第十八話:『古代の魔術師、エルミナ』


91階層の静寂は、死んでいるのではなく、管理されていた。

その事実に気づいた俺、アレンは、自らの神経を極限まで研ぎ澄ませていた。

これまでの階層は、魔物という「自然の脅威」との戦いだった。だが、この91階層は違う。

ここには、俺以外の「知的存在」の意思が介在している。


カツ、カツ……。

俺のブーツが石畳を打つ音だけが響く。

【暗視】の目が捉えた、あの巨大な古代魔法の術式跡。そこから伸びる、魔力の残滓でできた、かすかな「道標」。

それは、大広間の壁際をなぞるように、更なる暗闇の奥へと続いていた。


魔力の残滓は、あまりにも古く、か細い。

だが、その力は、今もなお周囲の埃を拒絶し、石畳の上に一本の「線」として、その存在を主張し続けていた。

数千年、あるいは一万年以上も前に引かれた線かもしれない。

これほどの「力」を、この迷宮の底で維持し続けるとは、一体、何者が。


警戒を最大に、俺は【炎牙の槍】を握りしめ、その線を辿った。

歩き続けて、どれほどの時間が経ったか。

大広間は、終わりが見えないほど広大だった。


やがて、線は、広間の最も奥まった場所で、壁に突き当たって「消えて」いた。

いや、違う。

「壁の中」へと、吸い込まれている。


「……行き止まり、か?」


俺は、線が消えた場所の壁を、槍の柄で叩いてみる。

コツ、コツ。

他の場所と同じ、硬い岩盤――あるいは、石壁の感触。

隠し通路でもあるのかと、手で押してみるが、ビクともしない。


(……いや、待て)


俺は、もう一度、その「壁」を、今度は【暗視】の目で凝視した。

何かが、おかしい。

この壁だけ、周囲の壁と「魔素の流れ」が、わずかに違う。

周囲の壁が「停滞」しているのに対し、この壁だけは、魔力が「循環」している。


「……幻術、か」


これは、物理的な壁ではない。

高度な魔法によって作られた、「壁のように見える」幻影。

あるいは、物理的な壁に、認識を阻害する魔法がかけられている。


俺は、聖魔樹から栽培した【石化の瞳】を一つ取り出した。

もし、これが魔法的な防壁ならば、「監視者」の魔眼が持つ「呪い」が、何らかの干渉を起こせるかもしれない。


だが、俺が「石の瞳」を構えた、その瞬間だった。


「―――無駄だ。君の、その粗末な呪物では、私の『封印術式』は破れはしないよ」


「!?」


声が、した。

凛とした、だが、どこかこの世のものではない、不思議な「響き」を持つ、女性の声。

それは、俺の「頭の中」に、直接、響いてきた。


俺は、声の主を探して、全方位に槍を構えた。

「誰だ!」


クスクス、と。

まるで、俺の警戒ぶりを、心底面白がるような、軽やかな笑い声が響いた。


「驚かせてしまったかな。それも道理か。生きた人間が、ましてや、そのように殺意を剥き出しにした『客人』が、この『書庫』を訪れるのは、実に……ああ、何千年ぶりのことだろうね」


