第五話:『二人目の常連客、商人『Z』』
聖女リナが訪れるようになってから、数週間が過ぎた。
彼女は「リナ」として、二、三日に一度は俺、アレンの庭園(もはや「農園」と呼ぶべき規模になっていた)を訪れ、聖樹のお茶を飲むのが日課となっていた。
枯渇していた生命力はすっかり回復し、今では彼女本来の明るい笑顔で、俺の畑仕事を手伝ってくれることさえある。
彼女という「聖」の存在が加わったことで、聖樹の結界はより安定し、作物はいよいよ神々しいまでの品質になっていた。
ただ一つの例外を除いて。
(……この聖魔茸、どうしたものか)
農園の隅、聖樹の結界が「魔」と拮抗するギリギリのライン。
そこには、夜空の藍色と星々の銀色を宿した「聖魔茸」が、静かに、しかし強力な魔力を放ちながら群生していた。
あまりに危険すぎる。そして、強力すぎる。
下手に市場に出せば、国やギルドが黙っていないだろう。かといって、このまま放置しておくのも……。
俺がその扱いに悩んでいた、まさにその日のことだった。
農園の入り口に、リナとはまったく対照的な人影が現れた。
リナが「光」なら、その男は「影」だった。
上等な黒い外套(がいとう)を羽織り、背は高いが痩せている。顔立ちは整っているが、爬虫類を思わせるほど冷たい目が、フードの奥から農園全体をねめつけるように観察していた。
彼の後ろには、明らかに屈強な傭兵とわかる護衛が二人、微動だにせず控えている。
「……何か御用でしょうか」
俺は鍬を握り直し、警戒しながら声をかけた。
男は、俺の警戒など意にも介さず、ゆっくりと農園に足を踏み入れた。
そして、ゴルドーの店に卸している野菜には目もくれず、真っ直ぐに「聖樹」を見上げ、次に「聖魔茸」が生えている一角で足を止めた。
「……素晴らしい」
冷たい声だったが、そこには抑えきれないほどの興奮が滲んでいた。
「噂の『奇跡の野菜』など、この農園の価値の前では、ただの『おまけ』に過ぎなかったとは」
男は振り返り、俺に向かって初めて、その顔をはっきりと見せた。
「初めまして、『庭師』アレン殿。私は『Z』と申します。王都と……そして魔王領をも股にかける、しがない商人です」
「……魔王領?」
思わぬ言葉に、俺は眉をひそめた。
「ええ。戦争中とはいえ、モノの行き来は止められませんからな」
Zと名乗る男は、薄い唇で笑みを作った。だが、その目は一切笑っていない。
「あなたが、この土地の『呪い』を解き、この『聖樹』を育てたと聞きました。そして……」
彼は、聖魔茸を指差した。
「これを作った」
「!」
(こいつ、聖魔茸の価値が分かるのか!?)
俺の驚きを読み取ったように、Zは続けた。
「ええ、分かりますとも。本来ならば触れるだけで肉体を腐らせる『魔界の胞子』。それが、この聖樹の力と、あなたの不可解なスキルによって中和され、純粋な『魔力』の結晶として昇華されている。……違いますかな?」
すべて、見抜かれていた。
この男、ただの商人ではない。
Zは護衛に目配せをした。護衛の一人が、重々しい音を立てて、ジュラルミンケースのような箱を俺の前に置く。
パカリ、と蓋が開けられる。
中には、俺がこれまでの人生で見たこともないほどの金貨が、眩い光を放ちながらぎっしりと詰まっていた。
「法外な価格、とお思いでしょう。ですが、これでも安すぎる」
Zは言った。
「その『聖魔茸』、私に独占契約で卸していただきたい。この金貨の箱、毎月お支払いしましょう」
毎月。この金貨を。
並の人間なら、いや、小国の王族ですら即座に飛びつくであろう条件。
だが、俺は追放されたあの日から、金銭で動くことに虚しさを覚えていた。俺が欲しいのは、金ではなく、平穏なスローライフだ。
「……お断りします」
俺の即答に、Zは初めて、その冷たい目をわずかに見開いた。
「……ほう。理由をお聞かせ願えますかな?」
「金には興味がない。それに、これは危険すぎる。俺の手で管理できるうちはいいが、外に出して悪用されたら、手に負えない」
俺がそう言うと、Zは数秒、何かを考えるように黙り込んだ。
そして、先ほどまでの商人の顔を消し、ふっと、まるで疲れた学者のような、憂いを帯びた表情を見せた。
「……悪用、ですか。その懸念はごもっともです」
Zはため息をついた。
「では、正直にお話ししましょう。……アレン殿、あなたは『魔力枯渇病』という病をご存知かな?」
(……枯渇病?)
