第二十八話:『禁断魔法【魂魄譲渡】』



100階層、純白の聖堂。

俺は、【原書の聖魔】の前に、再び仁王立ちになっていた。

エルミナの叱咤により、俺の魂は崩壊の淵から蘇った。

俺はもはや「バグ」ではない。神の「シナリオ」に抗い、己の「意志」で復讐を果たす、「イレギュラー」だ。


【…………】


その俺の「意志」を、明確な「敵意」として認識したのだろう。

光の巨人【原書の聖V魔】が、初めて、その「在り方」を変えた。

それまで、ただ「在る」だけだった光が、俺という「異物」を排除するため、収束していく。

聖堂全体を満たしていた純白の光が、まるでレンズを通るように、巨人の「掌」へと集束していく。

空気が、いや、空間そのものが軋む。

98階層の「石化」とも、95階層の「灼熱」とも違う。

俺の存在そのものを「初期化(リセット)」しようとする、絶対的な「消去」の力が、俺だけに向けられていた。


「アレン君! 伏せろ!」

エルミナの叫びと、光の奔流が放たれるのは、ほぼ同時だった。

俺は、咄嗟に床に身を伏せる。


ゴオオオオオオッ!!!!


俺が先ほどまで立っていた空間を、純白の「無」が通り過ぎていった。

俺の生体鎧の、肩の部分が、わずかに光に触れた。

痛みはない。

だが、あの99階層の魔物たちの特性を「栽培」して作り上げた、俺の鎧の一部が、まるで存在しなかったかのように、綺麗に「消滅」していた。


「……ッ!」

俺は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

武器も、防具も、意味がない。

あれに触れれば、俺は「消える」。


「……チッ。どうやら、システムの『管理者』は、本気で君という『イレギュラー』を削除するつもりのようだね」

エルミナが、俺の隣に浮かび、忌々しげに光の巨人を睨みつける。

「アレン君! 聖魔樹の根は!?」

「ダメだ!」

俺は、必死にスキルを発動させようと、意識を集中させた。

「99階層との『繋がり』が、この空間に『遮断』されている! あの光の巨人が、この100階層の『システム』を掌握して、俺のスキルをブロックしているんだ!」


「キィィィィン……」

光の巨人が、再び、その掌に「消去」の光を溜め始めた。

次の一撃が来れば、もう、避けられない。


「……万事休す、か。やはり、システムに『意志』で立ち向かうなど、愚かの骨頂だったか……」

エルミナが、一瞬、一万年前の諦観を、その瞳に浮かべた。


「……いや」

彼女は、すぐに首を振った。

「……手はある」

「何!?」

「君は、『庭師』なのだろう?」

エルミナは、絶体絶命のこの状況で、不意に、いつもの「回りくどい」調子を取り戻した。

「君は、嵐と『戦う』のかね? 違うだろう。君は、嵐がもたらす『雨』を、利用する。……そうだろ?」


「……何が言いたい」

「あれ(原書の聖魔)と『戦う』から、消されるのだ。君のその、素晴らしい『庭』の流儀に倣うなら……」

彼女は、俺の目を、まっすぐに見た。

「あれを、『肥料』にすればいい」


「……肥料に? あの光を?」

「そうだ。あれは、魔素でも聖力でもない、もっと根源的な、『概念』そのものの力だ。君の聖魔樹が、魔物の特性を吸収したように、あれの『力』そのものを、君が『吸収』する」


