第4話 触れ合う唇 天の声地の声

ただ時間だけが静かに流れていた。俺と桜坂さんは、モニターに映る残り時間を呆然と見つめていた。

母の細くなってしまった腕を思う。決して語らないが苦労が無かったわけがない。金はなんとしても欲しい。しかし、そのためには……。


「キス 5分」

「下着で全身愛撫 10分」

書かれていることはわかる、わかるけれど……。

綾野くんは、ほんとに経験者なのかな。思い切って聞いてみよう。

「違ったら、ごめんなさい。これ、オーディション、じゃないよね?」

思い切ったつもりが、驚くほど小さな声になってしまった。でも、おかげで、彼はこっちを見てくれた。


先に口を開いたのは、震える声の彼女だった。

その声は、まるで迷子の子どものようにか細かった。俺は、この状況の残酷さを突きつけられたような気がした。俺が金のために応募した怪しい広告と、彼女が信じていた夢への道。その認識のズレが、今、奈落の底に突き落とした。

「ごめん、桜坂さん……」

俺は絞り出すように言った。俺のためらいと、我が身可愛さが彼女を巻き込んでしまった。許してくれるとは、思えない。だが抱えたままでは苦しすぎる。


彼は諭すように言った。まだ、何もわからない。

彼の顔を下から見上げる。短めに刈られた脇の髪と、時々、目を隠しそうになる前髪。


顔を上げ、不安と戸惑いが入り混じった瞳で俺を見つめる。

「オーディションなんかじゃない。俺は、ネットで見つけた怪しい広告に釣られてここに来たんだ。報酬の百万円が欲しくて……」

正直に告白すると、意外にも驚いた様子を見せなかった。


「やっぱり……そうだよね。私も、何か変だなって思ってた。でも……なんで?」


純粋な問いかけに、俺は一瞬言葉を失った。母親の借金を抱え、苦しい生活を送っていることなど、彼女が知るはずもない。俺は「どうしてもお金が必要だったんだ」とだけ答え、それ以上は口を閉ざした。

桜坂さんはその言葉から深刻さを感じ取ったのか、黙って頷き、再びタイマーに視線を戻した。画面の数字は容赦なく減り続けていく。

その時、アニメのキャラクターのような、明るく甲高い声がモニターから響いた。

『残り時間、9分です!』

彼女は、無音で瞬く数字と選択肢をじっと見つめていた。

瞳に映るモニターの数字。綺麗だ、と場違いな感想を抱く。


私は選択肢をじっと見た。裕介は課題は4つあると言った。なら、できるだけ時間があった方がいいのかしら?

でも、下着って……。最後に男の子に下着を見られたのって、幼稚園のとき?想像しただけで、耳の先がツンと熱くなる。

綾野くんはどう思ってるんだろう。お金、必要なんだよね?事情はよくわからないけど、毎月のレッスン料は結構かかってる。夢……。現実には強く願っても叶わないよね。お金も、いるよね。

もし、脱いでくれって言われたら、私、どうしよう…。


俺は考えた。キスは5分、愛撫は10分。たった5分の差が、二人の運命を大きく左右する。画面に表示された数字は、どんどん減っていく。0になったら俺は報酬を失う。タイマーの数字を戻すために削り取るのは、彼女の気持ちだ。ただでさえこの異様な状況、進んでそれをしたいと思うはずがない。

彼女は羞恥心と恐怖に縛られ、言葉を失っていた。

『残り時間、8分です!』

明るい声が無慈悲に響く。

キスか、愛撫か。数字だけを見れば、後者を選ぶべきだ。母の借金も、自分の進学も――報酬さえ手にできれば救えるはずだ。だから信じたい。このゲームは茶番でも、金だけは本物だと。

だが、その思考は彼女の肩の震えに遮られた。彼女は本来ここにいるはずじゃなかった。夢を信じて踏み込んだだけなのに、俺のせいで巻き込まれた。

俺は拳を握り、迷いを断ち切るように顔を上げた。


彼は、しばらく拳を握りしめて、モニターを見つめていた。

「……キスにしよう」彼が、押し出すように、つぶやく。語尾の音階が少しだけ上がる。彼もこの状況に余裕なんてないのかも。

下着にならなくていいんだ、と思う間もなく

「……うん」

と返したことに、自分でも戸惑う。でも、初めてがこんな、こんな形でなんて。


桜坂さんは大きく瞬きをし、視線を俺に移す。

その返事は小さく震えていたが、確かに俺を信じ、託す響きを帯びていた。そう、思いたかった。

『残り時間、7分です!』

俺たちはゆっくりと顔を近づけた。心臓が激しく高鳴る。これはただのクリア条件――そう自分に言い聞かせる。


綾野くんの顔が近づく。

ギュッと目を閉じる。

触れ合った唇は、全然想像してたのとは、違った。

ごつりと硬くて、まるで衝突したみたい。

(綾野くんも初めてなのかな?そしたら、私のことが記憶に刻まれちゃうのかな?)

