第十六話:『逆走の迷宮』


「聖魔樹(せいまじゅ)」のテリトリーに戻った俺、アレンは、幹に背を預け、息を整えていた。

リナの聖力と俺の復讐心を核に持つこの樹は、俺が98階層で「深淵の監視者(アビス・ウォッチャー)」を倒している間も、99階の岩盤の奥深くで、静かに俺の帰りを待っていた。


聖魔樹の根は、命令通り、「監視者」の石化した死骸のすべてを、この「庭」へと持ち帰っていた。

死骸はすでに聖魔樹の根元で「肥料」として分解・吸収され、その「力」は新たな「果実」として枝に実ろうとしている。


(……早かったな)


98階層への探索と戦闘で、俺は左腕の【甲殻の盾】を失った。

だが、得たものは、それ以上に大きいはずだ。


俺は、聖魔樹が新たに実らせた、二種類の「収穫物」に目をやった。


一つは、漆黒の、干しブドウのように皺(しわ)の寄った、不気味な「果実」だった。

「監視者」の、あの無数の目玉を凝縮(ぎょうしゅく)させたものだと直感で分かった。

俺は、それを迷わず口に放り込んだ。

苦く、埃(ほこり)っぽい味が口に広がった直後、視界が「焼ける」ような激痛が走った。


「―――ッッ!!」


声にならない悲鳴を上げ、両目を押さえる。

だが、その痛みは一瞬。

次に目を開けた時、俺の世界は一変していた。


(……見える)


これまでは、リナの祝福の残滓(ざんし)と、聖魔樹のテリトリー内の微弱な光によって、かろうじて「闇」と「魔物の気配」を区別できる程度だった。

だが、今は違う。

この光の届かない99階層の「完全な暗闇」が、まるで真昼の陽光の下にいるかのように、くっきりと、白黒の濃淡(コントラスト)で「見えて」いた。

岩盤の亀裂(きれつ)、遠くを徘徊(はいかい)する魔物のシルエット、空気中に漂う魔素の「色」さえも。

【暗視の果実】。

俺は、この深淵における、最大の「目」を手に入れた。


そして、もう一つの「収穫物」。

それは、果実ではなかった。

聖魔樹の枝先に、まるで蛇の目(じゃのめ)のように浮かび上がった、灰色の「石の瞳」。

「監視者」の「石化の魔眼」そのものを、聖魔樹が「栽培」したのだ。

俺がそれに触れると、「石の瞳」は枝から分離し、俺の手のひらに収まった。

ビー玉ほどの大きさだが、恐ろしいほどの魔力を秘めている。


【深淵なる庭園管理(アビス・ガーデニング)】スキルが、その使い方を俺の脳に直接伝えてきた。

(……なるほど。「種」か)

これは、「使い捨ての魔道具」だ。

魔力を込めて投げつければ、破裂(はれつ)し、広範囲に「石化の胞子」を撒(ま)き散らす。

あるいは、武器に「埋め込む」ことで、その一撃に「石化の呪い」を付与(ふよ)できる。

強力すぎる、切り札だ。


俺は、「石化の瞳」を懐(ふところ)にしまい、新たな「盾」を聖魔樹から切り出した。

今度の盾は、「監視者」の甲殻蟲よりもさらに硬い特性を吸収し、分厚く変異した樹皮だ。

装備を整え、俺は98階層を経由し、97階層への階段を登った。



97階層。

そこは、「視界」が最悪の場所だった。

【暗視の果実】で暗闇を克服した俺の目を、今度は「物理的な霧」が阻(はば)んだ。

緑色の、粘(ねば)りつくような「毒ガス」が、フロア全体に充満(じゅうまん)していた。


「……ゲホッ、ゴホッ……!」


一歩踏み入れただけで、肺が焼ける。

聖魔樹が実らせる「雫の実」には、ある程度の解毒作用もあるが、このフロアに満ちる「瘴気(しょうき)」は、質が違いすぎた。

長く留(とど)まれば、肺が内側から腐り落ちるだろう。


(……このガスの発生源が、必ずある)


俺は、聖魔樹から栽培した「苔(こけ)」(わずかながら空気を浄化する特性を持つ)で口と鼻を覆(おお)い、毒ガスの霧の中を慎重(しんちょう)に進んだ。

視界は、数メートル先も覚束(おぼつか)ない。


その時。

濃霧の向こうから、ブヨブヨとした、巨大な「何か」が、音もなく迫ってきた。

スライムか?

