Ep. 34 皇帝陛下からの勅命

ガートルード公爵夫人の后妃教育を無事に終えた今、私の日常には、穏やかでありながらも、どこか新しい風が吹き始めていた。


その日、私はレオニス様の執務室で、城の運営に関する書類の整理を手伝っていた。

彼が難解な書類を読み、私がそれをわかりやすく分類していく。

言葉少なでも息の合う、静かで心地よい連携が、私たちの間に生まれつつあった。


──その穏やかな空気を破るように、扉が控えめに叩かれた。


入ってきたカインさんの手には羊皮紙が握られている。


「レオニス殿下、ライラ妃殿下。皇帝陛下がお呼びです。今すぐ謁見の間へお越しください」



冷ややかで厳かな静寂に包まれた謁見の間。

ここに足を踏み入れるのは、皇帝陛下に初めてご挨拶して以来だった。


「レオニス、そしてライラ妃。今日はそなたら二人に勅命ちょくめいを下す」


私はレオニス様とともに一歩前へ進み、静かに深く頭を垂れた。


「西方キルデリア地方にて執り行われる、年に一度の春の祝祭に参列してまいれ」


思いがけないめいに、私は反射的に顔を上げた。


春の祝祭──新緑の季節に催され、自然の恵みに感謝を捧げる祭り。

瑞々しい木々、光を反射して揺れる花々──その光景を思い浮かべただけで、胸がわずかに高鳴った。


しかし、隣のレオニス様は静かに眉を寄せ、落ち着いた声で皇帝陛下に言葉を返した。

その声音には反発の色はなく、ただ理を確かめようとする落ち着いた静けさがあった。


「──恐れながら申し上げます。

これまで、歴代の皇太子が参列された例はないかと存じます。陛下ご自身も、一度として足をお運びにはなられなかったはず。

今回、我々にその役をお命じになったのは……いかなる意図があってのことでしょうか」


それは、皇太子として当然の疑問だった。

陛下はすぐには答えず、玉座の上でゆるやかに目を細める。


「……そうであるな」

一拍の沈黙ののち、低く響く声が謁見の間に落ちた。


「だが――お前の母、皇后セレスティーナは存命の頃、毎年欠かさずあの地を訪れていたのだ」


(レオニス様のお母様が……?)


「このたび、お前が婚礼を挙げたと知り、キルデリアの領主より招待状が届いた。

お前にとっても、亡き母の足跡を辿る良い機会となろう。だが、本意でなければ、ライラ妃だけを遣わしても構わぬぞ?」


レオニス様の肩がかすかに揺れる。動揺は隠しきれない。

陛下はその様子を意に介することなく、今度は私に視線を向け、柔和な微笑を浮かべられた。


「ライラ妃、そなたはいかがか?」

「はい…。謹んでお受けいたします」

拒む理由も、権利も、私にはなかった。


「うむ。では、初めての祭りを存分に楽しんでまいれ。ただし、民の声に耳を傾けることもまた、そなたの務めである。そのことを肝に銘じて臨むのだ」


「承知いたしました」

私はさらに深く頭を垂れる。


「して、レオニスはどうする? 妻だけを遣わすか。余は構わぬが」


「いえ……私も、彼女と共に参ります」


「よかろう。お前はいずれこの帝国を背負い導く者。そのこと、決して忘れるでないぞ」


重い言葉が、謁見の間全体に深く沈むように響いた。

レオニス様はヴァルトリアの未来を担うお方。そして私は、その傍らで共に歩む者であらねばならない。


「……御意」


私たちは静かにその場を離れ、重い扉に手をかけた、その時──。

皇帝陛下の低い声が廊下に響いた。


「レオニス、お前はここに残れ」


私は一歩下がり、廊下へと足を踏み出した。

閉まりかけた扉の隙間から、謁見の間に取り残されたレオニス様へと視線を向ける。


氷の仮面の下、彼は微かな動揺を押し殺し、背筋を伸ばしたまま立っていた。

そして、完全に扉が閉まる。


(皇帝陛下は、レオニス様とどんなお話をしているのかしら……。まさか、私の悪口なんて言ってないわよね?)


しばらくして、出てきたレオニス様の背中は、いつもよりも張り詰め、凍てついた空気をまとっていた。

視線は一切私に向けられず、低く、静かに呟いた。


「……行くぞ」


その短い言葉には、誰にも触れさせまいとするような、見えない壁が一枚、静かに立ちはだっているようだった。

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