第十二話:『聖魔樹、誕生』


暗闇。

世界迷宮99階。

人類が到達したことのない、神話(しんわ)と絶望の底。


俺、アレンは、硬く冷たい岩盤の上に立っていた。

右の手のひらには、リナが最期に握らせてくれた「聖樹の最後の種」。

左の手のひらには、奇跡的に所持していた「魔界のキノコの胞子」。


片や、世界を浄化するほどの「聖」の極致。

片や、世界を汚染するほどの「魔」の根源。

本来ならば、水と油。出会えば互いを打ち消し合い、消滅するはずの二律背反。


第一部の農園では、聖樹の「結界」と俺のスキルの「中和」によって、ギリギリのバランスで「共存」させていただけだった。


だが、今はどうだ。


俺の体内には、リナの命そのものである「聖力(祝福)」が、消えかけの炎のように宿っている。

そして、この99階の空気には、肺を焼くほど濃密な「魔素」が満ち満ちている。


聖と魔。

俺の内のリナと、俺の外の世界。

まるで、この絶望の底こそが、この二つを融合させるために用意された「祭壇」であるかのようだった。


(……やるしかない)


復讐を誓った。

生きると決めた。

ザグラムとガイウスの顔を、リナが血を流したあの瞬間の光景を、脳裏に焼き付ける。

もはや、迷いも、倫理も、庭師としての矜持(きょうじ)も、ここにはない。

あるのは、冷え切った殺意と、生き残るための「手段」だけだ。


俺は、二つの種を、目の前の硬い岩盤の上に、そっと置いた。

隣り合わせに置かれた、聖なる種と、魔なる胞子。


「……ッ」


置いた瞬間、二つの種が互いを拒絶するように、バチバチ、と小さな火花を散らした。

聖樹の種は純白の光を放って魔の胞子を浄化しようとし、魔の胞子は黒紫の瘴気を放って聖なる種を汚染しようとする。

凄まじい拮抗(きっこう)。


(このままでは、両方とも消滅する……!)


俺は、両手を岩盤につき、二つの種を覆うように、その手をかざした。


「【庭園管理(ガーデニング)】!!」


俺の意志に応え、スキルが発動する。

淡い緑色の光が、俺の手から放たれ、二つの種を包み込もうとした。

いつものように、対象を「育成」し、「調和」させるために。


だが。


「―――がッ!?」


スキルが、岩盤に「拒絶」された。

【庭園管理】は、あくまで「土」を対象とするスキル。

生命の存在しない、魔素に汚染されたこの「岩盤」は、俺のスキルの対象外だった。

緑色の光は行き場を失い、岩肌の上で虚しく霧散していく。


「くそっ……ダメか……!」


焦りが、胸をよぎる。

聖と魔の拮抗は、ますます激しさを増している。

このままでは、リナが遺した最後の希望すらも、失ってしまう。


(……なぜだ。なぜ動かない、俺のスキル)

(俺は、もう『庭師』ですらないというのか……!)


絶望が、再び鎌首をもたげた、その瞬間だった。


ドクンッ!!!


俺の胸が、心臓が、まるで内側から殴られたかのように、激しく脈打った。

(……なんだ……?)


熱い。

胸の奥、リナの「祝福」が宿る場所が、灼(しゃく)けるように熱い。

それは、目の前にある「聖樹の種」に、呼応していた。

リナの聖力が、「仲間」である聖樹の種を助けようと、俺の体内から溢れ出そうとしている。


「―――あ……!」


聖なる光が、俺の胸から溢れ出し、俺の腕を伝って、右手のひらから「聖樹の種」へと注ぎ込まれていく。

聖樹の種は、その力を得て、輝きを増した。


だが、それが、最悪の事態を引き起こした。


(……しまった!!)


聖なる力が増したことで、均衡が崩れた。

聖樹の種が放つ浄化の光が、魔界のキノコの胞子を、一気に飲み込もうとする。

まずい、このままでは魔の胞子が消滅する!


そう思った矢先。

今度は、俺の「外側」が反応した。


ゴオオオオオオッ!!!!


俺の周囲、この99階の空間を満たしていた、濃密すぎる「魔素」の奔流。

それが、「仲間」である魔界の胞子の危機を察知したかのように、一斉に牙を剥いた。


「―――ッ!?」


凄まじい圧だ。

99階の全魔素が、俺の体内から溢れる「聖力」を「敵」とみなし、押し潰そうと殺到してきたのだ。

魔の胞子は、その膨大な魔素を吸収し、今度は黒紫の瘴気を爆発させる。


聖樹の種(+リナの聖力) VS 魔界の胞子(+99階の魔素)


二つの、世界を揺るがすほどの「力」が、俺の掌(たなごころ)の上で、激突した。

緑色に光るはずだった俺の【庭園管理】スキルは、二つの巨大すぎる力の奔流に挟まれ、悲鳴を上げ、引きちぎられそうになっていた。


(……耐えろ……!)

(耐えろ、俺のスキル……! 飲み込まれるな!)

(調和させろ! それが、お前の力だろ……!)


俺は、激痛の走る身体のすべてを賭して、二つの力を押さえつけようと、スキルを維持し続けた。


だが、現実は非情だった。

「調和」など、生ぬるい。

これは、もはや「戦争」だ。


ピシッ、と。

俺の精神の中で、何かが「割れる」音がした。


(……あ)


俺のスキルを構成していた、常識、倫理、平穏、スローライフ――

そういった「生ぬるい」概念が、聖と魔の激突によって、粉々に砕け散った。


そして、代わりに、心の奥底から、黒い「何か」が溢れ上がってきた。


(そうだ)

(調和? 育成? 違う)


リナは死んだ。

俺は追放された。

世界は、理不尽だ。


(ならば、「喰らえ」)


憎しみ。

怒り。

復讐心。

俺自身の、黒く変質した、この「意志」。


(聖も、魔も、喰らい尽くして、俺の力になれ……!!)