いや、違う。

それは、フロアそのものに擬態(ぎたい)していた、超巨大な「毒袋の魔物(ポイズン・ブロブ)」だった。

体長は聖魔樹を優に超えるだろう。

そいつが、俺という「異物」の侵入に気づき、その巨体を蠕動(ぜんどう)させ、俺を飲み込もうと迫ってきていた。


(……まずい、近寄られるな!)


あの巨体から放たれる毒ガスの濃度は、そこらに漂う霧の比ではない。

飲み込まれれば、一瞬で骨まで溶かされる。


俺は、懐(ふところ)に忍ばせていた「切り札」を取り出した。

【石化の瞳】。

「―――喰らえッ!!」


魔術師が魔法を放つように、俺は「石化の瞳」を、迫り来る毒袋の魔物の「核」――その巨体の中で、ひときわ濃い緑色に脈打つ部分――めがけて、全力で投げつけた。

ヒュン、と風を切り、石の瞳は濃霧を突き抜け、見事に「核」に直撃した。


パリンッ!

石の瞳が砕け散り、灰色の「石化の胞子」が、魔物の体内に向かって炸裂(さくれつ)した。


「ギ……!? ギギギ……!?」


魔物の蠕動(ぜんどう)が、明らかに、鈍(にぶ)った。

柔らかいスライム状の身体が、外側からではなく、直撃した「核」の部分から、急速に、カチカチに「石化」していく。

数秒後。

あれほど脅威(きょうい)だった巨大な魔物は、その醜(みにく)い姿のまま、完全な「石のオブジェ」と化した。


「……はぁ……はぁ……。危なかった」


俺は、仕留めた「主」の残骸(ざんがい)に【深淵なる庭園管理】を発動。

聖魔樹の根が、階層を越えて地中から現れ、その「毒袋」の特性を吸収し、持ち帰っていく。

97階層を覆(おお)っていた毒ガスは、発生源を失い、数時間後には、薄れていった。


99階の拠点に戻った俺は、新たな「収穫物」を手に入れた。

魔物の「毒」の特性を栽培し、聖魔樹の「聖」の力で「制御可能」な毒物へと変異させたもの。

【蟲牙の槍】の穂先に塗(ぬ)るための「猛毒(もうどく)」。

そして、毒袋の皮そのものを加工した、【耐毒の外套(がいとう)】。

これで、毒はもはや俺の脅威(きょうい)ではない。



96階層は、「重力異常のフロア」だった。

数メートル歩くごとに、身体が鉛(なまり)のように重くなる「高重力地帯」と、身体がふわりと浮き上がる「無重力地帯」が、まるでチェス盤のように入り乱れている。


ここで俺を待ち受けていたのは、その重力異常を利用して戦う、猿(さる)に似た機敏(きびん)な魔物の群れだった。

奴らは、無重力地帯で宙を舞い、高重力地帯に俺を誘(おび)き寄せて動きを封じ、連携して襲いかかってくる。

これまでの魔物とは違う、「知性」を持った戦い方だった。


(……面倒な)


だが、俺は、もはやただの「庭師」ではない。

聖魔樹の根を「罠(トラップ)」として高重力地帯に仕掛け、奴らの動きを拘束(こうそく)。

一体ずつ、確実に【蟲牙の槍】で貫(つらぬ)き、仕留めていった。


この階層の主は、その群れの「王」だった。

他の個体より三倍はあろうかという巨体で、高重力地帯でも通常通り動ける、異常なまでの「筋力」と「耐久力」を持っていた。


激闘だった。

俺は、初めて【耐毒の外套】を盾代わりに失い、鎧(よろい)を半壊(はんかい)させられた。

だが、最後は、槍に仕込んだ「石化の呪い」で、その動きを鈍(にぶ)らせた一瞬の隙(すき)を突き、勝利した。


この「重力猿(じゅうりょくましら)」の王を「栽培」した結果、俺の装備はさらに進化した。

奴らの強靭(きょうじん)な「筋繊維(きんせんい)」を栽培して編み込んだ【筋繊維のブーツ(仮称)】。これで俺の脚力(きゃくりょく)は飛躍的(ひやくてき)に向上し、高重力地帯でもある程度動けるようになった。

