第十一話:『目覚めは、世界迷宮99階』


チリチリ、と。

皮膚が焼けるような感覚。

いや、違う。

これは、皮膚が「修復」されていく痛みだ。


全身の骨が軋み、引き裂かれた筋肉が、無理やり繋ぎ合わされていく。

まるで、一度ミンチにされた肉体を、見えざる手で雑にこね直されているような、おぞましい激痛だった。


(……痛い……寒い……)


ザグラムが放った追放魔法【アビス・ゲート】。

あの漆黒の亀裂に飲み込まれた瞬間、俺、アレンの身体は「空間」そのものによってすり潰されたはずだった。

光も、音も、時間さえもない、絶対的な「無」の中を、意識だけが引き伸ばされ、引き裂かれ、消滅していく。

それが、俺の最後の記憶。


死んだはずだ。

いや、死ぬよりもっと酷い、「消滅」したはずだった。


(……なぜ、生きている?)


疑問と同時に、強烈な吐き気と眩暈(めまい)が襲う。

重く、重く、鉛のように冷たい空気が肺に入り込んでくる。

息ができる。

生きている。


俺は、死の淵から、かろうじて意識を浮上させた。

ゆっくりと、重い瞼(まぶた)を開ける。


そこは、完全な「闇」だった。

一筋の光も差し込まない、純粋な暗黒。

ひんやりとした硬い岩盤の感触が、ボロボロになった背中から伝わってくる。


「……ッ、ぐ……!」


身体を起こそうとして、全身に電撃が走った。

「が、ぁ……ッ!」

骨が、まだ完全に繋がっていない。皮膚は焼けただれたようにヒリヒリと痛み、指先一本動かすことすら億劫だ。

ここは、どこだ。


(ザグラム……!)


憎悪が、激痛を上回る。

あの時の光景が、フラッシュバックする。

蹂リンされた俺の農園。

薄ら笑いを浮かべる、ゴルドーたち裏切り者の顔。

そして――

俺の腕の中で、血を流しながら微笑んだ、リナの顔。


『……生きて……』


彼女の、最期の言葉。

そうだ。俺は、あそこで死を覚悟した。いや、死ぬことすら許されない絶望に囚われた。

ザグラムの、片目を潰した。

だが、あの圧倒的な力の差の前で、俺はなす術もなく、この異次元の彼方へと追放された。


(……リナ)


彼女は、最期に俺の胸に手を当てた。

あの時の、信じられないほど温かい光。

今、俺の胸の奥で、かろうじて燻(くすぶ)っている、消えかけの小さな「温もり」。

これだ。

リナが最期にくれた、「祝福」。


彼女の命そのものだった聖なる力が、ザグラムの処刑魔法【アビス・ゲート】の、空間ごと対象を消滅させる呪いに対抗し、俺の魂と肉体が霧散するのを、かろうじて防ぎ切ったのだ。

俺の身体を今も苛むこの激痛は、破壊の残滓(ざんし)と、リナの祝福による「強制的な再生」がせめぎ合っている証拠だった。


「……リナ……お前は……」


お前は、俺を生かすために、最後の命まで……。

俺なんかを、庇って……。


(……ふざけるな)


奥歯を強く噛みしめる。

涙は出なかった。

ここで生き残ったこの命は、もはや俺だけのものではない。

リナが「生きて」と願った、彼女の命そのものだ。

こんな場所で、こんな暗闇の底で、朽ち果てることなど、断じて許されない。


「……う……おおおおおっ!!」


復讐心だけを燃料に、俺は激痛の走る両腕を岩盤につき、無理やり上半身を起こした。

ボロボロの服が、再生しかけた皮膚に張り付き、肉が裂ける。

だが、そんな痛みは、リナが受けた痛みに比べれば、どうでもよかった。


「はぁ……はぁ……」

荒い息を繰り返しながら、周囲の状況を探る。

匂い。

ひどいカビ臭さと、埃っぽさ。

そして何より、肌に突き刺さるような、濃密すぎる「魔素」の匂い。

第一部の農園で、聖魔茸を育てた時に感じた魔素の気配など、赤子の吐息に等しい。

ここは、空気が「重い」。まるで、魔力の液体の中に沈んでいるかのように、肌がピリピリと圧迫される。


(……なんだ、この場所は……)


光はない。

音もない。

自分の荒い息遣いと、ドクドクと鳴る心臓の鼓動だけが、不気味に響く。

地獄とは、きっとこういう場所のことを言うのだろう。


俺は、壁伝いに立ち上がろうと、すぐそばにあったはずの岩壁に手をついた。

その瞬間。

淡い光が走り、俺の手が触れた岩肌に、古代のルーン文字が浮かび上がった。


それは、王国が管理する「ダンジョン・システム」のステータス表示だった。

(ダンジョン……? ここは、どこかのダンジョンの内部なのか……?)


