第十三話:『最初の狩り』


「聖魔樹(せいまじゅ)」が、その異形の枝を静かに揺らしている。

俺、アレンの周囲、半径約二十メートル。この絶対的な「中立領域(テリトリー)」の中だけは、世界迷宮99階の常識が通用しない。

肺を圧迫していた濃密な魔素は「聖魔樹」に喰らい尽くされ、俺は、あの忌まわしい追放劇以来、初めてまともな「呼吸」ができるようになっていた。


幹に背を預け、荒い息を整える。

リナの「祝福」と、この樹のおかげで、ザグラムの魔法で負った致命傷は塞がりつつあった。全身の骨はまだ軋(きし)むが、動けないほどの激痛は引いている。


安全だ。

生きている。

だが――。


「……っ」


喉が、灼(や)けるように渇いていた。

唇はひび割れ、舌は乾ききって口内に張り付いている。

次に、腹の底から、獣(けもの)のような飢餓感が突き上げてきた。

追放されてから、いったいどれほどの時間が経過したのか。丸一日か、あるいは二日か。

リナの祝福は傷を癒してくれたが、空腹までは満たしてくれなかった。


「……水……食料……」


かすれた声で呟く。

俺は、この新たな「庭」の主となった「聖魔樹」を見上げた。

白と黒のまだら模様の幹は、まるで呼吸するように、領域の外から魔素を吸い上げ、それを糧として静かに脈動している。

こいつは、魔素を喰う。

だが、俺は違う。


俺は人間だ。

水を飲み、肉を食わねば、生きてはいけない。


(このままでは、ここで餓死する……)


この「安全な領域」は、魔物からも守ってくれるが、同時に、俺を食料から隔絶する「檻(おり)」でもあった。

生き延びるためには、この領域から一歩踏み出し、あの魔素に満ちた「外」で、食料を「狩る」しかない。

復讐を誓ったところで、餓死してしまえば、ザグラムの嘲笑(あざわら)う顔が目に浮かぶようだ。


俺は、ボロボロになった服のポケットから、唯一残った「武器」を取り出した。

それは、農園で、土いじりのために愛用していた、一本の古い「園芸用ナイフ」だった。

勇者パーティには「そんなもの」と馬鹿にされたが、頑丈な根を切るために鍛冶屋に特注した、俺の唯一の相棒。

だが、こんな小さなナイフで、あの99階の魔素の中で生きる魔物と戦えるというのか?


(やるしかない)


俺は、聖魔樹のテリトリーの「境界線」――魔素が浄化されている空間と、汚染された空間がくっきりと分かれているライン――まで、這(は)うように進んだ。

一歩先は、闇。

濃密な魔素が、まるで黒い霧のように渦巻いているのが、変異したスキル(あるいはリナの祝福の名残)のおかげで、ぼんやりと見えた。


その時だった。


カシャ、カシャリ……。


重い、金属質な音が、闇の向こうから聞こえてきた。

息を殺す。

聖魔樹が魔素を喰らう音ではない。

「何か」が、この暗闇を徘徊(はいかい)している。


カシャリ、カシャリ……。

音は、次第に近づいてくる。

俺のテリトリーの、すぐ外側で、その音は止まった。


闇の中で、赤黒い「複眼」が、無数に光った。

それは、俺が知るどんな生物よりも巨大だった。

全長は、馬車ほどもあるだろうか。

岩石のようにゴツゴツとした、漆黒の「甲殻」を持つ、多足の……蟲(むし)型の魔物。

サソリのようでもあるし、ムカデのようでもある。

その巨大な二本の鎌(かま)は、鋼鉄すら容易に引き裂くだろう。


(……99階の、魔物……!)


背筋が凍りつく。

Sランクパーティですら到達できない魔境。

そこに生息する魔物が、どれほど規格外か。

これまでのダンジョンで遭遇したどのボスよりも、この「雑魚(ざこ)」であろう魔物の方が、放つ「圧」が違う。


魔物は、俺のテリトリーの境界線で、戸惑うように立ち止まっている。

聖魔樹の領域が、俺の存在を完全に隠蔽(いんぺい)しているのだ。

魔物には、ここだけ、空間が「歪んで」いるように感じられるのかもしれない。あるいは、魔素が途切れた「崖」のように。


魔物は、この「異常」に気づき、苛立(いらだ)ったように、その場で鎌を振り回した。

ブォンッ、と風を切る音が、ここまで響いてくる。


俺は、恐怖で震える身体を、叱咤(しった)した。


(……あれが、「肉」だ)

