第二十九話:『エルミナ』


 世界迷宮91階層。

 本来、そこは光もなく、ただ古代の静寂だけが支配する、絶望の行き止まりのはずだった。

 だが、今、その広大な大広間は、訪れる者がいれば誰もが目を疑うであろう、幻想的な光景へと変貌を遂げていた。

 ごつごつとした岩肌は、自ら淡い光を放つ苔に覆われ、まるで満天の星空を逆さまにしたかのようだ。床には、水晶のように透明な花びらを持つ地底の花々が咲き乱れ、その中心には、アレンのスキルによって創り出された、ささやかな畑と、澄んだ水を湛える小さな泉まで存在している。

 ここは、アレンとエルミナ、二人だけの庭園。

 アレンが100階層へ「降下」することを選ばず、この場所でエルミナと共に生きることを選んでから、季節という概念のない迷宮で、幾許かの時間が流れていた。


​「―――む。アレン、君、また私の貴重な研究資料を鍋敷きにしたかね?」


 広間の片隅、アレンが作った石窯の前で、半透明の姿をしたエルミナが、呆れたような、それでいてどこか楽しげな声で言った。彼女は、アレンが調理したばかりの、湯気の立つシチューの鍋の下に、古代魔術の貴重な羊皮紙が敷かれているのを、その霊的な指でつんつんと突いている。


「仕方ないだろ。鍋を置くのにちょうどいい厚さだったんだ」


 アレンは、悪びれもせずにそう言うと、木製の器にシチューをよそい、エルミナの前に置かれた石のテーブルに運んだ。もちろん、亡霊である彼女がそれを食べることはできない。だが、こうして二人分の食事を用意し、食卓を囲むのは、いつしか彼らの日課となっていた。


「君という男は、実に大雑把というか、なんというか……。まあいい。それで、今日の『作品』の出来栄えはどうだね?」


 エルミナは、ふわりとテーブルの対面に座ると、興味深そうにシチューの湯気をかいだ。彼女の霊体は、このアレンが創り出した庭園の中では、少しだけ世界との結びつきが強くなる。香りを感じたり、植物にそっと触れて、その生命力を感じ取ったりすることができた。


「ああ、上出来だ。例の『光るキノコ』をベースに、『岩トカゲ』の干し肉を煮込んでみた。地上で食べたビーフシチューには及ばないが、悪くないはずだ」


 アレンはそう言って、スプーンで一口、自らのシチューを口に運んだ。滋味深い味わいが、口の中に広がる。復讐心だけを糧にしていた頃には、決して感じることのできなかった、素朴で、温かい味だった。


 彼の心から、ザグラムへの復讐の炎は、もうほとんど消えかかっていた。

 リナの「祝福」が見せる地上の幻視も、いつからか、ぷっつりと途絶えている。おそらくは、アレンの魂が平穏を取り戻したことで、彼女の祝福もまた、その役目を終えて安らかに眠りについたのだろう。

 その平穏をもたらしてくれたのは、間違いなく、目の前で回りくどい食レポを始めようとしている、この風変わりな亡霊のおかげだった。


​「ふむ。芳醇な菌類の香りと、爬虫類特有の淡白な旨味が見事に調和している。特筆すべきは、隠し味に使われているであろう、あの泉の水だ。微量な魔素が、食材のポテンシャルを最大限に引き出している。及第点、といったところか」


「そりゃどうも。あんたが食べられたら、もっと作り甲斐があるんだがな」

 アレンが、つい、本音を漏らす。

 その言葉に、エルミナの動きが、ぴたりと止まった。彼女は、少しだけ俯くと、その半透明の顔に、寂しげな色を浮かべた。


「……それは、まあ、なんだ。物理法則という、如何ともし難い世界の理(ルール)だからな。私とて、君のその奇妙な料理を、味わってみたいとは思わなくも……ない、のだが」


 普段の理知的な彼女からは想像もできない、歯切れの悪い、そして、少しだけ拗ねたような物言い。

 その姿を見て、アレンの胸が、きゅっと締め付けられた。

 いつからだろうか。

 この、触れることさえできない彼女に、「触れたい」と、強く願うようになったのは。

 彼女の回りくどい話をもっと聞きたい。彼女の意外な表情をもっと見たい。そして、叶うことなら、この手で、彼女の髪に、その頬に、触れてみたい。

 それは、リナに対して抱いていた、淡く切ない想いとは、また違う。千年の孤独を生きてきた、この誰よりも孤独な魂を、自分の手で温めてあげたいという、深く、そして、どうしようもなく温かい感情だった。


