第二十話:『第一の幻視、ザグラムの歪んだ庭』


世界迷宮91階層、「封印の書庫」。

エルミナという一万年前の亡霊を師として得てから、俺、アレンの変貌は加速していた。


「……違うね、アレン君」

書庫の中央に浮かぶエルミナが、半透明の腕を組んで、厳しく、しかしどこか楽しそうな声色で指摘する。

「君が今『栽培』しようとしているのは、高位の『氷結術式』だ。それは、ただ対象を『凍らせる』現象ではない。対象の『熱運動を停止させる』という『概念』そのものだ。君の憎悪の熱量だけでそれを御しようとしても、互いに反発して『種』が実る前に破裂するだけだよ」


「……うるさい。分かってる」

俺は、汗だくになりながら、床に描かれた複雑な古代魔方陣に、再び聖魔樹の根の先端を触れさせた。

【深淵なる庭園管理】スキルを発動し、エルミナの助言通り、俺の核にあるリナの「聖力」――その絶対的な「静謐」のイメージ――を、魔方陣に流し込む。


(「熱」を「憎悪」で奪うのではなく、「聖」の力で「無」に還す……)


ズズズ……と、今度は魔方陣が安定し、その「概念」が聖魔樹の根に吸収されていくのが分かった。

99階の拠点。俺の「庭」で、聖魔樹の枝先に、青白い光を放つ、新たな「魔法の種」が実っていく。


修行は、順調だった。

「発火」の種に加え、「氷結」の種、そして「雷撃」の種。

俺の戦闘スタイルは、もはやただの「槍使い」ではなく、これらの「種」を【植物兵装】に埋め込み、あるいは投擲することで、詠唱破棄の「魔術師」の領域にも踏み込みつつあった。


強くなっている。

復讐の日は、確実に近づいている。

俺は、この修行に没頭していた。

リナの死を、ガイウスの末路を、裏切り者たちの顔を、一時でも忘れるために。


だが。

「それ」は、唐突にやってきた。


「―――ッッ!!」


集中が、途切れる。

激しい「痛み」が、俺の身体を内側から貫いた。

いや、痛みではない。

「疼き」だ。


「……が……ぁ……」


俺は、自分の胸を押さえて、その場に膝をついた。

心臓のあたり。

ザグラムの【アビス・ゲート】からも俺を守り抜き、この深淵で俺を生かし続けてきた、リナの「聖なる祝福」。

その「核」が、まるで共鳴するかのように、激しく脈打ち、灼けるような熱を発している。


「アレン君!?」

エルミナが、驚いたように俺の顔を覗き込む。

「どうした!? 魔力の逆流か!? いや、違う……君の核にある、あの『聖力』の波動が、異常に乱れている……! まるで、何かに……『呼ばれて』いるようだ」


「……呼ばれて、いる……?」


彼女の言葉を理解する間もなかった。

胸の疼きは「激痛」へと変わり、俺の視界が、急速に暗転していく。

91階層の書庫が、エルミナの姿が、遠ざかっていく。


(……なんだ、これは……)