声は、目の前の「壁」から発せられている。

俺が幻術だと睨んだ、その壁から。


「『客人』なら、歓迎しよう。だが、その物騒な得物を、まずは収めてもらえないだろうか。もっとも、君が私を害することは、原理的に不可能ではあるのだが」


その言葉と同時に、俺が睨みつけていた「壁」が、水面のように揺らいだ。

幻術が解けていく。

壁の向こう側に、新たな「空間」が姿を現した。


そこは、「書庫」だった。

壁一面、天井まで届く本棚が並び、そこには、羊皮紙でできたおびただしい数の「巻物」や、革張りで装丁された「古書」が、ぎっしりと詰め込まれていた。

そして、その中央。

山積みにされた書物の上に、「彼女」はいた。


「……亡霊……?」


俺は、息を呑んだ。

彼女は、青白い、半透明の光を放っていた。

肉体を持っていない。

この世に留まる、強大な意志を持った「魂」。

見た目は、俺とさほど変わらないか、少し年上に見える。長い髪を緩く結い、古代の魔術師が着るような、複雑な刺繍の施されたローブを身に纏っている。


彼女は、書物の上に腰掛けたまま、優雅に足を組み、その青白い光を放つ瞳で、俺を値踏みするように、じっと見つめていた。


「改めて。ようこそ、我が『牢獄』へ。そして……驚いた」

彼女は、本当に驚いたというように、わずかに目を丸くした。

「生きた人間が、まさか、あの忌まわしい92階層を抜け、ここまでたどり着くとは。いや、それ以上に驚愕すべきは――」


彼女の視線が、俺の背後、俺が歩いてきた「下層」へと向けられた。


「君、一体何者かね? 君の足跡は『上』からではない。『下』から……まさか、あの99階層の底から、ここまで這い上がってきたというのか?」


その声には、先ほどまでの余裕はなく、純粋な「驚愕」と「好奇心」が滲んでいた。

俺は、槍を降ろさず、警戒したまま答えた。

「……あんたこそ、何者だ。なぜ、こんな場所に」


「私かね?」

彼女は、つまらなそうに肩をすくめた。

「見ての通りさ。ただの『囚人』だよ。この『封印された書庫』という名の墓場で、永遠の時を過ごすことを強いられた、哀れな亡霊さ」


彼女は、立ち上がると、ふわり、と宙に浮き、俺の目の前まで近づいてきた。

その半透明の指が、俺の纏う【耐熱鱗の鎧】に触れようとして――すり抜けた。


「……なるほど」

彼女は、俺の鎧を、槍を、そして、俺の瞳の奥を、まるで解剖するかのように、舐めるように見つめた。

「君のその力。それは、現代の魔法体系ではないね。もっと原始的で、混沌としていて……そして、途方もなく、アンバランスだ」


彼女の視線が、俺の心臓のあたり――リナの祝福が宿る場所――で止まった。


「……ああ、そういうことか。君の核には、極めて高純度の『聖』なる力が宿っている。それも、自己犠牲による、強力な『祝福』だ。だが、同時に」


彼女の視線が、今度は俺の全身を覆う【深淵なる庭園管理】のオーラへと移る。


「君の魂そのものは、その『聖』とは正反対の、『魔』……いや、もっと根源的な『混沌』と『憎悪』に染まりきっている。まるで、聖なる器に、煮えたぎる深淵の泥を無理やり注ぎ込んだようだ。君、実に、実に、歪で……美しい」


彼女は、うっとりとした表情で、俺の「歪さ」を称賛した。

こいつ、まともじゃない。


「……お前を、ここに閉じ込めたのは、誰だ」

俺は、核心を突いた。


その言葉を聞いた瞬間。

彼女の顔から、表情が消えた。

優雅な笑みも、好奇心も消え、代わりに、この91階層の静寂よりも冷たい、「絶対零度の憎悪」が、その青白い瞳に宿った。


「……よくぞ、聞いてくれた」

声の「響き」が、変わった。

「私を、この『牢獄』に、一万年近くも閉じ込めた一族。その名を―――」


彼女は、まるで、呪いの言葉を吐き出すかのように、言った。


「―――『ザグラム』一族、という」


「!!」


俺は、目を見開いた。

ザグラム。

俺からすべてを奪い、リナを殺し、俺をこの深淵に追放した、あの男。

あの魔王軍幹部と、同じ名前。


「……ザグラムの一族?」

「そうだよ」

彼女は、憎悪に顔を歪ませながら、続けた。

「私の名は、エルミナ。遥か古代において、『危険思想』……そう、『聖と魔の融合』などという、神の領域を研究したという、くだらない理由でね。当時のザグラム一族の長によって、この世界迷宮の最深部に『生きたまま』追放された、しがない魔術師さ」


