第十話:『庭師の残響 』


ザグラムは、転移魔法の青い光の残滓が完全に消え去った空間を見つめながら、冷たく、深い満足の溜息を漏らした。それは勝利の安堵ではない。緻密な計画のすべてが、想定された「終焉」を迎えたことに対する、知将としての純粋な達成感だった。


彼の眼前には、自らの一撃で炭と化した聖樹の残骸が、墓標のように突き刺さっている。そして、踏み潰された「聖魔茸」の畑の脇には、血の海に倒れる聖女リナの亡骸。そのすべてが、彼にとって完璧な『実験の終焉』の証明だった。


「ふむ……完璧だ。これほどまでに効率の良い『実験場』は、他にはあり得まい」


ザグラムは、片目を押さえた。痛みをこらえる仕草ではない。それは、アレンが放った泥臭い一撃の傷口を、勝利の証として確かめているようだった。あの傷こそが、アレンという『栽培装置』が、一瞬でも感情の爆発によって『兵器』へと変異しかけた、唯一の記録なのだ。


彼の目的は、魔王軍の悲願である、「無限の魔力増強薬」の開発だった。そのために、彼は緻密なリサーチを行い、伝説に語られる「聖樹の力」と「魔界の植物の特性」が、この世界のどこで、どのように共存し得るかを突き詰めていた。


その結果として、彼の持つ【庭園管理】スキルに目をつけた。


過去、勇者パーティーを監視していた際、アレンはその時小間使のような役割であったが、薬草などを見事に調合し通常よりも何倍もの効果をもつものを作成しており、本人はおろか周りもその有用性に気づいていない様子だった。

これは使える……、と今回の計画を練り始めた。


勇者は成果を求められる。

評価は他人がするものなので、成果を隠し、受動的に生きているアレンなどは「周りからの承認」を得られない状態が続くと、勝手に独りになると予想し、パーティーメンバーに度々接触し「アレンの価値」を下げるように動いた。


予想通り、勇者はアレンを追放し、アレンは勇者を憎みながらも自身の能力を更に発展させざる得ない状況に身を投じることとなった。


「『土壌の超活性化』と『植物の超速成長』……。その本質は、生命のエネルギーの『瞬間的な凝縮と浄化』。そして、世界樹の苗という『聖なる触媒』と、魔界の胞子という『魔なる触媒』を、無意識のうちに絶妙なバランスで共存させていた。これほどの配合と調整を、一介の若造が、スローライフという無警戒な状態で成し遂げていたのだ」


ザグラムは、アレンの庭を訪れるたびに、世間話と称して、土壌の成分、植物の生長サイクル、聖樹の結界の強度などを緻密に記録してきた。彼にとって、アレンは敬意を払うべき最高の『栽培装置』であり、彼の庭は、魔王軍の悲願を達成するための『無限のリソース』の源泉だった。


彼の計画は完璧だった。無能として追放された若者に、孤独なスローライフという「餌」を与え、無警戒な状態で最高の植物を生産させる。聖女リナという「聖なる触媒」までが、病の治療という名目で、勝手に常連客となり、聖樹の成長を促進した。


しかし、その緻密な計画の中に、予測不能な「イレギュラー」が生じた。聖女リナだった。


「あの聖女め……無能な庭師に、そこまでの価値を見出していたとはな」


リナは、単なる聖なる触媒では終わらなかった。彼女は、ザグラムの「研究対象」であるアレンを、一人の「人間」として愛し、そしてその愛ゆえに、計画の完了を阻止しようと抵抗した。


リナの抵抗により生じた、ほんの一瞬の隙。その隙を突き、アレンが放った、焼けた聖樹の根と猛毒の胞子による泥臭い一撃。


(あの瞬間、確かに恐ろしかった。植物の成長だけでなく、その「崩壊」をも自在に操る、あの男の「怒り」。あれが真の戦闘スキルとして開花していたら、この私でも危険だった。だが、彼はスキルを戦闘用に転用するという発想そのものがなかった。彼は自分の力を、戦闘に向かないと心の底で決めつけていた「愚かな凡人」だ)


アレンの反撃は、彼の復讐心と、愛する者を失った絶望が、一時的にスキルの「誤用」を引き起こしたに過ぎない。その誤用は、ザグラムに片目を奪うという代償を負わせたが、本質的な驚異とはなり得なかった。