青リンゴの味なんてしなかった。ただ彼の首元から立ち上るシトラスの匂いがかすかに私の鼻をほんのり温めた。


唇が触れ合った瞬間、俺は思わず息をのんだ。唇は、予想していたよりもずっと柔らかく、温かかった。しかし、止まらない数字の瞬きが一瞬抱いた親密な空気を引き裂く。キスの甘い感触とは裏腹に、タイマーは無機質にカウントダウンを続けていた。

『残り時間、6分30秒です!』

その声が耳を突き抜けて心の天秤を大きく揺らす。金か彼女か。


唇をかすかに離し彼がつぶやく。

「なんで……っ」彼の瞳は、大きくモニターのある方に向いてる。

思わず開いた目の前を彼の顔が覆う。怖い?ううん、そうでもない。彼の視線を追いかけて、タイマーを見る。時間は減り続ける。キスはしてるのに、どうして?。

また、ギュッと目を閉じる。


焦りを隠せず、俺は唇に触れたままモニターを凝視した。やはり、ただ触れるだけではダメなのか。進学資金という目的のためには、確実に課題をクリアする必要がある。俺は決意を固め、僅かに唇を開いた。

俺は舌を、ゆっくりと、しかし躊躇なく彼女の口内へと差し入れた。


彼の唇が乱暴に私の唇を押し開く。

にゅっ、と何かが入ってきて、私の歯をなぞる。

思わずペンダントをギュッと握る。


「んっ」


予想を裏切る感触に小さな悲鳴を上げ、全身を硬直させた。彼女が想像していた「キス」とはあまりにもかけ離れていたのだろう。俺の舌が彼女の舌に触れる。それは、彼女の純粋な心を残酷な現実に引きずり込むような行為だった。


喉の方に引っ込めた私の舌が、彼の舌と触れる。

とたんに優しくなった彼の動きが私を捉える。

思わず、体を後ろに離そうとするけど、彼の腕がガッチリと私の背中にまわされている。

たまらずまぶたを開き、彼を見つめる。


彼女の瞳が小刻みに揺れる。それは恐怖と羞辱、そして初めての官能に戸惑う複雑な感情が入り混じったものに見えた。俺はその震えを感じながらも、タイマーが止まるまで、その行為を続けた。

そして、タイマーが青から黄色に変わると同時に、カチリと音がしてカウントダウンが止まった。

タイマーは5分ちょうどで止まった。

モニターの数字が高速で目まぐるしく変化し、新たな時間が加算されていく。まるで動画を高速再生しているかのようなその動きに、俺は息をのんだ。やがて数字は「10:00」で止まり、静寂が戻る。

『――判定、成功といたしましょう』

不意にマスターの声が響いた。抑揚はないが、確かに裁定を下す口調だった。

『充分に要件を満たしました。お見事です』

どこまでも人をバカにしている。

俺は唇を離す。


彼が唇を離した、その刹那。朝露に濡れた一本の蜘蛛の糸のような名残が空中に消えた。


一瞬黄色くなった数字を俺は見逃さなかった。5分で転じたということは、どこかのタイミングでさらに追い込むつもりだろう。

破滅までの時間は10分に戻った。ただ、助かったという安堵は全くなかった。今、手にしたわずかな時間は彼女の心を削り取った俺に対する報酬。だが、それによって彼女自身の破滅も遠のいたはずだ。そう信じるしかなかった。

カチリと電子音が響いた。

コンクリートの部屋に、冷たく大きく広がる。

音のした方向を見ると、壁際に置かれた箱の蓋がゆっくりと開いた。

俺は警戒しながらも、ゆっくりと箱に近づく。彼女も後に続き、二人は並んで箱の中を覗き込んだ。

これって、何?脱出と何か関係あるの?でも、『し』だけじゃ何もわからない。


箱の中には、黒々と記された一枚のカードが入っていた。裏返しても、そこには何も無い。

俺たちは顔を見合わせる。このカードが何を意味するのか、まだ知る由もなかった。

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