第6話 解放

「ほう。賢いな。いるべき時にいるべき場所に自分で戻るとは。暴走しているわけでもない。きちんと祈るものの気持ちに応えようとする、立派な神というわけだ。それがよくないとも言えるのだが」


 小野瀬さんは、興味深そうにコシロサマを見ており、尚くんも心奪われるかのように注視していたが、他のみんなは呆然としてしまっていた。


「まじか」と呟いた米村さんが、こっそり戻したということはないはずだ。部屋を訪問して、仏壇で手を合わせてときは、確かにコシロサマはなかったのだ。それから誰も席を立ってはいなかったはずだ。尚くんが、皆に見つからずに静かに置いてきたということなら可能性はあるだろうか。たぶん無理だろう。


「帰ってきたの」トネさんの目が潤んでいた。


「さっきから、いたよ。描いてたんだ」


 尚くんがスケッチブックを開く。


「ちょうどよかった。尚にお願いしようと思っていたんだ。見せてみなさい」


 小野瀬さんはそれを見ると、「ふうむ」と言いながら、机に広げた。


「しっかり最後まで描いてみなさい」


「ほんと」


 尚くんはうれしそうに、鉛筆で、絵に線を足していく。

 描かれているものはすぐにわかった。

 そこには、コシロサマのスケッチらしき絵と、首の長い女の姿が重なって描かれる。

 しばらくの間、尚くんの鉛筆が、紙を滑る音だけが響いていた。

 線が増えていきスケッチの精度が増していくと、女の顔は、やはり亜沙美さんだとわかった。その長い首には鱗が描かれていく。

 トネさんが不快に感じているのではないかと思ったが、彼女も、スケッチから目を離せないようだ。

 誰も言葉を発さないまま、鉛筆のその音が止まる。

 その刹那、部屋の空気がわずかに軋んだ。

 耳に、きいんと耳鳴りが走る。まるで、いつもの金縛りのときのようだ。

 コップの水面がふっと震え、光が折れた。

 部屋の奥に、長い首を垂れた影が、そっと立っていた。

 それを見たトネさんが、肩を震わせる。


「あさみ……なんでそんな姿に。それじゃあまるで」


 トネさんは立ち上がると、ゆっくりと、それに向かって近づいていった。


「ごめん。亜沙美。ごめん」


 その首が、トネさんに向かって伸びてきて、亜沙美さんの顔が、トネさんの肩に優しく乗った。


「トネさん、わかったでしょう。あなたのやっていることが何をもたらしているか」


 小野瀬さんの声に、トネさんは「ええ、ええ」と答え、亜沙美さんの顔に語りかける。


「もういいの。わたしが、わたしのせいだったんだね。そんな姿になって、怨みなんて晴らさなくてもいいの。もういいの。あなたが安らかに眠ってくれればそれでいいの」


 あれ、わたしのほうが、なんだか涙が出てきた。ぐすっと鼻水がたれた。

 視界の端で、尚くんの絵が揺れた。いや、スケッチではない、歪んでいるのは、この世界の方だ。

 トネさんの肩に乗った亜沙美さんの顔は、くるっと回り、わたしを見た。

 目が合った。

 わたしは、すっと血の気が引いて、目の前が暗くなり、意識が遠のいていった。


 気がつくと、わたしは、トネさんの部屋で、二つに折りたたんだ座布団を頭の下にして寝ていた。尚くんが、わたしの顔を覗き込んでいる。


「おい、大丈夫か」と声をかけてくれたのは、米村さんか。


「ん、わたしどうしたの?」上半身を起こし、頭を振った。


 トネさんが、尚くんの肩ごしから心配そうにわたしを覗き込み、「お水よ」とコップを差し出してくれた。一瞬身構えたが、トネさんの肩には、もう、亜沙美さんの霊は見えなかった。水を一杯いただいたら、気分がすっきりとする。


「すまんな。氷川さんがこんなに同調してしまうとは思わなかった。もともと見る方の才があるのかもしれんな」小野瀬さんは頭をさげた。

 

 さっきの現象は、つまりトネさんを説得するために、トネさんに亜沙美さんの霊を見せたのだ。少しひどいことをするとはこのことだったのだ。そして、予想外にわたしもそれが見えてしまった。


「トネさんに少し言い過ぎだったと思いますよ」わたしは、涙をぐっとこらえて小野瀬さんを睨む。


「いいのよ。小野瀬さんの言っていることは間違っていなかったし、自分の心を整理できました」


 トネさんが、少しだけ優しい顔になっている。


「ごめんなさい。トネさん体つらいのに、わたしが介抱されちゃって。わたし大丈夫だから休んでください」


「大丈夫よ。なんだか話をしていたら楽になってね」


 よっこいしょと、トネさんは座椅子に腰掛ける。


「皆さんが来た日の翌日の夜、亜沙美を見たと言ったわね。夢だと思っていたんだけど。この仏壇から飛び出して来たのよ。血まみれで、蛇のような姿で、わたしにしがみついて来た。起きたら、目の上には殴られたみたいな痣ができていた。夢だと思いたかったけど、違った。

 実際わたしはコシロサマに、自分の気持ちをぶつけていて、それは小野瀬さんのいうとおりだと思う。自分でわかってた。氷川さんのことを見ていても、亜沙美が生きていたらこんなふうに生活していたのかと思うと辛かった。辛かったのよ。どんどんそういう気持ちがふくらんでて、もしかして亜沙美はそれが嫌だったのかなって。それで、亜沙美はわたしを襲って、コシロサマを連れて行ったのかと思ったのよね」

