第十七話:『91階層の「異邦人」』


92階層は、「嵐」のフロアだった。

遮蔽物のない荒野に、剃刀のような風が常に吹き荒び、巨岩すら宙に巻き上げる。

俺、アレンは、そこで風そのものを操る魔物「テンペスト・イーグル」の群れと死闘を繰り広げた。

その戦いで、俺は【耐熱鱗の鎧】を大きく損傷する代償を払ったが、奴らの「風を切り裂く翼」の特性を「栽培」することに成功した。

聖魔樹が実らせた【風切りのブーツ】は、俺の機動力を、もはや人間離れした領域へと引き上げていた。


そして今、俺は、92階層の主を倒し、その奥に続く、上層――91階層への階段の前に立っている。


ゴオオオオオッ、と。

背後では、92階層の嵐が、いまだに荒び狂っている。

だが、奇妙なことに、目の前にある91階層への入り口からは、風が一切、吹き込んできていなかった。

それどころか、音が、しない。


(……静かだ)


これまでの階層は、その入り口に立っただけで、フロアの「特性」が嫌というほど伝わってきた。

97階層の「毒の瘴気」。

96階層の「歪む重力」。

95階層の「灼熱の空気」。

92階層の「暴風」。

各階層は、その環境そのものが、侵入者を殺すための「罠」として機能していた。


だが、この91階層は、違う。

【暗視の果実】を得た俺の目にも、その奥はただ、穏やかな「闇」が広がっているようにしか見えない。

魔物の気配も、希薄だ。

まるで、嵐の後の、凪いだ海のような、不気味なほどの「静寂」。


(……罠か?)


あるいは、「精神攻撃」の類か。

だが、ここまで来て、立ち止まる選択肢はない。

俺は、修復と強化を終えた【炎牙の槍】を握り直し、その不気味な静寂の中へと、最後の一歩を踏み出した。



91階層は、俺の予想を、良い意味でも、悪い意味でも裏切った。

そこは、信じられないほど「広大」で、そして、信じられないほど「平穏」だった。


「……なんだ、ここは」


思わず、かすれた声が漏れる。

92階層までの、魔物の生存競争のために歪に形成された「魔境」とは、明らかに造りが違った。

まるで、巨大な神殿の「大広間」だ。

床は、自然の岩盤ではなく、磨き上げられた石畳のように見えるほど、平坦に均されている。

天井も、ドーム状に高く、99階で感じたような圧迫感はない。


そして何より、空気が、澄んでいた。

毒も、瘴気も、灼熱の熱もない。

99階で感じた、あの肌を刺すような濃密な魔素すら、ここでは、まるで濾過されたかのように、薄まっている。

【耐毒の外套】を脱ぎ、兜(魔物栽培で得た頭部防具)を外しても、深呼吸ができるほどだ。


(……聖魔樹のテリトリーに、似ている……?)


いや、違う。

俺の聖魔樹が作り出す「中立領域」は、魔素も聖力もすべてを喰らい尽くした「無」の空間だ。

だが、ここは、「管理」されている。

魔素が「無い」のではなく、高度な技術によって「浄化」され、生物が生存可能なレベルにまで「調整」されている。

まるで、誰かが「住んでいる」かのように。


(……まさか)


俺は、槍を構え直した。

99階からここまで、数ヶ月か、あるいは半年以上か。

俺は、自分以外の「知的生命体」の気配など、一度も感じたことはなかった。

Sランクパーティですら50階層が限界だ。

この91階層に、人が?

あり得ない。


俺は、この不気味なほど整然とした大広間を、慎重に探索し始めた。

復讐のため、地上に戻る。

そのためには、上層――90階層へと続く「出口」を見つけなければならない。


だが、この広間は、あまりにも広すぎた。

【暗視】の目が利いても、その全貌は見通せない。

ただ、ひたすらに、平坦な石畳の床が続いている。


カツ、カツ、カツ……。

俺の【風切りのブーツ】が、石畳を打つ音だけが、不気味に響き渡る。

魔物が、いない。

あれほど、俺の命を貪ろうと襲いかかってきた魔物たちが、この91階層には、まるで「存在を許されていない」かのように、一匹たりとも姿を見せない。


俺は、歩き続けた。

半日、歩いた。

だが、景色は変わらなかった。

平坦な床。

ドーム状の天井。

そして、どこまでも続く「壁」。


(……出口は、どこだ)


焦りが、胸をよぎる。

水と食料は、聖魔樹が実らせる「雫の実」と「赤い果実」の携帯用を、腰のポーチに詰めている。

だが、それも無限ではない。

なにより、この「停滞」が、復讐だけを糧に進んできた俺の精神を、内側から蝕んでいく。


(……まさか)


最悪の可能性が、頭をよぎる。


(……行き止まり、か……?)


