第7話 送別

 深夜、午前一時が迫る。

 わたしの住む三〇三号室には、皆が揃っていた。小野瀬さん、叔父さん、米村さん。

 尚くんは、さすがにこの時間に起こすわけにはいかず、今は叔父の家で寝ている。

 小野瀬さんは、尚くんに今回の件の結末を近くでしっかり見せておきたかったようだが、一度、尚くんの母親に確認したところ、流石に深夜に付き合わせるのはなしとなったそうだ。

 トネさんは、自分の部屋で、仏壇の前に座っているはずで、先ほど小野瀬さんが様子を見に行っていた。

 こんな遅い時間だが、皆、眠い顔もせずに集まってきた。

 もうすぐ、亜沙美さんの訪問の時間が来る。


 わたしの提案を了承した小野瀬さんは、全て段取りを整えてくれた。

 わたしが以前、亜沙美さんが来たら扉を開けてあげてはだめかと聞いた時、小野瀬さんは厳しく止めた。

 だが、わたしは、トネさんの部屋で、改めて同じことを提案した。

 トネさんが、怨みを忘れて、亜沙美さんの解放を純粋に望んでいるなら、亜沙美さんを救うこともできるのではないだろうか。そう思ったからだった。


「やってみましょうか。今ならやる価値があります。氷川さんにとっても、トネさんにとっても、それが望ましいと思います。トネさんが認めてくれれば、という条件つきですが」


 小野瀬さんは、そう言って了承してくれたのだった。

 

 今、廊下には、道が引かれている。

 小野瀬さんは、三〇二号室から三〇三号室に向けて道を引くと言って、いくつかの仕掛けを施した。

 御札を廊下の床に並べて貼って、道路の白線のようにしている。

 中央には、尚くんが描いた鳥居のマークが、3つ、間隔を空けて置かれていた。

 その準備の様子を、米村さんが熱心にハンドカメラで撮影していた。

 これらは、亜沙美さんの霊に、ここが正しい通路だと認識させるためであるらしい。霊にはこれらが、暗闇の中の灯火のように見えるのだという。

 小野瀬さんは、「霊になったことはないから本当のことはわからんのだが、そういう風に考えている流派や専門家は多い。霊の世界を体験したという知り合いもいるが、信じるかどうかは、半々といったところか」と、笑って言った。

 わたしの部屋には、玄関より先に亜沙美さんが進まないように護符も貼られる。また、玄関と台所の間には、鈴のついた赤い糸が横に張られ、通るたびに、かがまざるを得なかった。


「危険がないと断言はできないから、気をつけるに越したことはない。怖いのは、亜沙美さんというよりも、コシロサマの蛇妖の一面が出たときだな。亜沙美さんに擬態して、部屋に侵入して、ターゲットに害をなす。そのようなものになっていることが怖い」


 そう言われると、ちょっと緊張する。これからやろうとしていることは、わたしの安全を確保するだけならば、本来は必要のないことなのだ。小野瀬さんからも、亜沙美さんに同情しすぎない、近づきすぎないように注意されていた。

 それでも、小野瀬さんは手伝ってくれると言ってくれた。だから、ある程度、公算があるのだと信じられたのだ。


 これから行うことは、ただの自己満足なのかもしれない。すでに亡くなった亜沙美さんは、わたしたちの行為に今更感謝するわけでもないし、わたしが何もしなくても、薄らいていく存在なのだろう。

 それでも、死してなお同じことを繰り返す亜沙美さんを解放してあげたかった。それは、わたしの安全を確実にすることにも繋がるし、トネさんをほんとうに解放することに繋がるのだ。


 わたしはよほど緊張した表情をしていたのだろう。小野瀬さんは、落ち着いた声でわたしに声をかける。


「気をつけるというのはもちろんですが、友人宅では護符で撃退できたことを考えると、備えは十分です。わたしも後ろに控えておりますから、いざとなれば引き受けますのでそこまで緊張しなくても大丈夫ですよ」