(あれが、「水」だ)


あれを狩らなければ、俺は死ぬ。

リナの死が、俺の復讐が、こんな暗闇の底で、飢えという最も惨(みじ)めな形で、終わってしまう。


(……怖いか? 俺)

(リナが死んだ時の方が、よほど怖かったじゃないか)

(ザグラムに、道具として連れて行かれそうになった時の方が、よほど絶望したじゃないか)


俺は、ナイフを握る手に、爪が食い込むほど力を込めた。

死ぬのは、もう怖くない。

だが、復讐を果たせずに死ぬのは、我慢がならない。


(……聖魔樹は、俺の「庭」だ)

(そして、俺のスキルは【深淵なる庭園管理】)


俺は、聖魔樹に意識を集中した。

まるで自分の手足を動かすように、聖魔樹の幹や枝が、俺の意志に呼応する。

いける。

この樹は、俺の武器になる。


俺は、このテリトリーを「罠(トラップ)」として使うことに決めた。

魔物を、ここまで誘い込む。

そして、聖魔樹の力で、仕留める。


俺は、境界線のすぐ内側で、岩盤の破片を一つ拾った。

そして、意を決して、テリトリーの「外」――魔物の目の前へと、それを投げつけた。


カラン、と。

小さな石ころが、魔物の足元で乾いた音を立てた。


その瞬間。


「―――ッッ!!?」


魔物の、あの無数の複眼が、一斉に俺を捉(とら)えた。

石を投げた「俺」という存在を、魔素の揺らぎで、瞬時に感知したのだ。


(しまった! 誘い込むつもりだったのに、俺自身が認識された!)


魔物の動きは、その巨体からは想像もつかないほど、俊敏だった。

「音」が、なかった。

気づいた時には、漆黒の巨大な「鎌」が、テリトリーの境界線を越え、俺の頭上めがけて振り下ろされていた。


「―――がっ!?」


咄嗟(とっさ)に、横に転がる。

ズドオオオオオンッ!!!!

俺がさっきまでいた場所の岩盤が、鎌の一撃で粉々に砕け散った。


だが、回避が遅れた。

鎌の先端が、俺の左肩を、深く、抉(えぐ)った。


「ぐ……あああああっ!!」


激痛。

骨が砕ける感触。

第一部の農園で、ザグラムの兵士に荒らされた時とは比較にならない、純粋な「殺意」の塊。

俺の身体は、ボールのようにテリトリーの内側まで吹き飛ばされ、聖魔樹の幹に叩きつけられた。


「……かはっ……!」


口から、血が逆流する。

左腕が、だらりと垂れ下がり、感覚がない。

そして何より、恐ろしかったのは。


(……温もりが、消える……)


俺の胸の奥で、かろうじて燃え続けていた、リナの「祝福」の温もり。

それが、今の魔物の一撃で、まるで風に吹き消される蝋燭(ろうそく)のように、急速に、か細く、弱まっていくのが分かった。

この99階の魔物の攻撃は、リナの聖力すらも破壊する「呪い」を帯びているのだ。


「キシャアアアアアアアアアアアアア!!!」


魔物が、勝利の雄叫(おたけ)びを上げた。

俺という獲物を、テリトリーの「内側」に見つけた。

だが、魔物は、テリトリーの境界線を越えられない。

聖魔樹が放つ「中立」のオーラが、魔素で構成されたあの魔物にとって、不可視の「壁」となっているのだ。


魔物は、境界線のギリギリで、苛立ち、鎌を振り回し、テリトリーをこじ開けようと暴れている。

壁一枚隔てた向こう側に、死神が立っている。


俺は、聖魔樹の幹に背を預けたまま、血を流し、喘(あえ)いだ。

(……まずい……このままじゃ、出血で死ぬ)

(リナの祝福が……消える……!)


この傷は、もう自然には治らない。

祝福が消えれば、俺はただの「深手を負った人間」だ。

ここで死ぬ。


(……嫌だ)

(死にたくない)

(リナ……!)