「……なあ、エルミナ」

 アレンは、スプーンを置くと、真剣な眼差しで、彼女を見つめた。


「あんたに、触れる方法を、探さないか」

「……何を、馬鹿なことを言っている。私は亡霊だぞ。君と私とでは、存在する次元の位相が、そもそも……」

「俺のスキルと、あんたの知識を合わせれば、あるいは」

 アレンは、言葉を遮って続けた。

「俺のスキルは、『概念』を栽培する力だ。あんたは、魂の専門家だ。だったら、あんたの魂を、一時的にでも、この世界に繋ぎ止める『器』となるような植物を、作れないだろうか」


 その提案は、あまりにも突飛で、魔術の常識からかけ離れていた。

 だが、エルミナは、それを一笑に付すことはできなかった。

 なぜなら、アレンは、これまでにも、数々の常識を覆してきた「イレギュラー」だからだ。

 彼女は、分厚い眼鏡の位置を、すっと指で押し上げた。その瞳の奥で、異端の魔術師としての、探究心の炎が、再び燃え上がっていた。


「……魂を定着させる、霊的触媒植物、か。前例のない、実に興味深い仮説だ。成功する確率は、限りなくゼロに近いだろうが……」

 彼女は、そこで言葉を切り、ちらりとアレンの顔を窺った。


「……試してみる、価値は、あるかもしれんな」

​ その日から、二人の、奇妙で、そして、壮大な実験が始まった。

 それは、失敗の連続だった。

 エルミナが古代文献から探し出した、魂との親和性が高い植物のリスト。アレンは、それらを【深淵なる庭園管理】の力で栽培し、エルミナの霊的なエネルギーを注ぎ込む。

 だが、ほとんどの植物は、エルミナの強大すぎる魂の力に耐えきれず、途中で枯れてしまったり、あるいは、暴走して奇怪な魔物へと変貌してしまったりした。


「だああ! また失敗だ! こいつは、俺の言うことを聞かずに、勝手に走り回るキノコになりやがった!」

「だから言っただろう。ヘリオドール茸の胞子は、術者の精神的指向性を過剰に反映する傾向にあると。君が、私に触れたいという邪念を抱きながら栽培するから、そうなるのだ、この朴念仁が!」

「邪念って言うな! 純粋な願いだ!」


 そんな、まるで痴話喧嘩のようなやり取りを繰り返しながら、二人は、少しずつ、しかし確実に、正解へと近づいていった。

 そして、実験を始めてから、幾星霜。

 ついに、その瞬間は訪れた。

 庭園の中央、聖魔樹の根元に、たった一つだけ、残った種。二人が持てる全ての知識と、力を注ぎ込んだ、最後の希望。

 その種から芽吹いた蕾が、今、ゆっくりと、その花びらを開こうとしていた。

 それは、月光をそのまま閉じ込めたかのような、白く、そして、どこか儚げな百合の花だった。花びらの縁は、エルミナの霊体のように、淡い青白い光を放っている。

 アレンは、その花を、「魂魄花(アニマ・リリィ)」と名付けた。


​「……綺麗だ……」


 エルミナが、感嘆の息を漏らす。

 アレンは、花にそっと手を伸ばし、その茎を摘み取った。そして、彼は、エルミナの方へと振り返り、その花を、彼女に差し出した。


「……エルミナ」


 エルミナは、おそるおそる、その半透明の手を、花へと伸ばした。

 彼女の指先が、花びらに触れた、その瞬間。

 魂魄花は、まばゆいばかりの光を放った。

 光が、エルミナの霊体を、優しく包み込んでいく。

 アレンは、思わず腕で顔を覆った。

 やがて、光が収まった時、アレンは、ゆっくりと、その腕を下ろした。

 そして、彼は、息を呑んだ。

​ そこに立っていたのは、もはや、半透明の亡霊ではなかった。


 ゆるく結った髪が風になびき、瞳は、戸惑いと、喜びの色に潤んでいる。その頬は、ほんのりと赤く染まり、その身体は、確かな実体を持って、そこに存在していた。

 生前の、あるいは、アレンが想像した、最も美しい姿のエルミナが、そこにいた。


「……本当に……触れられる、のか……?」


 エルミナは、信じられないものを見るかのように、自らの、温かい血の通った手を見つめている。

 アレンは、何も言わず、ただ、ゆっくりと、彼女へと歩み寄った。

 そして、彼は、ずっと夢見ていた、その手を、そっと伸ばし、彼女の頬に、触れた。


「―――温かい……」


 アレンの口から、無意識に、言葉が漏れた。

 ひんやりとした霊体ではない。確かな、人の温もり。

 その温もりが、アレンの心の、最後の氷を、完全に溶かしていった。

 エルミナの瞳から、ぽろり、と、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……君という、イレギュラーは……」