リナの「聖力枯渇症」と、どこか似た響きだった。
「魔王領では今、原因不明の病が流行しています。生まれつき魔力を持つ魔族が、その魔力を失い、衰弱して死んでいく病です。まるで……花が水を与えられずに枯れていくように」
Zの言葉には、奇妙な説得力があった。
「私は、彼らを救う『薬』を探している。だが、人間の作るポーションは、魔族の体質には合わない。そんな時、あなたの噂を、そしてこの『聖魔茸』の気配を嗅ぎつけた」
Zは、聖魔茸を愛おしむような目で見つめた。
「これに含まれる純粋な魔力……これこそが、彼らにとって唯一の『薬』になるかもしれないのです。もちろん、金銭はお支払いします。ですが、これは取引ではない。人道的な『救済』なのです」
(……救われる命、か)
その言葉が、俺の胸に重く突き刺さった。
勇者パーティにいた頃、俺は自分のスキルを隠し、結果的に誰も救えなかった。いや、救おうとしなかった。
目の前で仲間が傷ついても、俺はポーションの原料を栽培していることを隠し、後方で荷物持ちをしているだけだった。
(もし、この聖魔茸が、本当に誰かの命を救えるなら……)
リナが、俺の聖樹のお茶で救われたように。
この聖魔茸も、誰かの「薬」になるのかもしれない。
「……分かりました」
俺は頷いていた。
「ただし、条件があります。独占契約は結びません。俺が『薬』として必要だと判断した分だけ、少量ずつお渡しします。そして、決して軍事利用や、悪用はしないと誓ってください」
Zは、俺の言葉に深く、深く頷いた。
「……感謝いたします、アレン殿。あなたは、魔族にとっての『救世主』だ」
その顔には、先ほどの冷徹さはなく、ただ安堵の色だけが浮かんでいた。
(……ように、俺には見えた)
Zは金貨の箱を(俺は固辞したが、「研究費として受け取ってほしい」と押し付けられた)置いていき、「また薬をいただきに参ります」と言い残して去っていった。
こうして、聖女リナに続き、魔王領と繋がる謎の商人Zという、二人目の「常連客」が俺の農園にできた。
◇
数日後。
再び聖魔茸を受け取りに来たZは、世間話でもするように、こんな噂を口にした。
「そういえば、アレン殿。あなたを追放したという『勇者ガイウス』のパーティ。噂になっていますぞ」
「……勇者パーティが?」
「ええ」
Zは、値踏みするように俺の顔を見ながら、楽しそうに言った。
「なんでも、高難易度のダンジョンに挑んだはいいが、回復薬(ポーション)が途中で底をつき、壊滅寸前で逃げ帰ったとか。エララ嬢は高位魔法の詠唱に失敗して大火傷、ドルグ殿は腕を一本失いかけた、と」
「…………」
俺は何も答えられなかった。
(当然だ。俺が供給していた、超高純度の薬草がなくなったんだから)
「どうも、あのパーティ。あなたという『生命線』を失ってから、何もかもが上手くいっていないようですな」
Zは、庭園の聖樹を見上げ、不敵に笑った。
「これは素晴らしい『研究対象』だ。聖樹も、そのキノコも、そして……アレン殿、あなた自身も」
その言葉の真意を、俺が知るのは、まだ先のことである。
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