「無能のまま、永遠に世界の最果てで後悔し続けろ、庭師よ」


ザグラムは、アレンが消えた空間を見つめ、冷徹に勝利を確信した。リナの亡骸すら、彼にとっては「実験の終わりを告げる、美しい残滓」としか見えなかった。アレンのスキルと、この実験場から得たデータさえあれば、魔王軍の悲願は達成される。アレンの存在など、最早必要ないのだ。


彼は、アレンの「無能さ」を軽蔑したが、同時に、その能力の「奇跡性」を誰よりも高く評価していた。だからこそ彼は、アレンを生かして苦しませるという、最も残酷な「支配の終焉」を選んだのだ。ザグラムの部下たちが、焼き払われた土壌を丁寧に回収し始める。ザグラムは、その光景を満足そうに見つめ、次の段階へと意識を切り替えた。アレンの悲劇は、彼の壮大な計画の、ほんの序章に過ぎなかった。



王都の最も豪華な高級酒場。勇者ガイウスは、上質なエールを呷っていた。


彼は、高難易度ダンジョンで、またもポーションと食料が尽きかけ、辛うじて逃げ帰ってきたばかりだった。パーティの魔法使いと戦士は、疲労とストレスから、すでに互いに口論を始めている。ガイウスの隣で、新しく来た魔法使いが「ポーションの在庫管理はどうなっている!」と叫び、戦士が「もっと回復魔法を使え!」と応酬する。彼らの口論は、もはや日常の一部と化していた。


「チッ。忌々しい」ガイウスは舌打ちをした。


彼のダンジョン攻略の難易度が急上昇した理由など、どうでもよかった。それが環境の変化か、魔王軍の新たな罠か、あるいは神々の気まぐれか、彼には一切関係のないことだ。


アレンを追放したことなど、彼の中では一ヶ月前のどうでもいい雑務に過ぎない。

彼の意識には、追放された「庭師」の影など、微塵も残っていなかったが、ポーションや薬草の話になると思い出せざる得ない。


(あいつがいなくなって、確かに薬草の調達は面倒になった。以前は、道端の雑草でさえ、あいつが手をかければ、最高品質のポーションの原料になったものだが。今は、街の露天商で高値の素材を買うか、手間をかけてダンジョンで採取するしかない。だが、所詮はそれだけの話だ)


ガイウスの頭にあるのは、ただ一つ。「成果」を出し続けること。


彼は知っていた。勇者として評価されるのは、目の前の魔物を倒した数、踏破したダンジョンの深さ、そして、討伐した魔王軍幹部の首の数だけだ。ポーションの原料がどれだけ上質か、食料がどれだけ栄養豊富か、などという地味な「裏方の功績」は、リーダーである自分の評価には、何の足しにもならない。


「リーダーは、常に『力』で示さねばならない。あの庭師は、その『力』を持たなかった。それだけだ」


彼の傲慢な思考は、アレンの存在を完全に自己正当化の道具として処理していた。アレンの地味な貢献、その裏にあった奇跡の力など、彼には理解不能であり、理解する必要もないものだった。アレンが実は、王都のすぐ外で伝説級の聖樹を育て、世界を揺るがす奇跡の植物を作り出し、その結果、魔王軍幹部に目をつけられていたという事実など、ガイウスの狭い視野には入る余地すら存在しなかった。


彼の視界に残っていたのは、アレンがいた頃の「ぬるま湯のような安寧」の記憶だけだった。そしてその安寧は、今や遠い過去のものとなり、代わりにパーティは不和と疲弊に蝕まれ始めていた。彼は、今、パーティが崩壊寸前にあるのは、アレンのせいではなく、他のメンバーの不甲斐なさのせいだと、頑なに信じている。


「おい、ぐずぐずするな! 明日も次のダンジョンだ!」


彼は、崩壊寸前のパーティを無理やり引き連れ、己の正義を証明するための、無謀な戦場へと向かおうとしていた。彼は気づいていなかった。彼らのパーティの生命線が、アレンという「無能」によって密かに支えられていたという、残酷な真実に。そしてその生命線が失われたことで、彼らが遠からず、絶望的な未来を迎えることを。


ガイウスの視点から見れば、アレンはただの「物語から退場したモブキャラクター」であり、彼の人生における小さな「不要物」でしかなかった。アレンの追放は、彼にとって、自身の勇者としての役割を全うするための、「正しい選択」であり続けたのだ。



夢…?

