第四話:『最初の常連客、聖女リナ』
聖樹の若木が根付いてから、俺、アレンの庭園(と呼ぶにはまだ粗末だが)は、その様相を一変させていた。
聖樹が張り続ける清浄な結界は、もはや「呪われた土地」の面影を完全に消し去り、その結界に守られるように、俺の畑は驚異的な速度で作物を実らせていた。
「ゴルドーさん、今日も頼みます」
「おお、アレン坊主! 待ってたぜ!」
王都の市場で、俺の野菜は今や「奇跡の野菜」として、ちょっとした騒ぎになっていた。
八百屋のゴルドーは、俺が持っていく野菜(今やカブだけでなく、瑞々しいニンジンや、宝石のように輝くトマトも含まれる)を、貴族や富裕層相手に高値で転売し、大儲けしているようだった。
「坊主の野菜を食ってから、長年患ってた腰痛が消えちまった!」
「うちの婆さんが、寝たきりだったのに歩けるようになったんだ!」
ゴルドーの店には、そんな感謝の声が毎日寄せられるという。
俺の【庭園管理】スキルと、聖樹の力が宿った土壌で育った野菜は、単に美味いだけでなく、食べた者の身体を内側から活性化させ、治癒力を高める効果があったのだ。
噂は噂を呼び、「南区の外れの荒れ地(元・呪われた土地)に、ゴッドハンドを持つ庭師がいる」という、少々大袈裟な話まで広まり始めていた。
(スローライフのはずが、少し目立ちすぎているな……)
稼いだ金で小屋の修理はほぼ終わり、生活は比べ物にならないほど豊かになった。
だが、この小さな平穏が、いつまで続くのか。
追放された時の、あの勇者ガイウスの侮蔑に満ちた目を思い出すと、一抹の不安がよぎる。
そんなある日の午後だった。
俺が聖樹の世話――といっても、葉の様子を見るくらいだが――をしていると、庭園の入り口(と決めた場所)に、人影が立った。
「……どなたですか?」
そこに立っていたのは、深いフードを目深にかぶり、旅人のような質素なマントを羽織った一人の女性だった。
だが、ゴルドーのような商人や、野菜を買いに来る近隣の住人とは、明らかに纏う空気が違う。
マントの裾から覗く服地は、質素に見えて、俺などが見たこともないほど上質な物だと分かった。
そして何より、彼女はひどく憔悴(しょうすい)していた。
フードの奥から覗く顔色は、病人のように青白く、立っているのがやっとというように、か細く震えている。
「……あの」
かろうじて絞り出した声は、鈴が鳴るように美しかったが、ひどく弱々しかった。
「ここの……ここの作物を食べれば、どんな病も治ると……噂を聞いて……」
「病気、ですか」
俺は鍬を置き、彼女に向き合った。
彼女は、俺の顔を見ると、ビクリと肩を震わせ、何かを恐れるように一歩後ずさった。人に慣れていないのか、あるいは、極度に警戒しているのか。
「すみません、驚かせるつもりは。どうぞ、そこに座ってください」
俺が急ごしらえで作った、聖樹の木陰にある丸太のベンチを指差す。
彼女は数秒ためらった後、こくりと頷き、ゆっくりとベンチに腰を下ろした。
(……ひどい状態だ)
近づいて分かった。
【庭園管理】スキルは、植物の生命力に敏感だ。その応用で、俺は人間の「生命力」も、ぼんやりとだが感じ取ることができる。
彼女から感じる「力」は、まるで枯れ井戸の底のようだ。
病気、というより、生命力そのものが、何かによって根こそぎ吸い出され、枯渇しきっている。
「医者や、教会の神官には?」
「……ダメ、でした」
彼女は俯いたまま、か細く答えた。
「どんな……どんな治癒魔法も、効かないのです。まるで、乾いた砂に水を撒くように……すべてが消えてしまう」
治癒魔法が効かない。
それは、並大抵のことではない。よほどの呪いか、あるいは……。
俺は黙って小屋に戻り、湯を沸かした。
そして、聖樹の若木にそっと近づく。
「すまない、少しだけ葉を分けてくれないか」
聖樹が「いいよ」と答えるように、風で枝を揺らす。
俺は、最も青々と茂った葉を数枚だけ摘み取り、それを簡素な木のコップに入れ、湯を注いだ。
聖樹の葉が湯に触れた瞬間、ふわり、と。
この庭園に満ちているものと寸分違わぬ、清浄極まりない香りが立ち上った。
ただの白湯が、淡い黄金色に染まっていく。
「これを、どうぞ」
俺が差し出したコップを、彼女は恐る恐る受け取った。
フードの奥で、美しい唇が震えている。
彼女は、その香りを一口吸い込み、小さく目を見開くと、意を決したように、ゆっくりと「聖樹のお茶」を口に含んだ。
次の瞬間。
彼女の身体が、ピクリと硬直した。
「あ……」
彼女の青白い頬に、すうっと。
血の気が戻っていくのが、はっきりと見えた。
まるで、凍てついた大地に、春の陽光が差し込んだかのように。
「あたたかい……」
コップを握りしめたまま、彼女は呟いた。
その目からは、いつの間にか大粒の涙が、後から後から溢れ出していた。
「からだの、奥が……ずっと、氷のように冷たかったのに……あたたかい……!」
彼女は、嗚咽を漏らしながら、夢中で残りのお茶を飲み干した。
そして、顔を上げた彼女の目を見て、俺は息を呑んだ。
青白い病人の顔はそこになく、涙に濡れながらも、生き生きとした力を取り戻した、聖性すら感じさせるほどの美貌があった。
「こんなことは、初めてです……!」
彼女は俺の手を掴まんばかりの勢いで言った。
「私は、ずっと……ずっと、この『枯渇』に苦しんで……もう、治らないのだと……!」
(聖力枯渇症)
神官や聖女が、自らの許容量を超える聖なる力を使った反動で陥るという、不治の病。
通常の回復魔法は「聖力」を源とするため、その聖力自体が枯渇した者には効果がない。
この女性は、聖女だ。
それも、並の聖女ではない。これほどの枯渇症に陥るということは、国を救うほどの奇跡を使った反動に違いない。
彼女は、自分がとんでもない秘密を漏らしてしまったことに気づき、慌てて口を噤んだ。
「……ごめんなさい。私、は」
「何も言わなくていいですよ」
俺は、彼女の怯えた目に、追放された日の自分を重ねていた。
「ただ、身体が冷えていただけでしょう。ここは、少し空気が澄んでますから」
俺の言葉に、彼女はハッとしたように顔を上げた。
俺が彼女の正体に気づきながらも、あえて踏み込まないでいることを察したのだろう。
彼女の目に浮かんでいた警戒が、ふっと解けていく。
「……私の名前は、リナ、と申します。ただの、リナです」
「俺はアレン。この土地の『庭師』です」
リナと名乗った彼女は、立ち上がると、聖樹の若木を見つめ、深々と頭を下げた。
「アレンさん。そして……この聖なる木。私を救ってくださって、ありがとうございます」
「いや、俺はただ、お茶を入れただけだ」
「いいえ。……あの、お願いがあります」
リナは、祈るように両手を胸の前で組んだ。
「どうか、また……ここに来ても、いいでしょうか。この場所だけが……このお茶だけが、私を生かしてくれます」
その姿は、神に祈りを捧げる「聖女」ではなく、ただ救いを求める一人の「少女」のものだった。
「もちろんだ。ここは、俺の庭だから」
リナは、心の底から安堵したように、泣き笑いのような笑顔を見せた。
これが、俺の庭園における、一人目の「常連客」との出会いだった。
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