一万年。

ザグラムの一族。

聖と魔の融合。

すべてのピースが、最悪の形で繋がっていく。

俺が、農園で、ザグラム(俺の知る)に「実験台」にされたのは、偶然ではなかったのだ。

奴らの一族は、一万年も前から、「聖と魔の融合」――俺が今、この聖魔樹で体現している、この力――を追い求めていたのだ。


エルミナと名乗った彼女は、再び俺を見た。

その目には、もはや敵意はなかった。

あるのは、同じ「憎悪」を共有する者への、「同類」を見る目だった。


「君が、ザグラム一族の、現代の『誰か』に追放されたのは、その瞳を見れば分かる。君もまた、奴らの『実験』の犠S牲者なのだろう?」


俺は、何も答えなかった。

だが、沈黙が、肯定だった。


「……フフ……あはははは!」

エルミナは、腹を抱えて笑い出した。

「面白い! 実に、滑稽だ! 一万年だ! 一万年もの間、私は、この亡霊の身で、奴らへの復讐だけを夢見て、ここで朽ちるのを待っていた!」

「だが、奴らは、自らの手で、私と同じ『復讐者』を、この深淵に、わざわざ送り込んできたというわけだ!」


彼女の青白い霊体が、激しい感情の高ぶりで、揺らめいている。

彼女は、俺の前に、再びふわりと降り立った。


「君。名前は?」

「……アレンだ」

「アレン。良い名だ」


彼女は、すう、と目を細めた。

その瞳には、ある種の「期待」と、俺の力を試すような「侮蔑」が入り混じっていた。


「君は、地上に戻りたいのだろう? あの忌まわしいザグラム一族に、一矢報いるために」

「……そうだ」

「だが、君は、あまりにも『無知』だ」


エルミナは、俺の【炎牙の槍】を、半透明の指先で、憐れむように撫でた。

「その力。その『聖魔樹』とやら。確かに、面白い。だが、あまりにも粗末で、荒々しすぎる。それは『技術』ではなく、ただの『本能』だ。そんな力で、あの一族に勝てると思っているのかね?」


「……!」

俺は、反論できなかった。

彼女の言う通りだ。

俺は、ただ、魔物を狩り、その場しのぎで「栽培」し、装備を更新してきただけだ。

【深淵なる庭園管理】の本質など、何も理解していない。


エルミナは、そんな俺の葛藤を見透かしたように、回りくどく、そして、蠱惑的(こわくでき)に、微笑んだ。


「なるほど。君は、いわば私の悲願の続きを為すために、神(あるいは悪魔)が寄越した『駒』なのかもしれないね」


彼女は、俺に手を差し伸べた。

もちろん、その手は俺に触れることはできない。

だが、それは、明確な「提案」だった。


「どうだろうか、アレン。この私と、取引(ディール)をしないかね?」

「……取引?」

「そうさ。私は、この書庫から一歩も出られない、無力な亡霊。君は、力はあれど、それを使いこなす『知識』を持たない、ただの獣だ」

「互いに、足りないものを、補い合おうじゃないか」


「私は、君に、この書庫に眠る『古代魔法』の知識を授けよう。君のその『本能』を、『技術』へと昇華させてやろう」

「そして、君は―――」


エルミナの瞳が、復讐の炎で、青白く燃え上がった。


「―――私の『剣』となり、私の『足』となり。この一万年の憎悪ごと、地上へ、ザグラム一族の元へと、届けてはくれないだろうか?」


俺は、彼女の目を、まっすぐに見返した。

この亡霊は、信用できるのか?

だが、俺に、選択肢はなかった。

俺は、この91階層の「出口」すら、見つけられていないのだから。


「……いいだろう」

俺は、槍の穂先を下げ、彼女の「提案」を受け入れた。


「まずは、あんたの『知識』とやらを見せてもらおうか。古代の魔術師、エルミナ」


彼女は、満足そうに、深く、頷いた。

「契約成立だ。歓迎するよ、アレン。我が『深淵の書庫』へ。そして……私の、唯一の『希望』君」


こうして、俺の深淵での孤独な戦いは、終わりを告げた。

復讐という同じ目的を持つ、一万年前の亡霊という、「師」であり「共犯者」との、奇妙な共同生活が、今、始まった。

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