俺の精神が、スキルに「命令」する。

「調和」ではなく、「捕食」を。

「育成」ではなく、「支配」を。


その瞬間。

俺の脳内に、無機質なシステムメッセージが響き渡った。


【スキル:『庭園管理(ガーデニング)』は、過酷な環境と、術者の強靭な意志(殺意)により、変異条件を達成しました】

【聖なる祝福、および、深淵の魔素を触媒とし、スキルは再構築されます】


【新スキル:『深淵なる庭園管理(アビス・ガーデニング)』を獲得しました】


―――世界が、変貌した。


俺の目には、もはや「聖樹の種」も「魔界の胞子」も見えていなかった。

見えるのは、「聖の概念(リナの希望)」と、「魔の概念(99階の絶望)」。

そして、俺の新しいスキル【深淵なる庭園管理】が、その二つの概念を、「肥料」として、貪欲に喰らい始めた。


「……あ……ああ……」


俺の掌の上で、二つの種が、もはや火花を散らすのをやめていた。

そうではない。

聖樹の種は、魔の胞子を「食べ」。

魔の胞子は、聖樹の種を「食べ」。

まるで、二匹の蛇が互いの尾を喰らい合うように、二つの種は「融合」を始めた。


純白の光と、黒紫の瘴気が、渦を巻き、混じり合い、一つの「塊」になっていく。

それは、もはや「種」ではなかった。

岩盤の上で、ドクン、ドクン、と脈打つ、白と黒のまだら模様の、「心臓」だった。


「―――喰らえ」


俺は、その「心臓」に、リナの祝福と、99階の魔素を、新しいスキルで強制的に注ぎ込んだ。

肥料だ。

お前は、これを喰らって、育て。

俺の、復讐の「道具」として。


「心臓」は、歓喜の叫びを上げるように、岩盤に「根」を突き立てた。

それは、植物の根ではなかった。

岩盤を「溶かし」、「喰らう」ための、「牙」だった。


ズズズズズズッ!!!!


硬い岩盤が、まるで柔らかな腐葉土でもあるかのように、いとも容易く飲み込まれていく。

「牙」は、岩盤の奥深くに眠る、より濃密な魔素の溜まり場(マナ・プール)に到達した。


次の瞬間。


「心臓」から、凄まじい速度で「幹」が突き上がった。


それは、第一部の農園で育てた、あの神々しい聖樹とは、似ても似つかない姿だった。

幹は、リナの聖力を受け継いだ、美しい「純白」。

だが、その純白の樹皮の上を、まるで血管が浮き出るように、99階の魔素を取り込んだ「漆黒の紋様」が、禍々しく脈動しながら走っている。


枝が伸びる。

葉が茂る。

その葉は、魔界のキノコが変異した、鋭利な「黒曜石」のような形状。

だというのに、その葉の縁(ふち)だけは、聖樹の力を受け継ぎ、淡い「聖なる光」を放っていた。


それは、神々しさと、禍々しさが、歪(いびつ)に混在した、異形の「樹」だった。

成長は、止まらない。

俺が立っている目の前で、わずか数分のうちに、小屋の屋根を優に超える、高さ10メートルほどの巨木へと変貌した。


俺は、その樹を、名付けた。

聖と、魔を、喰らって生まれた樹。


「……『聖魔樹(せいまじゅ)』……」


俺がそう呟くと、聖魔樹は、応えるように、その枝をザワリ、と震わせた。

そして、その真の能力を、発揮し始めた。


ゴオオオオオオッ!!!!


聖魔樹が、呼吸を始めた。

それは、この99階の空間を満たしていた、あの濃密な「魔素」を、根から、幹から、葉から、無差別に「捕食」し始めたのだ。


「……空気が……」


変わっていく。

肺を圧迫していた、あの重苦しい魔素の圧力が、嘘のように消えていく。

聖魔樹の周囲、半径20メートルほどの空間が、まるで台風の目のように、急速に浄化されていく。


だが、それは、第一部の聖樹が作った「聖なる結界」ではなかった。

魔素が消えたそこは、聖なる空気にもなっていない。

ただ、純粋に「無」だ。

あらゆる属性が喰らい尽くされ、リセットされた、「中立」の空間。


安全だ。

魔素に汚染される心配もなければ、魔物を寄せ付ける匂いもない。

この絶望の底で、唯一、俺だけが呼吸をすることを許される、絶対不可侵の「領域(テリトリー)」。


「……はは……」

乾いた笑いが、再び漏れた。

「ここが、俺の新しい『庭』か……」


俺は、ふらつきながら聖魔樹に歩み寄り、その白と黒のまだら模様の幹に、そっと触れた。

不思議な感覚だった。

幹に触れているのに、まるで自分の身体の一部であるかのように、馴染む。

リナの祝福の「温かさ」と、俺自身の復讐心の「冷たさ」。

その両方が、この樹皮の下を、奔流となって駆け巡っているのが分かった。


俺はもう、ただの「庭師」ではない。

この深淵で、この異形の樹と共に、復讐のためだけに魔物を「栽培」する者。


俺は、「深淵の庭師(アビス・ガーデナー)」だ。


復讐への、最初の一歩。

俺は、この絶望の底で、最強の「拠点」を手に入れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る