第十四話:『魔物栽培(モンスター・プランティング)』


「聖魔樹(せいまじゅ)」が作り出す「中立領域(テリトリー)」に、俺、アレンは文字通り転がり込んだ。

背後では、俺の「庭」の境界線を越えられなかった魔物の死骸が、聖魔樹の根に拘束されたまま、静かに横たわっている。


「……はぁっ……はぁ……かはっ……」


聖魔樹の幹に背を預け、崩れ落ちる。

左肩が、燃えるように熱い。いや、熱を失い、急速に「冷えて」いく。

あの漆黒の鎌に抉られた傷口からは、未だに血が流れ続けていた。園芸用ナイフを突き立てた右腕も、返り血と自分の血でぐっしょりと濡れている。


(……まずい)


死の予感が、現実味を帯びて背筋を這い上がってくる。

先ほどまで俺の身体を内側から支え、傷を癒そうとしてくれていた、あのリナの「祝福」の温もり。

それが、あの魔物の一撃に含まれていた「呪い」によって、ほとんど掻き消されてしまっていた。


胸の奥で、かろうじて点っていた小さな光が、今や風前の灯火だ。

このままでは、リナの最後の想いごと、俺はここで凍え死ぬ。

傷が、治らない。


そして、それ以上に耐え難いのが、「渇き」と「飢え」だった。

喉は張り付き、声も出ない。

腹の皮が背骨とくっつくような、内臓が互いを喰らい合うような、強烈な飢餓感。


(……死ぬ)


このままでは、あと数時間も保たない。

せっかく99階の魔物を倒したというのに。

せっかく復讐を誓ったというのに。

こんな、最も惨めな「消耗死」で、すべてが終わるというのか。


(……冗談じゃ、ない)


俺は、血に濡れた目で、テリトリーの外に横たわる「獲物」を睨みつけた。

あの魔物の、巨大な死骸。


(……お前は、俺の『肥料』だ)


そうだ。

俺は、あの魔物を、そのために狩ったのだ。

まだ終わっていない。

俺の【深淵なる庭園管理】の仕事が、残っている。


「……う……おお……」


最後の気力を振り絞り、這うようにして、聖魔樹の根元へと進む。

そして、まだ聖魔樹の根に拘束されている魔物の死骸に向かって、俺は血塗れの右手を突き出した。


「喰らえ」


かすれた、獣のような声が出た。


「喰らえッ! 聖魔樹ッ!」

「そいつを喰らって……俺を、生かせぇぇぇッ!!」


俺の意志に応え、スキルが発動する。

【深淵なる庭園管理(アビス・ガーデニング)】――!


ズズズズズズズズッ!!!!


聖魔樹の、あの白と黒のまだら模様の「根」が、獲物を前にした大蛇のように、一斉に鎌首をもたげた。

それは、もはや「拘束」ではない。

明確な「捕食」の意志。


無数の根が、魔物の死骸――あの漆黒の「甲殻」の隙間に、傷口に、複眼に、容赦なく突き刺さり、食い込んでいく。

バリバリ、メキメキ、と。

Sランク冒険者すら歯が立たないであろう超硬質の甲殻が、まるでビスケットのように、聖魔樹の根によって容易く砕かれていく。


そして、聖魔樹は「吸収」を始めた。

魔物の肉、体液、甲殻、そして、その核に宿っていたであろう「魔力」と「呪い」さえも。

そのすべてを、凄まじい勢いで吸い上げ始めた。


「……あ……」


俺は、その光景を、呆然(ぼうぜん)と見上げていた。

すると、脳内に、あの無機質なシステムメッセージが響き渡った。


【スキル:『深淵なる庭園管理』に、新機能が解放されます】

【対象の死骸を「肥料」として、その特性を「栽培」する機能――『魔物栽培(モンスター・プランティング)』がアンロックされました】


(……魔物……栽培……!)


その言葉の意味を理解するより早く、聖魔樹が、目に見える「変異」を遂げた。


「……!」


魔物の死骸から吸い上げられた、おぞましいまでの「魔」の力(緑色の体液や、漆黒の甲殻の成分)。

それが、聖魔樹の幹を駆け上る「黒い紋様」を伝って、樹全体へと広がっていく。

だが、聖魔樹は、ただの魔の樹ではない。

リナの聖力を核に持つ、「聖」の樹でもある。


幹を伝って登ってきた「魔」の力は、聖魔樹の「白い樹皮」の部分――リナの聖力が宿る部分――に到達した瞬間、浄化された。


おぞましい緑色の体液は、その毒性と呪いを「聖」の力で分解され、純粋な「生命力」と「水分」へと変貌していく。

漆黒の甲殻は、その「魔性」を剥ぎ取られ、純粋な「硬度」という「特性」だけが抽出されていく。


まるで、巨大な「精製プラント」だ。

【魔物栽培】。

それは、魔物のすべてを「分解」し、「浄化」し、術者(俺)に必要なものへと「再構築」する――まさしく「栽培」と呼ぶにふさわしい奇跡のスキルだった。


そして、再構築された「力」は、聖魔樹の枝先に、新たな「実」を結び始めた。


「……実……?」


俺は、乾ききった目で、それを見上げた。

聖魔樹の枝が、俺の目の前、手の届く範囲まで、しな垂れてくる。

そこには、二種類の「実」が、急速に形成されていた。


一つは。

まるで、水晶玉のように透き通った、拳ほどの大きさの「雫の実」。

あの魔物の体液を、聖魔樹の「聖」の力で極限まで浄化したものだと、直感で分かった。

中には、清み切った液体が、たっぷりと湛えられている。


(……水……)