夢だろうか…?


もしも、もしも、ザグラムの陰謀が暴かれ、魔王軍の脅威が遠ざかっていたら。

私とアレンさんの日々は、きっと、こんな風に続いていたに違いない。


朝、眩しい陽光が小屋の窓から差し込み、私の瞼を優しく揺り起こす。

隣では、アレンさんがまだすやすやと眠っている。泥だらけになる畑仕事で疲れているのに、私を起こさないよう、いつも静かに寝返りを打つ彼。

寝顔は、子どもみたいに無邪気で、見ているだけで心が温かくなる。

そっと身体を起こし、彼の額にキスを落とす。


「ふふ、もう、朝ですよ。アレンさん」


彼が、んー、と小さく唸り、ゆっくりと目を開ける。


「リナ……おはよう。もう少しだけ……」


私の手を掴んで引き寄せようとする仕草が、もうたまらなく愛おしい。


「だめですよ。今日は畑に植える新しいハーブの種を買いに行くんですよね?」

「ああ……そうだった。リナと一緒なら、どんな畑仕事も楽しいからな」


彼はそう言って、私の頬にキスを返してくれる。その瞬間、私の心は、朝露に濡れた花のように、きらきらと輝くのだ。

朝食は、アナスタシアさんから譲ってもらった古い鉄鍋で作る、焼きたてのパンと、アレンさんの野菜を使ったスープ。そして、聖樹の葉から淹れた、少し苦いけれど、私にとっては最高の癒しとなるお茶。