世界迷宮の暗闇とは、明らかに「質」の違う、別の「闇」。

意識が、身体から引き離される。

そして、次の瞬間。

俺は、「見て」いた。


そこは、俺の知らない場所ではなかった。

信じられないほど、見覚えのある場所だった。

俺が追放され、聖樹を育て、リナと出会い、そして、すべてを失った――

あの、第一部の「俺の農園」があった場所だ。


だが、その光景は、俺の記憶とは、似ても似つかないものへと変貌していた。


「……あ……」


空が、紫色の瘴気で淀んでいる。

かつて、清浄な結界が張られていた大地は、おぞましい「肉腫」のように脈打つ、巨大な「根」に覆い尽くされていた。

そして、中央。

俺の聖樹が焼かれた、まさにその場所に。

天を突くほど巨大な、禍々しい「樹」が、そびえ立っていた。


それは、俺が99階で育てた「聖魔樹」に、酷似していた。

だが、決定的に違う。

俺の聖魔樹が「聖」と「魔」の融合であるならば、あれは、「聖」の力を無理やり「魔」で汚染し、腐敗させただけの、「歪んだ聖魔樹」だった。

その幹は、聖樹の白さを残しながらも、ザグラムの魔炎と同じ、不吉な紫色の紋様に侵食されている。


「……ザグラム……」


俺の「視点」が、その樹の根元へと移動する。

そこには、巨大な「歪んだ聖魔樹」の根が、まるで玉座のように盛り上がっていた。

そこに、奴は座っていた。


片目に、漆黒の眼帯。

俺が、あの最後の抵抗で潰した、左目。

魔王軍幹部、ザグラム。

彼は、俺の知る姿よりも、さらに冷酷で、強力な魔力を放ち、その玉座から、眼下の光景を、冷ややかに眺めていた。


「……ひぃ……!」

「お助けを……ザグラム様……!」

「魔力が……身体から、魔力が消えていく……!」


ザグラムの玉座の前には、広場が作られ、そこには、無数の「魔族」たちが、長い列をなしていた。

彼らは皆、かつて商人Z(ザグラム)が語っていた、「魔力枯渇病」に苦しみ、肌はカサカサに乾き、衰弱しきっていた。

死を待つだけの、絶望した民。


そこへ、ザグラムの部下(魔王軍の兵士)が、大鍋で煮込んだ「何か」を、椀によそって、魔族たちに与えていく。

その「何か」の材料――それは、「歪んだ聖魔樹」が実らせた、紫色の「果実」。

俺が育てた「聖魔茸」の、おぞましい模倣品だった。


薬を飲んだ魔族たちは、その場で、一時的に魔力を回復させる。

乾いていた肌に潤いが戻り、衰弱していた身体に力が漲る。


「おお……!」

「力が戻った……!」

「奇跡だ! ザグラム様が、我らを救ってくださった!」

「救世主だ! 我らが救世主、ザグラム様!」


回復した魔族たちは、ザグラムに向かって五体投地し、彼を「救世主」と崇め、狂信的な祈りを捧げている。

ザグラムは、その光景を、片目で冷ややかに見下しているだけだった。


(……違う……!)


俺は、幻視の中で叫んだ。

俺の「視点」は、リナの「祝福」の力か、その光景の「真実」を見抜いていた。


(……救ってなんか、いない……!)


あの「薬」は、彼らの病を治してはいない。

それどころか、彼らの魂を、あの「歪んだ聖魔樹」に、無理やり「接続」させている。

彼らは、魔力を回復したのではない。

樹の「養分」にされ、生かさか殺さず「管理」されているだけだ。

そして、あの樹は、彼らの魔力を吸い上げ、さらに巨大化していく。


これは、「救済」ではない。

「寄生」だ。

ザグラムは、俺から奪った農園のデータ(土と聖樹の残骸)を悪用し、この世で最悪の「搾取システム」を完成させていたのだ。

魔族たちを「家畜」として。

自分を「神」として。


(……俺の……)


俺のスローライフの夢が。

リナと二人で育てた、あのささやかな「希望」が。

あの男の手によって、人々を欺き、支配するための、「偽りの奇跡」の道具にされている。


「―――ッッ!!!!」


俺の意識は、激しい怒りと共に、幻視から引き戻された。


「……はぁっ……! はぁっ……!」

91階層の書庫。

俺は、冷たい石畳の上で、荒い息をついていた。


「……アレン君? 無事かね?」

エルミナが、心配そうに(しかし、それ以上に、極度の好奇心に満ちた目で)、俺を覗き込んでいた。

「今、君の聖力の波動が、地上の『何者か』と強くリンクした。……一体、何を見たんだい?」


俺は、彼女の問いには答えず、ゆっくりと立ち上がった。

血が、沸騰している。

これまでの復讐心が、ガイウスへの「後悔」や、エルミナとの修行で、わずかに「冷静」さを取り戻しかけていた。

だが、今の幻視で、すべてがひっくり返った。


俺は、床に落ちていた「氷結の種」を、掌が砕けんばかりに、握りしめた。


「……許さない」


声が、震えていた。


「あいつだけは……ザグラムだけは、絶対に、許さない……!」


俺の夢を、リナの想いを、あんな形で利用し、弄ぶことなど。

断じて。


俺の憎悪は、今や、エルミナの指導で得た冷徹な「技術」と、この「幻視」によって確信に変わった「真実」によって、もはや誰にも止めることのできない、復讐の「炎」へと、再び燃え上がっていた。

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