そして、奴らの「重力を操る」特性。

俺は、それを応用し、聖魔樹の「蔦(つた)」に、触れた対象の動きを一時的に「重くする」呪いを付与(ふよ)させることに成功した。

俺の戦闘スタイルに、「機動力」と「妨害手段(デバフ)」が加わった。



95階層は、灼熱(しゃくねつ)地獄だった。

地平線の彼方(かなた)まで、マグマの海が広がっている。

空気は焼け焦げ、足場はわずかな浮島(うきしま)だけ。

【耐毒の外套】は役に立たず、【筋繊維のブーツ】も、この灼熱の岩盤の上では長く保(も)ちそうにない。


(……強行(きょうこう)突破(とっぱ)するしかない)


ここには、サラマンダーや、炎の元素(エレメンタル)が、マグマの海を泳ぎ回っている。

一体一体は、これまでの主(ヌシ)に比べれば弱かった。

だが、「数」が、尋常(じんじょう)ではなかった。

そして何より、この「環境」そのものが、俺の命を削(けず)ってくる。


俺は、聖魔樹が実らせる「雫の実」(水分)と「赤い果実(回復薬)」を、これまでにない速度で消耗(しょうもう)しながら、炎の魔物を狩り続けた。

聖魔樹の「聖」の力は、炎の「魔」の力と相反(あいはん)する。

俺の【蟲牙の槍(聖属性)」】は、炎の魔物に対して絶大な効果を発揮した。

だが、その槍も、マグマの熱には耐えきれず、先端が溶け落ち、何度も拠点で「栽培」し直す必要があった。


何日、いや、何週間かかったのか。

俺は、この階層の魔物から、ついに「炎の核」と「耐熱の鱗(うろこ)」を、必要な数だけ集めきることに成功した。


99階の拠点。

俺は、聖魔樹にそれらを「栽培」させる。

聖魔樹は、炎の「熱量」を、「聖」の力で「制御可能」なエネルギーへと変換し、

「耐熱の鱗」を、俺の鎧(よろい)へと「編み込む」ことに成功した。


俺の【甲殻の鎧】は、今や、【耐熱鱗の鎧(たいねつうろこのよろい)】へと進化した。

そして、【蟲牙の槍】は、穂先に「炎の核」を埋め込まれ、俺の意志一つで「炎」を纏(まと)うことができる、【炎牙の槍(えんがのやり)】へと生まれ変わった。



94階層。

93階層。

92階層。


俺は、復讐心だけを糧(かて)に、機械のように、ただ階層を逆走し続けた。

「強風が吹き荒(すさ)ぶフロア」では、風を切り裂く魔物を狩り、機動力を高めた。

「音がすべてを殺すフロア」では、音を遮断(しゃだん)する魔物を狩り、隠密性(おんみつせい)を高めた。


そして、どれほどの時が流れたのか。

俺は、ついに、91階層へと続く階段の前に、立っていた。


俺の姿は、もはや、あの追放された「庭師アレン」とは、似ても似つかないものへと変貌(へんぼう)していた。

全身を覆(おお)うのは、黒と白を基調(きちょう)としながらも、倒してきた魔物たちの特性(甲殻、鱗、筋繊維)が禍々(まがまが)しく融合(ゆうごう)した、生体鎧(せいたいよろい)。

背中には、毒と炎と石化の力を秘(ひ)めた武具。

【暗視の果実】を喰(く)らった俺の瞳は、暗闇の中で、もはや魔物と同じ、冷たい光を放っている。


かつての穏(おだ)やかな心は、憎悪と後悔の底に沈み、あるのは、ザグラムとガイウスへの、冷徹(れいてつ)な「殺意」だけ。


(……91階層)


俺は、目の前の階段を見上げた。

これまでの階層とは、明らかに「空気」が違った。


97階の「毒」。

96階の「重力」。

95階の「炎」。

それらは、過酷(かこく)な「自然環境」の脅威(きょうい)だった。


だが、この91階層から流れてくる空気には、それがない。

魔物の気配も、希薄(きはく)だ。

ただ、しんと静まり返った、まるで「誰かが管理している」かのような、不自然なほどの「静寂」。

そして、微(かす)かに、俺の知らない「古代魔法」の残滓(ざんし)が、漂(ただよ)ってくる。


(……なんだ……? この階層は)


俺は、一抹(いちまつ)の警戒と、それ以上の「好奇心」を抱きながら、復讐の旅路(たびじ)の、次なる一歩を、その不気味な静寂の中へと、踏み出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る