俺が死んだら、誰が、お前の無念を晴らすんだ。

俺が死んだら、ザグラムとガイウスは、のうのうと生きていくのか。

冗談じゃない。


「……う……うああああ……」


憎悪が、死の恐怖を上回った。

怒りが、リナの消えゆく祝福と、混じり合った。


(……聖魔樹は、俺の身体の一部だ)

(このテリトリーは、俺の『庭』だ)

(俺の庭で……俺の庭で、好き勝手、させてたまるか……!!)


俺は、血走った目で、境界線の向こう側で暴れる魔物を睨みつけた。


(お前は、害虫だ)

(俺の庭を荒らす、ただの『害虫』だ!)

(庭師として、駆除(くじょ)させてもらう……!)


俺は、だらりと垂れ下がった右腕に、最後の力を込めた。

ナイフを握るのではない。

スキルを発動する。


「来いッ! 俺の力になれッ!」

「【深淵なる庭園管理(アビス・ガーデニング)】ッッ!!」


俺の意志(スキル)が、聖魔樹に命令する。

「お前の『根』を、俺の『手』として、使わせろ!!」


次の瞬間。

テリトリーの内側、俺の足元の岩盤が、爆ぜた。


ズズズズズズッ!!!!


聖魔樹の、あの白と黒のまだら模様の「根」。

岩盤を「喰らって」いたあの「牙」が、俺の命令に応え、地中から飛び出し、まるで巨大な蛇(じゃ)のように、テリトリーの「外」――魔物の足元めがけて、殺到した。


「キシャ!?」


魔物は、自分の足元から、聖と魔のオーラを纏った無数の「根」が突き出してくるのを視認し、驚愕(きょうがく)の声を上げた。

遅い。


【深淵なる庭園管理】――『拘束(バインド)』。


無数の根が、魔物の多足に、甲殻の隙間に、そしてあの巨大な鎌に、凄まじい力で絡みついていく。

「ギギギギギ……!?」

魔物は、抜け出そうと必死にもがくが、聖魔樹の根は、魔物の魔力を吸い上げながら、さらに強く、深く、その身体に食い込んでいく。


「……よし……!」


拘束、成功。

だが、これだけでは殺せない。

魔物は、まだ生きている。


俺は、砕けた左肩の激痛に耐えながら、聖魔樹の幹を支えに、立ち上がった。

右手に、あの小さな園芸用ナイフを握りしめる。


「……これで、終わりだ」


俺は、血を滴らせながら、一歩、一歩、テリトリーの「外」へと、再び足を踏み出した。

魔素の圧力が、傷口に染みて、激痛が走る。

だが、もう関係ない。


「キシャアアアア!!」

俺の姿を視認し、魔物は最後の抵抗とばかりに、拘束された鎌を振り上げようとする。

俺は、その隙を見逃さなかった。

園芸用ナイフは、雑草の「根」を切るためにある。

害虫の「急所」を突くためにある。


俺は、魔物の、拘束されて無防備になった「甲殻と甲殻の隙間」――首元の、柔らかい関節部分――めがけて、全体重を乗せて、ナイフを突き立てた。


「お前がッ! 俺のッ!」

「最初の『肥料』だァァァァッッ!!!!」


ブシュッ!!!!


硬い手応えと共に、甲殻の隙間をこじ開け、ナイフが奥深くへと突き刺さる。

緑色の、おぞましい体液が、噴水のように噴き出した。


「キ……ギ……ギ……」


魔物の無数の複眼から、光が消えていく。

拘束されていた身体が、完全に、弛緩(しかん)した。

聖魔樹の根が、勝利を喜ぶかのように、その死骸を締め上げた。


「……はぁ……はぁ……はぁ……」


静寂が、戻ってきた。

俺は、魔物の死骸の上に倒れ込むようにして、荒い息を繰り返した。

左肩の傷口からは、まだ血が流れている。

リナの祝福は、もう、ほとんど感じられない。


だが、俺は勝った。

生き残った。


「……そうだ……」

俺は、震える手で、魔物の体液を拭(ぬぐ)ったナイフを握り直す。


「……『肥料』だ……」


俺は、まだ動く右腕で、魔物の甲殻を切り開き、その生々しい「肉」を、抉り出した。

そして、その肉を、聖魔樹の根元へと、引きずっていく。


これは、俺の「最初の狩り」。

そして、俺の「庭」の、最初の「施肥(せひ)」だ。


暗闇の底で、俺は、自分がもはやただの「庭師」ではないことを、はっきりと自覚していた。

俺は、復讐者だ。

そして、この深淵で、魔物を「喰らう」者だ。

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