90階層への道が、存在しない。

この91階層こそが、神々が定めた「最深部」であり、俺は、ただ無駄に階層を逆走してきただけだとしたら?

俺の復讐の道は、ここで、絶たれたのか?


「……ふざけるな」


苛立ちを隠さず、俺は壁を殴りつけた。

生体鎧に覆われた拳が、硬い石壁にぶつかり、鈍い音を立てる。

ザグラムの顔が、ガイウスの顔が、そして、薄ら笑いを浮かべた裏切り者たちの顔が、脳裏に浮かんでは消える。


(ここで、終わってたまるか……!)


俺は、思考をリセットした。

もう一度、最初からだ。

もし、ここが「人工的」な空間であるならば、「自然」の洞窟のように、分かりやすい「出口」など、ないのかもしれない。

「隠し通路」や、「起動させるべき『何か』」があるはずだ。


俺は、探索を再開した。

今度は、壁という壁を、槍の柄で叩き、音の変化を探る。

床の石畳一枚一枚に、体重をかけ、沈み込む場所がないかを探す。

元「庭師」としての、地道で根気のいる作業。

それは、今の俺にとって、唯一の得意分野だった。


そして、丸一日以上が経過した頃。

俺の【暗視】の目が、この広大な大広間の、最も奥まった、最も埃の溜まった「隅」で、不自然な「違和感」を捉えた。


「……ん?」


そこは、他の場所と、明らかに「埃の積もり方」が違っていた。

まるで、巨大な「円」を描くように、埃が薄くなっている。

いや、違う。

埃が「円」を避けるように、積もっている。


「……結界、か?」


俺は、慎重にその「円」に近づいた。

直径は、十メートルほど。

そこだけ、石畳の床が、まるで昨日磨かれたかのように、埃一つなく、滑らかだった。

そして、その「円」の中心。

そこに、それは刻まれていた。


「……模様……?」


それは、魔物の爪痕ではない。

自然の亀裂でもない。

明らかに「人工的」に刻まれた、複雑怪奇な「幾何学模様」だった。


俺は、その模様に見覚えがあった。

いや、厳密には、「似ているもの」を知っていた。

勇者パーティにいた頃、魔法使いのエララが、大魔法を使う時、地面に描いていた「魔方陣」だ。


だが、これ(・・)は、エララの使っていたものとは、次元が違う。

エララの魔方陣は、せいぜい数個の円と、数種類のルーン文字を組み合わせた、簡易なものだった。

だが、今、俺の目の前にある「これ(・・)」は――


(……なんだ、この複雑さは……)


数百、いや、数千にも及ぶ「線」が、寸分の狂いもなく引かれ、互いに絡み合い、一つの巨大な「術式」を形成している。

俺の知る現代のルーン文字など、一つも使われていない。

すべてが、未知の「記号」と「図形」で構成されている。


これは、現代の魔法ではない。

もっと古く。

もっと難解で。

そして―――桁外れに、強力な、「古代魔法」の術式跡だ。


(……誰かが)


俺は、戦慄した。


(誰かが、ここで、この「術式」を使ったのか)


Sランクパーティすら到達できない、この世界迷宮91階層で。

俺以外の「人間」が。

あるいは、人間に近い、「知的生命体」が。


この術式は、埃が積もることを拒否するほどの、強大な「魔力の残滓」を、今もなお、放ち続けている。


(……この先か)


俺は、この術式が、出口を探すための、唯一の手がかりだと確信した。

術式は、この「円」で完結していない。

円の一部から、まるで「道」を示すように、一本の魔力の「線」が、大広間の更なる奥――これまで俺が探索してこなかった、暗闇の中へと、かすかに続いていた。


(……『異邦人』か)


復讐の炎とは異なる、冷たい「好奇心」と、肌を刺すような「警戒心」。

俺は、槍を握り直し、そのかすかな魔力の残滓を辿るように、大広間の、本当の「最奥」へと、足を踏み入れた。

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