第十五話:『98階層の主』
「聖魔樹(せいまじゅ)」のテリトリーで目覚める朝。
といっても、ここは光の一筋も届かない世界迷宮99階。朝も夜もない。
俺、アレンは、自分の身体が要求する「睡眠」のサイクルに従い、活動と休息を繰り返していた。
「最初の狩り」から、どれほどの時間が過ぎたのか。
数週間か、あるいは、一ヶ月か。
時間の感覚は、とうに麻痺していた。
テリトリーの中央で、聖魔樹は静かに、しかし力強く脈動している。
その根元には、この数週間で俺が狩ってきた、名も知れぬ魔物たちの「残骸」――甲殻や骨が、小山のように積み上がっていた。
俺は、あの「甲殻蟲(こうかくちゅう)」との死闘を生き延びてから、狩りを繰り返した。
【深淵なる庭園管理(アビス・ガーデニング)】スキルにも、聖魔樹の扱いにも、そして何より、この暗闇での「戦闘」にも、俺は嫌というほど慣れていった。
「……よし」
俺は、聖魔樹の幹から切り出した、新たな「植物兵装(プランツ・ギア)」を身につけ、立ち上がった。
もはや、あの追放された日の、か弱い「庭師」の姿はどこにもない。
左腕には、あの最初の甲殻蟲から作り出した【甲殻の盾】。これは幾度もの戦闘で傷つき、そのたびに聖魔樹の力で修復・強化されてきた。
右手には、新たに「栽培」した槍を握っている。
あれから狩った、巨大なムカデ型の魔物の「牙」。その「貫通」の特性を聖魔樹に吸収させ、聖樹の「聖」の力で浄化・加工した、純白の槍。
俺はそれを【蟲牙の槍(ちゅうがのやり)】と名付けた。
そして、俺の身体。ボロボロだった服はとうに捨て、聖魔樹の樹皮と、狩った魔物の甲殻や皮を「栽培」し、編み込んだ、簡易的な「鎧」を纏っていた。
黒と白のまだら模様。聖魔樹と同じ色の、この深淵に溶け込むための「迷彩服」であり、最低限の防御力を備えた【甲殻の鎧(プランツ・アーマー)】だ。
俺は、聖魔樹が実らせた「赤い果実(回復薬)」を一つ口に放り込み、生命力を充填する。
次に、「雫の実(水)」で喉を潤す。
このテリトリーの中は、俺だけの安全な「拠点」であり、完璧な「補給基地」だった。
だが、俺は、ここに留まるつもりは毛頭なかった。
(……出口)
復讐を果たすため、地上に戻らなければならない。
聖魔樹は、この99階の岩盤に深く根を張り、移動させることはできない。
ならば、俺自身が、この広大な99階層を探索し、地上へと続く「出口」――上層階への道を、見つけ出すしかない。
聖魔樹のテリトリーから一歩踏み出す。
濃密な魔素が、鎧の隙間から肌を刺すが、もう慣れた。
俺は、この数週間、拠点の周囲をマッピングするように探索を続けていた。
そして、ついに昨日。
この99階層の、テリトリーから最も離れた場所――おそらく、丸一日かけて歩かなければならない距離の場所で、「それ」を発見したのだ。
(……間違いない。あれが、上層への道だ)
そこは、これまでの平坦な岩盤とは異なり、まるで天に向かって穿たれたような、巨大な「縦穴」だった。
古代の、螺旋階段のようなものが、その穴の側面に沿って、上層の暗闇へと続いている。
俺は、聖魔樹という「拠点」の加護から完全に離れ、たった一人で、その縦穴の前に立った。
ゴオオオオ……と、穴の上層から、地鳴りのような、あるいは巨大な獣の呼吸のような、不気味な「圧」が吹き降ろしてくる。
99階の魔素濃度とは、明らかに「質」が違う。
より、悪意に満ちた、強烈なプレッシャー。
(……98階層)
唾を飲み込む。
怖くない、と言えば嘘になる。
だが、リナを失ったあの瞬間の絶望に比べれば、この恐怖すら、生の実感を与えてくれる。
「行くぞ」
俺は、蟲牙の槍を握り直し、螺旋階段の最初の一歩を踏み出した。
◇
どれほど登っただろうか。
螺旋階段は、どこまでも続いているように思えた。
階下を見れば、俺が根城にしていた99階の完全な暗闇が、口を開けている。
上を見れば、変わらず、闇。
だが、次第に、空気が変わってきた。
99階とは異なり、不気味な「光」が、闇の中で明滅し始めたのだ。
チカ、チカ、と。
無数に瞬く、青白い光。
