第六話:『束の間の平穏と、聖女の告白』
季節は、緩やかに移ろいでいた。
俺がこの荒れ地に追放されてから、数ヶ月が経った。
あれほど不毛だった土地は、今や王都のどんな庭園よりも生命力に満ちた場所へと変貌していた。
聖樹の若木は、今や小屋の屋根を優に超える高さまで成長し、その枝葉は常に清浄な風をまとっている。その恩恵を受け、俺の農園では、聖樹の足元から色とりどりの花々が、俺が種を蒔いたわけでもないのに咲き乱れるようになっていた。
まるで、土地そのものが「生きている」ことを喜んでいるかのように。
「あ、アレンさん! 見てください! なんだか……ちょっと変な形のカブが採れました!」
聖樹の木陰。そこで土をいじっていたリナが、顔を泥で少し汚しながらも、満面の笑みで歪(いびつ)なカブを掲げて見せた。
彼女は、もうすっかりこの農園の「日常」の一部になっていた。
聖女としての公務(彼女は多くを語らないが、その疲弊ぶりから、教会で相当こき使われていることは察しがついた)の合間を縫っては、彼女は質素な旅装に着替え、この農園を訪れる。
「はは、本当だ。何かの魔物みたいだな」
「もう、笑わないでください! でも、こっちのトマトは完璧です!」
リナはそう言って、真っ赤なトマトを誇らしげに掲げる。
「あなたが毎日、丁寧に世話をしてくれたおかげだ」
俺が言うと、彼女は「えへへ」と照れくさそうに笑った。
「じゃあ、『聖女』様に、土の恵みを」
俺がふざけてトマトを手渡すと、リナはわざとらしく咳払いをして、それを受け取った。
「まったく。……土まみれの聖女がどこにいますか」
「俺の前には、いるけど?」
「……もう!」
頬を膨らませたリナは、トマトにかぶりつく。その無邪気な姿は、とても王都中の人々の祈りを一身に背負う「聖女」とは思えなかった。
「……本当に、美味しい」
一口食べたリナは、ふう、と幸せそうに息をついた。
さっきまでの冗談めかした空気が、すうっと静まっていく。
「教会にいると、息が詰まりそうになります」
ポツリと、彼女が本音をこぼした。
「皆が私を『聖女様』と呼びます。誰も、私を『リナ』とは見てくれない。私が少しでも弱音を吐けば、『聖女たるもの』と叱責され、私が奇跡を起こせば、それが当然だと喜ばれる……」
その横顔には、深い疲労と諦観が滲んでいた。
「まるで、私は教会という箱に飾られた、便利な『道具』みたいです」
彼女の枯渇症の原因は、人々の過剰な期待に応えようとした、その無理が祟ったものなのだ。
その「道具」という言葉が、俺の胸に突き刺さる。
「でも」
彼女は、俺の目をまっすぐに見つめ直した。
「ここに来ると、私はただの『リナ』でいられる。泥だらけになっても、アレンさんは笑わないし……むしろ、さっきみたいにからかってくるし」
「悪かったよ」
「ううん、それがいいんです」と彼女は首を振った。
「……私にとって、ここだけが、息ができる……本当の居場所なんです」
「……リナ」
俺は、なんと答えていいか分からなかった。
俺も、勇者パーティで「庭師」という役割(道具)としてしか見られていなかった。彼女の孤独が、痛いほど分かる。
「俺にとっても、リナがここに来てくれるのは嬉しいよ。一人で畑をいじるより、ずっと楽しい」
「……! はい!」
俺の率直な言葉に、リナは今日一番の笑顔を咲かせた。
この平穏が、ずっと続けばいい。俺は心の底からそう願っていた。
◇
俺の農園には、もう一人の「常連客」も定期的に姿を見せていた。
「これはまた……聖樹が随分と成長しましたな、アレン殿」
冷たい目を細め、商人Zは、まるで我が事のように満足げに頷いた。
彼は約束通り、聖魔茸を「薬」として少量ずつ持ち帰っては、代わりに莫大な金貨(俺は受け取りを拒否しているが、彼は「研究費です」と言って半ば強引に置いていく)と、王都の情報を運んできた。
「おかげさまで、魔王領の『枯渇病』の進行を、大幅に遅らせることができています。あなたは、我々にとっての恩人です」
「……それなら、良かった」
Zは、リナとは違い、どこか得体が知れない。
彼が農園にいる間は、聖樹の結界がわずかに警戒するように揺らぐのを、俺は感じていた。
だが、彼がもたらす情報には、無視できないものがあった。
「例の勇者パーティ。いよいよ仲間割れが始まったようですぞ」
Zは、摘み取ったハーブの香りを楽しみながら、楽しそうに言った。
「ポーションの枯渇と、前衛の負傷。それで高難易度ダンジョンが攻略できなくなり、収入が激減。リーダーのガイウスは、そのイラ立ちを仲間にぶつけ、ついに魔法使いのエララがパーティを脱退したとか」
「……そうか」
「おや、嬉しくないのですかな? あなたを追放した連中の、当然の末路ですのに」
「……なんとも思わない」
俺は嘘をついた。