 

「あ、それは」


 言いかけた米村さんを遮り、小野瀬さんは「こうも考えられますよ」と言う。


「わたしは、このままだと、亜沙美さんもっと悪いものになってしまうから止めに来たんですが。でも――もしかすると亜沙美さんは自ら終わらせようとしたのかもしれませんね。わたしらが来たのは、余計なお世話だったのかもしれませんね」


「いえ、そんなことはないと思います。おかげで、きちんと自分のしていたことがわかった。私は、亜沙美のことを、ちゃんと送らなければならなかった」


 コシロサマは米村さんが盗んだもので、どうやってその話を持ち出すのかと思ったが、小野瀬さんは、米村さんが正直に話そうとするのを遮った。米村さんの悪事を利用したようなものだが、小野瀬さんは、トネさんの想像に合わせ、トネさんの納得しやすいストーリーを提示してしまった。ある意味ではこれは嘘だが、トネさんにとって必要な嘘なのだと、そう思う。米村さんもそれがわかったのか黙っているのだろう。


「もう、この仏壇も処分したほうがいいのかしら」


「そんなことありません。ただ、亜沙美さんとの楽しい思い出を思い出して、トネさんが前を向くだけでいいんですよ。いま、トネさん。そういう気持ちになってませんか」


 小野瀬さんの、トネさんに向ける表情は優しくなっていた。


「トネさん、亜沙美さんはいずれ消えます。それまで、ただ冥福を祈ってあげてください。亜沙美さんを安らかにしてあげることだけを考えてください。仏壇の位置も変えましょう。亜沙美さんのいた部屋にわざと向けていたでしょう。」


 あの、と尚くんが小さく声を出す。


「少しだけ優しくなってる。顔」


 一瞬意味を捉えかねたが、尚くんにだけどこかに見えている亜沙美さんのことを言っているのだと気付く。トネさんも同じことに気付いたのだろう。顔をくしゃっとさせ、目をつぶる。


「亜沙美、わたしのせいで、あんな姿になったんやなあ。すまんかった。すまんかったなあ」


 わたしたちは、しばらくその様子を見守っていたが、トネさんはようやく顔を上げた。


「小野瀬さんありがとうございます。お話のとおり、仏壇で、きちんと亜沙美が穏やかに消えるよう祈りたいと思います。ただ」


 言葉を区切り、顔をしかめる。


「今は亜沙美のことだけを考えようとしているけど、たぶんこれからも澤田はどうしても許せないと思う。手紙も出したけど、結局、あいつは、わたしにも、亜沙美の両親にも、全く謝ってもいないのよ」


「その気持ちは当然です。でも、亜沙美さんの供養と、澤田さんへの怨みは分けなければいけないとはわかったと思います。そうですね。コシロサマをお仏壇とは別な場所に祀りましょう。神様は神様として祀ってあげます。お仏壇ではきちんと亜沙美さんの成仏を祈って、コシロサマは守り神として別にお祈りする。地元のやり方があるわけですよね。それで澤田さんへの罰でもなんでも願掛けすればいいんです。大事なのは、そこに亜沙美さんも周りの方も巻き込まないことですよ」


 それから、少しばかり机を囲んで歓談した。


「今回のことは米村さんもすごく心配してくれまして、澤田さんのことも米村さんが調べてくれたんですよ」


「そうだったの。ちょっとあなたのこと誤解してたかも」


「まあいいっすよ。それより、澤田卓二に電話したら、あなたの手紙は、かなり効いてたみたいなんです。毎晩、亜沙美さんの霊がでるんだってさ。ちゃんと罰は受けてるんだよ」


「ふふ、そうなのね。知らなかった」


 泣き笑いになるトネさん。


「でもこれからどうなるんだろうな。澤田んとこに、もう出なくなるんだとすると、ちょっと納得いかない感じもあるんだけど」


「それはわからん。トネさんとコシロサマしだいだが、亜沙美さんの霊が落ち着けば、コシロサマ単体でそこまでの祟りを成せるかどうか」


「いえ、もういいんです。わたしのせいで亜沙美が迷っていたなら申し訳なくて、コシロサマは、アパートの平和でもお祈りしますよ。もちろん、たまには、澤田卓二のことも考えてしまうかもしれませんが」


「いいじゃないですか。それでちょうどいいんですよ。亜沙美さんの霊が完全に消えるのには時間がかかると思うが、実害はなくなるはず。トネさんさえ負の感情を向けなければ、すぐに消えると思いますよ」


「あの、亜沙美さんが消えるかというのは、つまり成仏するという意味だと思うんですけれど、合ってますよね」と、わたしは小野瀬さんに確認する。


「そう考えてよいだろうな」と、小野瀬さん。


「亜沙美さんが成仏するかは時間任せで、その間は、亜沙美さんは、害はなくなるかもしれないけれど、ずっと、わたしの部屋を訪問してくるかもしれないんですよね」


「そういうことになる。御札で凌げるとは思うが……完全に消えるまでは、どうしても揺らぎが残るだろう」


 それでいい、その方がいいんだろう。でも、わたしはずっと心に引っ掛かっていたことを、今なら試せるんじゃないかと思った。だから、勇気を出して、皆に宣言するのだ。


「わたし、やっぱり亜沙美さんのために、やってみたいことがあるんです。もし可能ならなんですけれど……」



→明日、完結

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