「どうやって! スキルがブロックされてる!」

「ああ、もう。だから、君は『力』はあっても『知識』が足りない、ただの『獣』だと言ったのだよ」

エルミナは、わざとらしく、やれやれと肩をすくめてみせた。

「君のスキルは、『栽培』という『手段』の一つに過ぎない。私の『古代魔法』には、もっと『直接的』なやり方がある」


彼女の表情が、厳粛なものへと変わる。

「禁断魔法、と呼ばれるものだがね。【魂魄譲渡】――対象の『概念』そのものを、強制的に『器』へと移し替える、大儀式だ」


「……器?」

「そう。君が、その『器』だ。アレン君」

エルミナは、光の巨人が、次の「消去」の光を放とうと、腕を振り上げるのを見た。


「まずい、時間がないね」

「待て! そんな馬鹿げた力の奔流を、俺が『器』として受け止めたら、どうなる! 俺の魂ごと、引き裂かれるぞ!」

「……フフ」

エルミナは、こんな時だというのに、ふわりと俺に近づいた。

「だから、言っただろう? 『私』がいる、とね」


彼女は、俺の肩先に、その半透明の顔を寄せた。

「私は、霊体だ。肉体という『枷』がない。私が、君という『器』と、あの『力』の間に立つ、『濾過器(フィルター)』となる」

「光の力は、まず、私を通過する。私が、その力から『消去』の概念だけを取り除き、純粋な『原初の力』だけを、君へと流し込む。……どうだい? 亡霊とは、なんと便利な『道具』だろう」


「……あんたに、リスクはないのか」

俺は、彼女の目を睨みつけた。

「禁断魔法だ。必ず、相応の『代償』があるはずだ」


「おや?」

エルミナは、心底、意外だというように、目を丸くした。

「この期に及んで、この私を、心配してくれるのかね? あのザグラムにすら後悔を覚える君だ。本当に、君という男は……」

彼女は、俺の生体鎧の、胸の部分――リナの祝福が宿る場所――を、半透明の指先で、そっと撫でた。


「……可愛いヤツだ」

「答えろ、エルミナ!」

「代償、か」


彼女は、わざとらしく、うーん、と考える素振りを見せた。

「そうだね。この術式は、私の魂の、ほぼ全てを『燃料』として使う。……だから、そうだな」

「……術が終われば、私は、ひどく『疲れる』だろうね」


「疲れる?」

「ああ。途方もなく、ね。おそらくは、『眠る』ことになる。深く、長―――い、眠りに。……そうさな、千年か、あるいは二千年か」


「千年……!」

「だが、死にはしないよ。私は、もう死んでいるのだからね」

エルミナは、俺から、ふわりと離れた。


「……だが、アレン君。君には、その『代償』を、支払ってもらう」

「……なんだ」

「私が、その『千年』の眠りから覚めた時。君は、当然、地上に戻り、ザグラムへの復讐も終えているのだろう?」

「……ああ」

「ならば、君は、私のために、この世で最も豪華で、最も魔力のこもった、『魂の器(ソウルジェム)』を用意しておくことだ。それが、私の『寝床』となる」


彼女は、悪戯っぽく、片目をつぶった。

「もし、それが、安物だったり、君の趣味が悪い代物だったりしたら……。フフ。私は、君の子孫七代まで、末代まで、祟り続けてやる。……それが、私の『契約』だ。この禁断魔法の『代償』として、君が支払う『対価』だよ。……どうだい? 払えるかね?」


俺は、彼女の目を、まっすぐに見返した。

千年の眠り。

魂の器。

その、あまりにも「エルミナらしい」要求。

彼女が、この一万年で、どれほど「上質」なものを求めていたか。

その「対価」は、彼女の性格を知る俺にとって、あまりにも「本当」に聞こえた。


「……分かった」

俺は、頷いた。

「千年の眠り。そして、最高の寝床。……安いもんだ。それで、あんたが助かるなら」

「……!」

「必ず、用意してやる。だから、成功させろ、エルミナ」


光の巨人が、ついに、最大出力の「消去」の光を、俺たちに向かって、放った。


「……ああ」

エルミナが、笑った。

それは、俺がこれまで見た、どの「からかい」の笑みよりも、どの「憎悪」の表情よりも、遥かに、美しく、そして、悲しい笑顔だった。


「―――君は、本当に、馬鹿な男だ」


彼女は、俺の前に立ちはだかり、光の奔流に向かって、両手を広げた。

「契約成立だ。……私の『最初』で、『最後』の、希望君」


彼女は、俺には聞こえない声で、禁断魔法の、最後の一節を、紡いだ。

「【魂魄譲渡】――さあ、存分に、喰らいたまえ」

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