正直、心のどこかで「ざまあみろ」と思う黒い感情がなかったわけではない。
だが、それ以上に、彼らへの関心そのものが薄れていた。
今の俺には、この農園と、聖樹と、そして……リナとの平穏な日々の方が、よほど大切だった。
「ふむ。あなたは、欲のない御仁だ」
Zは、それ以上は追及せず、持ってきた金貨の箱を置いて、護衛と共に去っていった。
(欲がない、か)
本当にそうだろうか。
俺は、気づき始めていた。
リナが来るたびに見せてくれる、あの屈託のない笑顔。泥だらけになってカブを自慢する姿。俺の冗談に、本気で頬を膨らませる様子。
そのすべてを「失いたくない」という、強烈な「欲」が、自分の中に芽生えていることに。
そして、その「欲」の中心には、いつもリナがいることにも。
◇
その日の夕暮れは、空が燃えるように美しかった。
聖樹の葉が黄金色に輝き、咲き乱れる花々が、最後の光を浴びて影を濃くしている。
リナは、公務に戻る時間だというのに、珍しく立ち去りがたい様子で、聖樹の根元に座り込んでいた。
「……帰りたくない、です」
ぽつり、と彼女が呟いた。
「ここにいると、教会に戻るのが……まるで、冷たい牢獄に戻るみたいで」
「リナ……」
俺は彼女の隣に座った。
二人分の影が、夕日を浴びて長く伸びる。
「アレンさんは、これからどうするんですか? ずっと、ここで庭師を?」
「ああ。そのつもりだ。ここが俺の居場所だからな」
「……そっか。アレンさんには、居場所があるんですね」
リナは羨ましそうに呟き、そして、意を決したように顔を上げた。
その頬は、夕日のせいか、あるいは別の理由か、ほんのりと赤く染まっている。
「あの、アレンさん!」
「ん?」
「私、もう……教会に戻るのが嫌なんです! 聖女なんかじゃなく、ただの『リナ』として……あなたの、そばに……」
言葉が、途切れる。
だが、その潤んだ瞳が何を言いたいのか、俺には痛いほど伝わってきた。
彼女は、聖女という「役割」を捨てて、俺と生きることを選ぼうとしている。
追放され、すべてを失った俺。
聖女として、すべてを背負わされた彼女。
まるで正反対の俺たちが、この場所で出会い、互いに「居場所」を見つけた。
俺も、同じ気持ちだった。
この農園に、リナがいない日常など、もう考えられない。
彼女の、あの土まみれの笑顔がない日々など。
「リナ。俺も――」
俺も、君のそばにいたい。
そう、彼女に応えようとした、その瞬間だった。
ドンッ!!!!
世界が揺れた。
鼓膜を突き破るような、凄まじい爆発音。
聖樹の結界が、ガラスが割れるような甲高い悲鳴を上げた。
「……え?」
見ると、俺の農園を、リナの聖性を、ずっと守ってくれていた「聖樹」の若木。
その純白の幹に―――不吉な紫色の炎が、まとわりついていた。
「アアアアアアアアア!!!」
聖樹が、悲鳴を上げている。
清浄な空気が一瞬にして焼け焦げた匂いに変わり、結界が急速に弱まっていくのが肌で分かった。
「……な、にが……」
呆然とする俺たちの前に、ゆっくりと、影が姿を現す。
「ふふ…」
それは、数時間前に別れたばかりの、あの男だった。
「Zさん!? どうしてここに! 結界が破壊されました!襲われるかもしれません! 早く逃げないと!」
俺は混乱しながらも、馴染みの商人に警告した。
だが、男は俺の呼びかけを無視し、聖樹を焼く紫炎をうっとりと眺めていた。
「素晴らしい……実に素晴らしいサンプルが取れましたよ、アレン殿」
その声は、いつもの穏やかな商人のものではない。冷たく、残忍な響きを帯びていた。
男――Zは、ゆっくりと俺たちに向き直ると、身につけていた地味な外套を、億劫そうに脱ぎ捨てた。
バサリ、と布が落ちる。
その下に現れたのは、しがない商人の姿ではなかった。
月光を鈍く反射する、禍々しい魔力を放つ漆黒の鎧。その意匠は、かつて勇者パーティとして戦った、あの敵のものと酷似していた。
「Z、ですか。ああ、あれは仮の名でしたな」
男は、その顔に、俺が一度も見たことのない、侮蔑に満ちた笑みを浮かべた。
「我が名はザグラム。魔王陛下の研究を統括する、魔王軍幹部が一人」
「……魔王軍……幹部……?」
血の気が引いていく。
枯渇病に苦しむ魔王領の民のために薬を運ぶ、穏健派の商人。
そのすべてが、嘘だった。
「聖樹の結界、確かに強力でしたが……私の『魔炎』で焼けないほどでは、なかったようですな」
ザグラムは、まるで自分の庭を眺めるように、燃え盛る聖樹を見上げた。
彼の後ろには、ぞろぞろと、武装した魔王軍の兵士たちが姿を現し、俺とリナの逃げ場を塞ぐように、農園を包囲していた。
束の間の平穏は、あまりにも唐突に、最悪の形で終わりを告げた。
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