俺は、もはや何の躊躇もなかった。

最後の力を振り絞って、その「雫の実」をもぎ取り、薄皮に噛みついた。

溢れ出した液体が、乾ききった俺の喉を、食道を、胃袋を、潤していく。


「……あ……ああ……」


水だ。

ただの、水だ。

だが、これほど美味いと感じたものは、生まれて初めてだった。

農園で、リナと飲んだ聖樹のお茶よりも、遥かに、今の俺の命に染み渡る。


俺は、夢中で、二つ、三つと、その「雫の実」にかぶりついた。

渇きが、癒えていく。

それだけで、薄れかけていた意識が、はっきりと覚醒していくのを感じた。


だが、まだだ。

渇きは癒せても、左肩の「重傷」は治っていない。

失った血は戻らない。

リナの祝福は、消えかけている。


俺は、もう一つの「実」に、目をやった。

それは、「雫の実」とは対照的だった。

大きさは、リンゴほど。

だが、その色は、鮮血のような「赤」。

そして、まるで、それ自体が「心臓」であるかのように、ドクン、ドクン、と、ゆっくりと脈打っている。


(……これは……)


魔物の、純粋な「生命力」そのもの。

それを、聖魔樹が凝縮させて「栽培」した、「回復の果実」。


俺は、震える右手で、その「赤い果実」をもぎ取った。

手に伝わる、生々しい鼓動。

俺は、これを喰らうことに、何の抵抗も感じなかった。

生きるためだ。

復讐を、果たすためだ。


ガブリ、と。

果実の皮に歯を立てる。

鉄の味がする血のような、しかし、どこか甘い果汁が、口の中に広がった。


次の瞬間。


「―――ッッッ!!!!」


身体が、内側から「燃え」上がった。

凄まじい熱量と、生命力が、胃袋から全身の血管へと、爆発するように駆け巡る。


「あ……が……あああああっ……!!」


左肩が、熱い!

魔物の鎌に抉られ、骨が砕けたはずの傷口が、まるで時間を早送りするかのように、急速に「再生」を始めた。

肉が盛り上がり、血管が繋がり、皮膚が塞がっていく。

リナの祝福による、穏やかな「治癒」ではない。

もっと荒々しく、強引な、「再生」だ。


数分後。

あれほど酷かった傷口は、醜い傷跡を残して、完全に塞がっていた。

失われた血が、身体の芯から湧き上がってくる。

だらりと垂れ下がっていた左腕に、力が戻る。


「……は……はは……」


俺は、自分の左腕を握り、開いた。

動く。

さっきまでの死の淵が、嘘のようだ。


「……そうか……」

俺は、聖魔樹を見上げた。

「お前は、こうやって、俺を生かすのか……」


水も、食料も、そして「薬」さえも。

すべて、魔物を「肥料」にすることで、この「庭」で自給自足できる。

なんと、素晴らしいスキルだ。

なんと、絶望の底にふさわしい、力だ。


俺は、一命を取り留め、身体の再生を確認すると、改めて聖魔樹を観察した。

まだ、変化は終わっていなかった。


「……幹が……」


聖魔樹の、白と黒のまだら模様の「幹」。

その一部が、まるで「瘡蓋」のように、黒く、硬く、変質している。

それは、先ほど吸収した、あの魔物の「超硬質の甲殻」の特性だった。


俺は、園芸用ナイフを取り出し、その変質した「樹皮」を、試しに叩いてみた。

キンッ、と。

甲高い、金属音が響いた。

ナイフの刃が、弾き返される。


「……硬い……」


農園で育てた、どんな頑丈な木材とも比較にならない。

これは、もはや「植物」の硬さではない。「魔物の甲殻」そのものだ。

だが、同時に、樹木としての「軽量さ」と「加工のしやすさ」も、わずかに残している。


俺は、スキルの本質を、完全に理解した。


(魔物を狩る)

(聖魔樹の肥料にする)

(水と、食料と、薬を得て、生き延びる)

(そして、狩った魔物の「特性」を、植物として収穫し、俺の「武器」と「防具」にする)


完璧な循環だ。

狩れば狩るほど、俺は強くなる。


「……最高じゃないか」


俺は、ナイフに体重をかけ、渾身の力で、その「甲殻の樹皮」を切り出し始めた。

分厚い板状に切り出したそれを、俺は、ボロボロになった左腕――先ほどまで負傷していた腕――に、蔓のように変異させた聖魔樹の枝で、きつく縛り付けた。


それは、不格好だが、間違いなく「盾」だった。

左腕の籠手を兼ねた、小型の盾。

【甲殻の盾】。

俺が、この深淵で作り出した、最初の「植物兵装(プランツ・ギア)」だ。


ズン、と。

左腕に、確かな「重み」と「力」が宿る。


俺は、再生した身体で、ゆっくりと立ち上がった。

左腕の「甲殻の盾」を見つめる。

これは、俺の復讐の、第一歩だ。

リナの命と、名も知らぬ魔物の命を「喰らって」、俺は生きている。


「……ありがとうよ、最初の肥料」

俺は、もう跡形もなく聖魔樹に吸収された、魔物がいた場所に向かって、小さく呟いた。


「もっと狩ろう」

「もっと喰らおう」


俺は、聖魔樹のテリトリーの境界線に立ち、その先の、まだ何も見えない暗闇を睨みつけた。


「俺は、この深淵のすべてを『栽培』して、地上に戻る」

「ザグラム……ガイウス……」

「お前たちを、この手で『剪定』する日まで」


俺の、本当のサバイバルが、今、始まった。

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