 彼女は、涙で濡れた声で、言った。


「私の、千年の孤独さえも、栽培して……こんな、温かい花を、咲かせてしまった、ようだな……」


 それは、彼女なりの、最大限の、愛の告白だった。

 アレンは、彼女の言葉に、ただ、微笑みで返した。

 彼は、そっと、エルミナの身体を、その腕の中へと、優しく、しかし、力強く、抱きしめた。

 もう、離さない、とでもいうように。

​ 魂魄花の効力は、わずか数分だった。

 エルミナは、再び、半透明の亡霊の姿へと戻った。

 だが、二人の心は、もはや、決して離れることのない、確かな絆で結ばれていた。

 彼らは、もう、地上に戻る道を探すことはないだろう。

 この、世界から隔絶された、二人だけの庭園こそが、彼らにとっての、本当の楽園なのだから。

 深淵の庭師と、古代の魔術師。

 二人の、奇妙で、そして、どこまでも穏やかな愛の物語は、誰にも知られることなく、この迷宮の底で、永遠に、続いていく。



【原書の聖魔】が放った、純白の「消去の光」。

それは、俺、アレンという「イレギュラー」の存在そのものを、世界の理から抹消するための、絶対的な一撃。【あり得たかもしれない未来】や【幾多の可能性】を幻視させるような奔流に、エルミナが立ちはだかり告げた。