(……星か? いや、違う)
階段を登り切り、俺は、広大な「空間」に足を踏み入れた。
そこは、99階のような洞窟ではなかった。
地平線の彼方まで続いているのではないかと思えるほど、馬鹿げた広さの「大広間」。
そして、その大広間の「壁」と「天井」のすべてを、あの青白い光が埋め尽くしていた。
俺は、その「光」の正体に気づき、息を呑んだ。
(……目……)
あれは、星ではない。
「目玉」だ。
数千、数万、あるいは、それ以上。
無数の、一つ一つが人間の頭ほどもある巨大な「目玉」が、壁と天井から、俺という「侵入者」を、一斉に、見つめていた。
「…………」
異様、という言葉では生ぬるい。
狂気だ。
この空間そのものが、一つの「生物」であるかのような、圧倒的な悪意。
そして、大広間の中央。
そこに、「それ」はいた。
ズウン、と。
小山のようにそびえ立つ、巨大な「肉塊」。
その表面は、壁や天井と同じく、びっしりと、無数の「目玉」に覆い尽くされている。
肉塊が、脈打っている。
すべての目玉が、俺という一点を、凝視している。
(……98階層の主(フロアボス)……!)
99階で狩ってきた、あの甲殻蟲たち。
あれは、この魔境における、ただの「雑魚」に過ぎなかった。
今、俺の目の前にいる「これ」は、格が違う。
この階層そのものを「支配」する、本物の「化け物」だ。
【深淵の監視者(アビス・ウォッチャー)】
脳内に、なぜか、その名前が直接響いた。
Sランクパーティが到達した50階層にも、こんな化け物がいたというのか。
俺は、本能的な恐怖で、一歩後ずさりそうになるのを、奥歯を噛みしめて耐えた。
槍を構え、甲殻の盾を前面に押し出す。
その、瞬間。
「監視者」の、山のような肉塊。
その表面にある目玉のうち、数百の瞳孔が、一斉に、俺へと焦点を合わせた。
そして、放たれた。
(……光……!?)
数百の目玉から、青白い「魔光」が、レーザーのように一斉に射出されたのだ。
それは、音もなく、空間を切り裂き、俺に殺到した。
「―――ッッ!!」
回避は、間に合わない。
俺は咄嗟に、全神経を左腕に集中させた。
「防げッ! 【甲殻の盾】ッ!!」
ガガガガガガガガガッ!!!!
凄まじい衝撃。
盾の表面が、まるで高熱で焼かれたように、火花を散らす。
だが、熱くはない。
逆に、ぞっとするほど「冷たい」。
(……なんだ、これは……!?)
盾が、重くなる。
俺は、盾の表面を見て、戦慄(せんりつ)した。
「……石化……!」
【甲殻の盾】――あの超硬質の甲殻でできていたはずの盾の表面が、魔光を浴びた部分から、急速に、白く、脆い「石」へと変質していく。
石化の呪い。
この迷宮に伝わる、最悪の呪いの一つだ。
あれを、直撃していたら。
俺は今頃、この場に「石像」として、永遠に立ち尽くすことになっていた。
「キシャアアアアアアア!!」
「監視者」が、甲高い、耳障(みみざわ)りな鳴き声を上げた。
第一射を防がれ、さらに多くの目玉――今度は、千を超える目玉が、俺に照準を合わせる。
まずい。
次の一斉射撃を受けたら、この盾ごと、俺の左腕は石化し、砕け散る。
(……逃げ場は、ない)
(この広間では、隠れる場所もない)
だが、俺は、この98階層に足を踏み入れる前から、準備をしていた。
聖魔樹は99階のテリトリーに固定されている。
だが、俺のスキルは、この迷宮の岩盤そのものを「俺の庭」として認識している。
(お前が、上から「見る」なら)
(俺は、下から「喰らう」までだ)
俺は、99階に到達してから、ずっと「練習」していた。
聖魔樹の「根」を、俺の意志ある限り、どこまでも、遠くへ、深くへと、伸ばすことを。
今、この瞬間も。
俺が螺旋階段を登っている間、聖魔樹の根は、99階の岩盤から、98階層の「床下」へと、密かに侵入し、潜行させていたのだ。
そして、この大広間の中央――あの「監視者」の、真下へと。
「―――今だッッ!!!!」
俺は、左腕の盾を構え、あえて「監視者」の注意を地上に引きつけながら、スキルを最大出力で発動させた。
【深淵なる庭園管理】――『深淵の牙(アビス・ファング)』ッ!!
