第二十一話:『第二の幻視、勇者ガイウスの末路』


「―――許さない」


91階層、「封印の書庫」。

俺、アレンの口から漏れた、自分でも驚くほど冷え切った殺意。

リナの祝福が強制的に見せた、ザグラムの「歪んだ庭」の光景。俺の夢とリナの想いを「偽りの奇跡」として利用し、魔族たちを家畜同然に支配する、あの男の悪逆非道。

それによって、一度はエルミナとの修行で制御しつつあった俺の憎悪は、再び激しく燃え上がっていた。


「……フフ」

俺の背後で、エルミナが感嘆の息を漏らす。

「素晴らしい憎悪だ、アレン君。君の魂は、それ(・・)に焼かれながら、同時に『肥料』として、さらに強靭になっていく。実に稀有な才能だ」

彼女の賞賛は、もはや俺の耳には届いていなかった。


(修行だ。もっと、強く)


俺は、ザグラムの顔を脳裏から振り払い、目の前の古代魔方陣に再び意識を集中させようとした。

あいつを、あの歪んだ庭ごと、俺の手で根絶やしにする。

そのためには、エルミナの知識が、もっと必要だ。

俺は、逸る心を抑えつけ、聖魔樹の根に魔力を流し込もうとした。


だが、その瞬間。


「―――ッ!?」


再び、あの「疼き」が、俺の胸を内側から抉った。

一度収まったはずのリナの祝福が、まるで地上の「何か」に、再び強く引かれるように、激しく脈動する。


「……また、か!?」

「アレン君!?」


エルミナの驚く声が遠のいていく。

視界が、今度は怒りではなく、別の感情で暗転していく。

ザグラムの幻視のような、強烈な「悪意」ではない。

もっと……薄汚く、アルコールの匂いがするような、惨めで、情けない「絶望」。


意識が、世界迷宮の底から引き剥がされ、再び、地上へと飛んだ。



俺の「視点」が映し出したのは、日の光が差す、王都の「広場」だった。

かつて、俺がゴルドーの店に野菜を卸し、聖女リナと初めて出会うきっかけとなった、あの場所。

だが、俺の記憶にある活気は、そこにはなかった。


「ぎゃあああああっ!!」

「化け物だ! 街の中に、化け物が!」


パニック。

悲鳴。

逃げ惑う、市民たち。

彼らを襲っているのは、魔王軍の兵士ではなかった。

人型。

だが、その皮膚は、ごわごわとした「樹皮」のように変質し、両腕は、鋭い「棘」のついた「蔓」へと変貌している。

緑色の体液を垂れ流し、理性を失った目で、ただ破壊と殺戮を繰り返す。


(……植物兵士)


俺は、即座に理解した。

ザグラムが、あの「歪んだ聖魔樹」の薬で生み出した、成れの果てだ。

薬の副作用で凶暴化し、精神を破壊された、元・魔族たち。

王都の衛兵たちが、剣で斬りかかるが、刃は硬い樹皮に弾き返される。

蔓の一撃で、衛兵の鎧は紙のように貫かれ、広場は阿鼻叫喚の地獄と化していた。


俺の「視点」は、広場の喧騒から、一軒の「酒場」へと移動した。

その扉が、内側から、乱暴に蹴開けられる。



「……うる……せえな……。昼間から、何を騒いでやがる……」


酒瓶を片手に、ガイウスは王都の酒場の扉を乱暴に蹴開けた。

視界は常にブレており、全身は朝から酒の匂いにまみれている。アレンを追放したあの日から、すべてが狂い始めた。ポーションの原料は質が落ち、パーティの誰もが疲弊した。結局、魔法使いも戦士も、彼を「無能なリーダー」だと罵って去っていった。彼は、勇者という役割を失った絶望と、誰にも認められないという孤独な恐怖から、酒浸りの日々を送っていた。


「助けて! 勇者様!」

「ガイウス様! 化け物です!」


逃げ惑う市民の悲鳴が、濁った耳にも届く。


「……あ? 化け物だぁ?」


呂律の回らない口調で、広場を蹂虷する異形を見た瞬間、ガイウスの身体から、酒が、一気に醒めた。


(なんだ、あれは……!)