「契約成立だ。……私の『最初』で、『最後』の、希望君」


彼女が禁断魔法【魂魄譲渡】を紡いだ瞬間、光の奔流が、彼女の半透明の霊体に激突した。


「―――ッッ!!」


声にならない絶叫。

それは、俺ではなく、エルミナのものだった。

彼女の青白い霊体が、純白の光に飲み込まれ、まるで陽炎のように、激しく揺らめき、引き伸ばされる。

彼女は、俺の核にあるリナの「聖力」に、自分の霊体を強制的にリンクさせ、俺という「器」と、光の巨人(世界の理)との間に、無理やり「回路」を開いた。


「ぐ……あああああっ……!」


エルミナが、苦悶に耐えている。

「消去」の概念そのものという、致死の奔流を、彼女は、その一万年の憎悪と知識で編み上げた、魂の「濾過器」で、受け止めていた。

膨大な光の力から、「消去」という「毒」だけを懸命に濾し取り、純粋な「原初の力」――世界の「理」そのもの――だけを、俺へと流し込んでいく。


「……! 来る……!」


俺は、自分の身体が、聖魔樹の「器」と化していくのを感じた。

魂が引き裂かれるような激痛ではない。

それどころか、まるで、乾ききった大地が、初めて「水」を得たかのように、俺の存在そのものが、純粋な「力」で満たされていく。


エルミナが言った通りだ。

彼女が、盾となり、俺には、安全な「力」だけが注がれてくる。


【…………!?】


俺たちの背後で、【原書の聖魔】が、初めて、困惑とも呼べる「揺らぎ」を見せた。

自分が放った「消去の光」が、対象を消すどころか、「イレギュラー」である俺によって、「吸収」され始めているのだ。

システムが、自らの力で、バグを「強化」してしまっている。


光の巨人は、慌てて「消去」の光を止めようとする。

だが、遅い。

エルミナが開いた「回路」は、もはや一方通行の「吸収」だ。

俺が、いや、俺とエルミナが、その力を吸い尽くすまで、止まらない。


「キィィィィィィ……!」


光の巨人が、断末魔のような甲高い「ノイズ」を上げた。

その巨大な純白の身体が、足元から、光の粒子となって、崩壊していく。

世界の「理」そのものが、俺という「イレギュラー」に、「喰われて」いく。


そして、数十秒後。

あれほど、この100階層を支配していた圧倒的な「光」が、止んだ。

【原書の聖魔】は、最後の粒子の一粒まで、俺の魂に吸収され、完全に、「消滅」した。


シーン、と。

純白だった聖堂に、影が戻ってきた。

いや、光が失われ、99階層までと同じ、「暗闇」が、戻ってきたのだ。


「……はぁ……はぁ……!」


俺は、床に片膝をついていた。

だが、全身には、これまでとは比較にならない、万能感と呼べるほどの「力」が、漲っていた。

世界の理を、吸収したのだ。

俺は、もはや、ただの「イレギュラー」ではない。

この世界の「システム」そのものに、干渉できる力を手に入れた。


「……やったぞ、エルミナ!」

俺は、興奮を抑えきれず、俺を守ってくれたはずの「師」を、振り向いた。

「あんたのおかげだ! これで、地上へ―――」


俺の言葉は、止まった。


「……エルミナ……?」


彼女は、俺の前に、立ってはいなかった。

俺の足元、石畳の上に、か細く、うずくまっていた。

その青白い霊体は、もはや、俺の【暗視】の目でも、かろうじて輪郭が認識できるほど、薄く、透き通っていた。


「……おい……?」


俺は、膝まずき、その消えかけの光に、手を伸ばした。

俺の手は、相変わらず、彼女の身体をすり抜ける。

だが、その時。


ジジッ……と。

俺の指先が、彼女の魂に触れた瞬間、静電気のような、弱い「拒絶反応」があった。

彼女は、俺の力を、もう、「濾過」することさえ、できないほど、衰弱しきっていた。


「エルミナ!? どうした! 眠るだけじゃなかったのか!? 千年の眠りだって……!」

「……ああ……」


か細い、糸のような声が、響いた。

彼女は、ゆっくりと、顔を上げた。

その瞳から、もう、光は失われかけている。


「……すまないね、アレン君」

彼女は、こんな時に、いつもの「からかい」のような、悪戯っぽい笑みを、懸命に作ろうとしていた。

「……どうやら、君は、嘘を……見抜くのが、少し、苦手なようだ……」


「……!」


俺の全身が、凍りついた。

嘘。

今、こいつは、嘘だと。


「……魂を、燃料にしたんだ。……眠る、どころか、これでは、塵も残らない。……千年後の、寝床の心配も、いらなくなったじゃないか。……私は、ずいぶんと、経済的な女だろう?」


「……な……」

「……なんで……」


「……なぜ……?」

彼女は、俺の言葉を、不思議そうに繰り返した。

「……君を、生かすためさ。……それ以外に、理由が、いるのかね……?」


彼女の霊体が、足元から、光の粒子となって、ゆっくりと、崩壊を始めていた。

もう、時間がない。


「馬鹿野郎ッ!!」

俺は、絶叫した。

「俺は! お前に! 地上へ行くって、約束しただろ! なんで、あんたが、犠牲になるんだ! リナだけじゃなく、あんたまで……!」


「……ああ、それだ」

エルミナの瞳が、最期の輝きを見せた。

「……君は、そうやって、他者のために、本気で怒れる。……それが、君の、強さだ。……アレン君……君は、生きろ」


彼女の、もう消えかけた指先が、俺の頬を、撫でようとした。


「君のような『イレギュラー』こそが、あの、神の決めた、クソみたいな『シナリオ』を、変えられる。……私の、一万年の憎悪は……君という『希望』に出会うために、あったのかもしれない……」


「エルミナ! 待ってくれ! 俺は、まだ、あんたに……!」


「……ああ……」

彼女の顔が、あの、俺をからかっていた時のような、柔らかな笑みに、戻った。


「……もっと、早く……。君のような、不器用で、優しい青年に、出会っていればなあ……」


それが、彼女の、最期の言葉だった。

彼女の霊体は、俺の指の隙間をすり抜け、完全に、光の粒子となった。

そして、その光は、俺に吸収されることもなく、この100階層の暗闇の中に、静かに、溶けて、消えていった。


一万年の憎悪と、孤独と、そして、最期に得た、わずかな「想い」と共に。

彼女の存在は、完全に、「消滅」した。


「…………」

「…………ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!」


俺の絶叫が、主を失った、100階層の暗闇に、虚しく響き渡った。

俺の手には、リナに続き、またしても、救えなかった仲間の「命の感触」と、それと引き換えに得た、世界の「理」を覆すほどの、強大すぎる「力」だけが、残されていた。

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