「監視者」が、第二射を放とうと、千の目玉を輝かせた、その瞬間。
ズドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!
「監視者」の真下。
その巨大な肉塊が鎮座していた大広間の「床」が、爆発するように、砕け散った。
「キシャアアアアアアアアアアアアア!?」
床下から突き出したのは、数百本に及ぶ、白と黒のまだら模様の「槍」。
いや、違う。
俺が【蟲牙の槍】の特性を「栽培」させ、先端を極限まで鋭利に変異させた、「聖魔樹の根」だ。
俺の、もう一つの「牙」だ。
聖魔樹の根は、「監視者」の、比較的柔らかいであろう「底面」から、容赦なくその肉塊を貫いた。
ブシュウウウウウッ!!!!
おぞましい体液が、間欠泉のように噴き上がる。
「監視者」の表面を覆っていた「目玉」が、その衝撃と激痛で、内側から破壊されていく。
「ギイイイイイイイイイイイイッ!!」
化け物が、本当の「絶叫」を上げた。
肉塊が、もがき、暴れ狂う。
壁や天井から、石化の光線が乱れ飛ぶが、もはや照準は定まっていない。
(……今だ!)
俺は、好機を逃さない。
盾を構え、石化の乱反射を捌きながら、肉薄する。
聖魔樹の根が、肉塊を串刺しにし、その動きを縫い止めている。
だが、奴の生命力は、まだ尽きていない。
「監視者」の肉塊の中央。
そこだけ、他の目玉とは比較にならないほど巨大な、「主眼(コア・アイ)」と呼ぶべき、赤黒い瞳が、憎悪に満ちた目で、俺を睨みつけていた。
あれが、核だ。
俺は、地上で、右手に握る【蟲牙の槍】を構え直した。
左腕の「甲殻の盾」を、投げ捨てる。
もはや、防御は不要。
石化が始まっていた盾は、床に落ちて、ガシャン、と音を立てて砕け散った。
「お前の『目』は、もういらない」
俺は、両手で槍を握りしめ、地面を蹴った。
聖魔樹の根が作り出した、肉塊の「坂」を駆け上がる。
「キシャアアアアアアア!」
「主眼」が、最後の抵抗とばかりに、極太の「石化光線」を放つ。
「遅いッ!!」
俺は、それを紙一重で回避し、空中で、槍を突き出す体勢に入った。
俺の、すべての体重と、憎悪と、リナへの想いを、この一撃に込める。
「これで、終わりだッッ!!!!」
俺の槍が、「監視者」の巨大な「主眼(コア・アイ)」を、深々と、貫いた。
「…………ギ……」
「監視者」の、山のような巨体が、大きく、痙攣した。
聖魔樹の根が、その死骸から、一斉に魔力と生命力を吸い上げ始める。
貫かれた主眼から光が消え、無数に存在した目玉が、すべて、その瞼を閉じていく。
そして、巨大な肉塊は、急速にしぼみ、カチカチに、本物の「石」となって、動かなくなった。
シーン、と。
大広間に、静寂が戻った。
俺は、石化した魔物の死骸の上に立ち、荒い息をついた。
左腕は盾を失い、生身のままだ。
だが、俺は勝った。
98階層の主を、倒した。
「……はぁ……はぁ……98階層、突破」
俺は、聖魔樹の根に命令した。
「そいつを、喰らえ」
「肥料だ。残さず、99階の俺の『庭』へ、持ち帰れ」
聖魔樹の根が、喜ぶように、石化した「監視者」の残骸を砕き、地中深くへと引きずり込んでいく。
俺は、その作業を、冷たい目で、見届けていた。
(……あの「目玉」。あの「石化の力」)
(あれを「栽培」したら、何が実る?)
俺の思考は、すでに、次なる「強化」へと向いていた。
俺は、この深淵のすべてを「肥料」にして、強くなる。
「待っていろ、ザグラム……」
「必ず、お前のいる、地上へ行く」
俺は、石化したボスの残骸が消えた大広間を抜け、その奥に続く、さらなる上層――97階層への、新たな階段へと、足を踏み出した。
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