皮膚は樹皮に変質し、両腕は鋭い棘のついた蔓へと変貌している。ザグラムが生み出した「植物兵士」だ。王都の衛兵たちが勇敢にも剣で立ち向かっているが、その刃は硬い樹皮に弾かれ、鎧ごと貫かれていく。


「……ヒッ」


彼の身体が、本能的な恐怖で震えた。あれは、自分の手に負える相手ではない。彼は逃げ出そうと、一歩後ずさった。生きるための思考が、彼を路地裏へと導こうとする。

だが、その時。

一体の植物兵士が、怯えて泣き叫ぶ、幼い子供に、その棘の蔓を振り上げた。


(……くそ……)

彼の身体が、思考より先に、動いていた。

酒瓶を投げ捨て、錆び付いた聖剣を抜き放つ。それは、勇者としての役割から解放された**「一人の人間」としての、最後のプライド。そして、幼い頃から追い求め続けた「承認」**を得るための、最後の賭けだった。


「―――やめろぉぉぉぉぉぉっ!!」

彼の全てを込めた一撃は、子供を庇い、植物兵士の蔓と真正面から激突した。


だが。

パキィィィィィンッ!!!!

あまりにも、乾いた、軽い音がした。

蔓とぶつかった聖剣は、まるでガラス細工のように、真っ二つに折れた。


「…………え?」


ガイウスの目が、信じられないものを見た、というように、見開かれる。

(なぜだ……! なぜ折れた!? 俺の剣だぞ!?)


ガイウスは、死の間際に理解した。

アレンが調達していた特殊な油、アレンが【庭園管理】で栽培していた耐久性を高める薬草。

それらが途絶えたことで、聖剣は力を失っていたのだ。

アレンの「目に見えない貢献」が、剣という「目に見える力」を支えていたという、残酷な真実を。


「キシャアアアア!!」


植物兵士は、構うことなく、無防備になったガイウスの胸に、残った蔓を突き立てた。


「……あ……が……」


蔓が胸を貫く。彼は、自分の胸を貫いた蔓と、折れた剣の柄を、交互に見た。そして、彼は、叫んだ。

化け物に向かってではない。この不条理な「運命」に、そして、かつて自分を否定した世界に。


「……なぜだ……!? なぜ、こうなる……!?」

「俺は、ただ、リーダーとして……! 目に見える成果を出し続けないと、誰も俺を認めないんだ!!」

「なぜ分からない!? 感情論だけで、勇者の立場は守れねぇんだ!!」


それは、彼の、最後に残された、切実な「本音」だった。彼は、自分の承認欲求と立場を守るために、最も貢献度の見えにくいアレンを追放するという、非情で、しかし彼なりの「正しい判断」を下した。その結果が、これだった。


「……がふっ……」


植物兵士は、興味を失ったように、ガイウスの身体を、汚い路地の瓦礫の山へと、無造作に投げ棄てた。「勇者ガイウス」は、彼が守ろうとした市民たちの目の前で、誰にも看取られることなく、あっけなく、息絶えた。その手には、折れた剣の柄だけが、虚しく握りしめられていた。





「…………」


幻視が、終わる。

俺の意識は、91階層の、冷たい書庫へと戻ってきた。俺は、石畳の上に、立ち尽くしていた。

俺の復讐の、半分が、終わった。俺の手ではない、誰かの手によって。

俺は、胸に手を当てた。

もっと、こう、歓喜が湧き上がると、思っていた。「ざまあみろ」と、高笑いすると、思っていた。

憎い敵が、無様に死んだのだ。

だが。

俺の心に浮かんだのは、凍りつくような「虚無感」と、そして深い後悔だけだった。ガイウスの、あの最後の叫びが、耳にこびりついて離れない。


(……目に見える成果を出し続けないと、誰も俺を認めないんだ……)


俺が憎んでいたのは、あの傲慢な態度だけだった。

しかし、その傲慢さの裏に、彼がどれほどの構造的な重圧に晒されていたのかを、俺は知ろうともしなかった。

俺の地味な貢献は、彼の「勇者」という立場では評価しようがなかった。そして、俺自身も、「無能な庭師」という役割を押し付けられるのが嫌で、彼を理解しようとしなかった。


俺の復讐の半分は、誰の喜びにもつながらない、こんなにも惨めな形で終わった。


「……エルミナ」

俺は、かろうじて、声を絞り出した。


「修行の、続きを頼む」

「……いいのかね? 少し、休んだら」

「いらない」


俺は、槍を握り直す。

ガイウスは、死んだ。

残るは、一人。

ザグラム。


俺は、この虚しさごと、あの男に叩きつけなければならない。

俺の、この歪んだ感情の、全ての責任を。


俺は、感情のない仮面のような表情で、エルミナの次の指導を待った。

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