんだ」

「え、事務所からオーディションって言われて、だから電車で……」

「そういうことって、よくあるのか」

「私は今回がはじめて、いつもはレッスンばっかり」

「あ、でも仲のよかった先輩がときどき受けてたかな。ある時期から急に忙しくなって、全然遊んでくれなくて、そしたら突然やめちゃった」

「事務所、オーディション、流出動画……待てよ――」

思考の鎖を断ち切るように、モニターの画面が切り替わった。マスターが、先ほどと同じ感情のない笑顔で現れる。

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