ザグラムの奴、俺をどこかのダンジョンに放り込んだのか。

だが、これほどの魔素濃度、聞いたことがない。


光る文字が、現在の階層を示す。

そこに表示された言葉を読み、俺は、全身の血が凍りつくのを感じた。


【階層:世界迷宮 99階】


「…………は?」


声が、漏れた。

乾いた、間抜けな声が。

世界迷宮。

別名「神々の試練場」。

俺が勇者パーティにいた頃、話にだけ聞いたことがある。王国最強のSランクパーティですら、到達した最高記録は「50階層」。

それより下は、踏み入れた者は誰一人として生還したことのない、神話の領域。前人未到の魔境。


99階。


「……は、はは……」

乾いた笑いがこみ上げてきた。


「……『死よりも辛い絶望』、か」


ザグラムの言葉が、脳裏に蘇る。

奴は、本気で俺を「世界の最果て」に棄てたのだ。

Sランクパーティですら到達できない、99階層。

ここから生きて地上に戻るなど、それこそ神でもない限り不可能だ。


水もない。

食料もない。

リナの祝福も、いつまで持つか分からない。

この濃密な魔素の中にいるだけで、普通の人間なら数分で精神が汚染され、発狂するという。


俺は、ここで、独り。

誰にも知られず、リナの命で得たこの身体を、ゆっくりと朽ち果てさせるのを待つだけなのか。

ザグラムの思惑通りに。


「……ふざけるな」


俺は、岩盤を拳で殴りつけた。

激痛が走るが、どうでもいい。


「ふざけるな……ッ!!」


リナに「生きて」と言われたんだ。

こんな場所で、こんな筋書き通りに、死んでたまるか。

あいつの思い通りに、絶望して、終わってたまるか。


「生きて、帰る」


俺は、立ち上がった。

まだ繋ぎ目が軋む足で、この暗黒の大地に、確かに立った。


「必ずだ」


憎しみが、黒い炎となって、リナの聖なる祝福と混じり合っていく。

俺は、この世界に二人の人間を呪う。


一人は、ザグラム。

俺の平穏を蹂躙し、俺のすべてを仕組んだ、あの冷酷な魔王軍幹部。

リナを、この手で殺した、不倶戴天の敵。


そして、もう一人。

勇者ガイウス。

俺を侮辱し、俺の価値を見抜けず、「足手纏い」だと追放した男。

あいつが、俺を追放しなければ。

あいつが、ザグラムの口車に乗らなければ。

俺は、あの農園でリナと出会うこともなく、ザグラムの「実験」に巻き込まれることもなかったかもしれない。

リナは、死なずに済んだかもしれない。


この悲劇の「最初のきっかけ」を作ったのは、あいつだ。


「ザグラム……ガイウス……」


俺は、暗闇の中で誓った。

「お前たちが、俺に味あわせた絶望を。リナが味わった苦しみを」

「お前たちが、まだ味わったことのない、本当の絶望として、俺が、必ず、与えてやる……!」


復讐心。

それだけが、この絶望の底で、俺を動かす唯一の燃料だった。


俺は、この99階の環境で、どう生き延びるかを考え始めた。

まず、必要なのは「拠点」だ。

そして、「食料」と「武器」。

俺のスキル、【庭園管理】は、こんな岩盤だらけの場所で、役に立つのか……?


その時。

俺は、激痛の走る身体を無理やり起こした拍子に、右の手のひらに、ずっと何か硬いものを握りしめていたことに、今更ながら気づいた。

ザグラムに吹き飛ばされ、意識が遠のく、あの最後の瞬間。

俺の腕の中で、リナが、何かを俺の手に握らせてくれていた。


恐る恐る、手のひらを開く。

それは、小さく、硬い「種」だった。


「……!」


見間違えるはずがない。

第一部の農園で、俺が育て、リナと共に世話をした、あの「聖樹」の。

魔炎に焼かれる寸前、リナが、俺に駆け寄る前に、咄嗟に確保していたのだ。

俺たちの希望だった、あの聖樹の。

たった一粒だけ残された、「最後の種」。


「リナ……お前は……」


最後まで、希望を捨てていなかったのか。

俺が、この種で再起できると、信じてくれていたのか。

涙が、熱い何かが、こみ上げてくる。

だが、今は泣いている場合ではない。


俺は、もう片方の手で、ボロボロになったズボンのポケットを探った。

あの激しい戦闘と、空間転移の中でも、奇跡的に失われずに、そこにあった。


小さな、革袋。

中身は、第一部の農園で、聖樹と対になる存在だったもの。

「魔界のキノコ(デモンズ・マッシュルーム)」の胞子。


俺の手のひらには今、二つの「種」がある。

リナが遺した「聖」の種。

俺が隠し持っていた「魔」の胞子。


そして、俺の体内には、リナの最後の「聖力(祝福)」が宿り。

この世界迷宮99階には、異常なまでの「魔素」が満ちている。


「…………」


俺は、目の前の、硬く冷たい岩盤を見下ろした。

ここは、絶望の底。

死の土地。


「いいだろう」


俺の目に、狂気と覚悟の入り混じった光が宿る。


「ここが、俺の新しい『庭』だ」


俺は、二つの種を岩盤に置き、両手を地面についた。

かつてのスローライフのためではない。

生き延びるため。そして、復讐を果たすため。


「庭師の仕事の時間だ」


俺は、変異したスキルを発動させるため、全身全霊の魔力と、リナへの想いと、ザグラムへの憎悪を、その手に込めた。

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