「今日のカブも甘いな! リナもどうだ?」

「ええ、いただきます。アレンさんが育てたカブは、本当に宝石みたいに綺麗で、美味しいわ」


二人の他愛ない会話が、小さな小屋に響き渡る。それが、私の求めていた、何よりも尊い日常だった。

食事が終わると、二人で畑に出る。

アレンさんは、慣れた手つきで鍬を振るい、土を耕す。

私は、彼の隣で、雑草を抜いたり、小さな苗に水をやったりする。


「リナ、こっちの土、少し硬くなってるな。聖力で柔らかくしてやってくれないか?」

「ええ、任せてください。ふふ、アレンさんのためなら、喜んで」


私の聖力は、アレンさんのスキルによって常に満たされているから、枯渇症の心配など、もう微塵もなかった。

私の聖力が土に注ぎ込まれると、土は瞬く間にフカフカになり、植物たちは嬉しそうに葉を揺らす。

アレンさんは、私の頭を撫でて「ありがとうな、リナ」と笑ってくれる。

その笑顔を見るたびに、私の中に、温かい光が満ちていくのを感じるのだ。

時々、畑の隅で、私は聖力を込めた歌を口ずさむ。

それは、昔、教会で聖歌隊と共に歌った歌だ。しかし、この場所で、アレンさんの隣で歌う歌は、かつての義務感に満ちた聖歌とは全く違う。

純粋な喜びと、彼への愛が込められた、私だけの歌。


「リナの歌声は、植物たちも喜ぶな。それに、俺も、力が湧いてくる」


アレンさんの言葉に、私は照れて顔を赤くする。

昼食は、二人で木陰でピクニック。

アレンさんが作った、素朴なサンドイッチと、私が淹れたハーブティー。


「このハーブティー、リナが淹れると、いつもより香りがいいな」

「もう、そんなお世辞ばかり言って……」


でも、彼がそう言ってくれるのが、本当に嬉しかった。

午後の日差しの中、二人でたわいもない話をする。

将来のこと、新しい野菜の品種のこと、いつか二人で旅をしてみたい場所のこと。

彼の夢は、世界一の庭師になること。私の夢は、彼の隣で、ずっとこの庭を守ること。

互いの夢を語り合う時間が、何よりも尊い。

夕暮れ時。

畑仕事を終え、沈みゆく夕日を二人で眺める。


「今日も、一日が終わったな」


アレンさんが、そっと私の手を握る。

彼の指は、いつも土で汚れているけれど、私にとっては、世界で一番温かくて、優しい手。


「ええ、明日も、きっといい日になりますよ」


彼の肩に頭を預け、私はそっと呟く。

聖樹の木陰で、二人で寄り添うこの時間が、私の人生そのものだった。

夜。

夕食を終え、二人で暖炉の火を見つめる。

アレンさんが、私を優しく抱きしめてくれる。

彼の腕の中は、どんな豪華な王城の寝台よりも、私にとって、安らぎと温かさに満ちた場所だった。


「リナ……」

「アレンさん……」


互いの名を呼び合うだけで、心が満たされる。

言葉なんて、もういらない。

ただ、こうして寄り添っているだけで、すべての不安が消え去り、深い愛情に包まれる。

時には、新しいハーブの試飲と称して、二人で少しだけお酒を飲んで、頬を赤らめることもあった。


「リナ、顔が赤いぞ」

「アレンさんもですよ……」


そんな風に笑い合いながら、少しだけ素直になれない自分に、私自身もまた、頬を緩めるのだ。

彼は、私が聖女としての重圧を背負っていることを、言葉にはしなかったけれど、きっと理解してくれていた。だからこそ、私を「リナ」として、一人の女性として見てくれたのだ。

彼の優しさに触れるたび、私は自分らしく、穏やかな笑顔でいられる。

まるで、乾いた土に水が染み込むように、彼への愛情が、私の心を満たしていく。


「リナ、おやすみ」

「アレンさん、おやすみなさい」


そう言って、彼が私の唇にキスを落とすと、私の心は幸福感でいっぱいになる。


隣で眠る彼の温もりを感じながら、私は夢を見るのだ。


いつか、この聖樹がもっと大きく育って、二人の小屋を優しく包み込む夢。


その木陰で、二人の子どもたちが、楽しそうに走り回っている夢。


アレンさんと、私が、この場所で、ずっとずっと、歳を重ねていく夢。


この穏やかな日々が、何よりも尊い、私の宝物。

この優しい時間が、ずっと続けばいいのに。


もしも、あの何の脅威もなく日常を過ごせたら。

私とアレンさんの「明日」は、きっと、こんな風に、永遠に輝き続けていたことだろう。



「…………え」


早回しで動いてた世界が正常に戻る。


ゆっくりと、私の身体が、アレンさんのいる方へと傾いていく。

彼が、麻痺していた身体を必死で動かし、崩れ落ちる私の身体を、震える腕で抱きとめてくれた。

ああ、アレンさん……。あなたの腕の中は、こんなにも温かい。


「……あ……アレン、さん……」


口から、ごふ、と赤い血が溢れ出す。

私の腕の中に、温かい私の血が広がるのが見えた。

真っ白だった私の服が、アレンさんが育てたトマトのように、真っ赤に染まっていく。


「リナ……? なんで……なんで、俺なんかを……」


アレンさんの、痛みに満ちた声が聞こえる。

私は、血を流しながらも、笑っていた。

あの、農園で、彼と笑い合った時と、同じ顔で。


「……よかっ、た……。私、ちゃんと……『道具』じゃなく……『リナ』として……あなたを、守れた……みたい……」


アレンさんは、慌ててスキルを発動しようとする。

「リナ! リナ! 死ぬな! 俺のスキルで……そうだ、【庭園管理】で……!」


私は弱々しく首を振った。


「……ううん……もう、いいんです……。アレンさん……あなたは、生きて……。あなただけは……」


私は、最後の力を振り絞り、血に濡れた手を、アレンさんの胸にそっと当てた。

私の手から、信じられないほど温かい、最後の聖力が流れ込んでいく。

それは、回復魔法であり、そして、私の命そのものを彼に分け与える「祝福」だった。

彼の傷ついた心と、絶望に凍り付いた魂が、この祝福で、少しでも癒されるように。

そして、この力が、彼を、この地の魔素の中で、より強く変異させるための、最高の触媒となるように。


「……私の……『居場所』……。あなたのそばが……私の、本当の……居場所でした……」


私は、アレンさんの頬に触れようとした。


「あい――」


愛している、と伝えたかった。

それが、私の、最後の言葉だった。

彼の胸に当てられた手から、力が抜け落ちていく。

私の瞳から、光が消えた。

私の愛と、命を懸けた祝福が、アレンさんの「復讐」という名の新たな物語の始まりとなることを信じて。

私は、役割を捨て、一人の「人間」として、愛する庭師を守り、その命を閉じた。

私の亡骸は、ザグラムの冷酷な計画の成功を示す証であると同時に、アレンさんが再び立ち上がるための、最も強力な「復讐の種」となったのだ。

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