 さあ、そろそろ時間だ。


 壁掛け時計が一時を指した。皆が緊張した面持ちだ。

 廊下の遠くでずるっという音。これは、わたしにだけ聞こえているのだろうか。尚くんがこの場にいれば、「来たよ」と教えてくれたかもしれない。

 やがて、コン、コンとノックが聞こえる。

 亜沙美さんが来たのだ。

 覗き窓を見ると、だれも見えない。でも床に這っているはずだ。いつかと同じ、白いブラウスの女性が、胸に赤い血をべっとりとつけて。

 以前と同じだ。きいいんと耳鳴りがして、視野が狭くなっていき、暗闇の中に取り残された気分。

 コン、コンと音が響く。

 わたしは落ち着いてドアノブの感触を確かめる。

 怖い。けれど、いまは自分が決めたやるべきことをやる——扉を、ゆっくり開けた。

 扉の隙間、足元に彼女がいた。

 苦痛に歪む顔で、わたしに手を伸ばす。

 わたしも、手を差し伸べた。

 その背後には、刃物を持った男の影があった。

 扉を思い切り開き、彼女の手を引き、部屋に引っ張り込んだ。

 男の影が迫ってくる。わたしは、急ぎ扉を閉め、鍵をかけた。あれは、記憶の残渣でただの影にすぎないとわかっていても、鍵をかけずにはいられなかった。

 目の前の扉を凝視するが、扉を開けようとする者はいない。自分の心臓の音だけが、この空間に響いていた。

 もう、大丈夫。

 扉から視線を切った瞬間、視界に薄いノイズが走り、部屋の輪郭が静かに揺らいだ。

 足元にいるはずの亜沙美さんがいない。

 手を握った感触が残っているのに彼女の姿が見えない。

 振り向くと、小野瀬さんも叔父も、米村さんも見えない。

 台所の様子に違和感があった。わたしの使っている食器じゃない。

 なんだろうこれは。まるで、違う部屋にいるような、別世界に取り込まれたような感覚だった。自分がどこにいるのか曖昧になる。

 いつの間にか、目の前に亜沙美さんがいた。彼女はわたしに抱きついてくる。その髪をなでる自分の手が、自分の手でないように思えた。大きい手。男の人の手だ。

 そうだ、これは亜沙美さんから見た、自分を助けてくれるべきだった男の姿だ。澤田卓二の姿だ。

 「ありがとう」、そう言って、彼女は、わたしの身体を通り抜けるようにすり抜けていく。

 すり抜けた先、後ろを振り返ると、もう彼女はいなかった。

 景色がもとに戻る。わたしの部屋だ。みんなが緊張した面持ちでわたしを見ている。

 玄関に、コシロサマが立っていることに気づいた。

 

 そうか、亜沙美さんは澤田卓二を怨んでいたわけではなかった。ただ、助けてほしかっただけなんだ。

 わたしは、今、澤田卓二の代わりに。彼女が求めた、彼の役割をこなしたということなのだろう。彼女の願ったとおりに。


「氷川さん、大丈夫ですか」


 小野瀬さんの声がした。


「あ、大丈夫です。亜沙美さん、消えたと思います。それから、今」


 コシロサマが立っていますと言おうとしたが、そこには、何もなかった。コシロサマは、トネさんの部屋にあるはずで、ここ何もないことは自然ではあるのだが。

 トネさんの方は何かあっただろうか。この時間、トネさんは、仏壇で祈っていたはず。亜沙美さんにはもう誰も怨まず休んでいいんだと、コシロサマには亜沙美さんを導いてほしいと、そう願うように、小野瀬さんから言われていた。


「終わったのかよ。結局、おれには何も見えなかったんだが。なんか映像が映っていればいいんだけどな」


 米村さんが、カメラを回しながらぼやく。


◆◆


 翌朝、暖かな日差しを感じながら、薄い冷気の残る廊下を抜け、再びトネさんの家を訪れた。

 尚くんは、部屋に入るなり、トネさんの背後に目をやり、「いるけど。もう消えそう。怖くないよ」と言ってスケッチを始めた。

 スケッチは、今までどおり、稚拙と言えるものではあったが、やはり特徴を捉えている。そこには亜沙美さんの姿があった。尚くんが、赤鉛筆で口元の線を整えた瞬間、そこにはもう恐ろしさも不気味さもなく、胸の奥に静かな暖かさが広がった。


「消えたよ。女の人、うれしそうな顔してたね」


 尚くんは、ちょっと、はにかんだ笑顔で、教えてくれた。

 

「これで、おわりましたね」


 安堵するわたしに、「油断すんなよ」と米村さん。


「トネさんが改心したって保証がないだろ」


「あら、ひどい言い草ですね。もう大丈夫ですよ。ご迷惑をおかけしたのは、本当に申し訳なかったですけども」


 米村さんに頭を下げたトネさんは、今度はわたしに向かって、頭を下げる。


「本当にごめんなさい。私のせいで……。もし、住み続けるなら、また、仲良くしてほしいわ」


「あの、一応、わたしは引っ越さないですむようにと小野瀬さんにお願いしたということもあるので、大丈夫ですよ。結局、怪我も何もなかったし、頭あげてください」


 そう言っても、頭を下げ続けるトネさん。


「まあ、しばらくは様子見です。亜沙美さんの霊は成仏したと思いますが、コシロサマの方は、ちょっと不安な点もあるんですよ。だから、たまに見に来ますよ、尚も連れてね。今度は茶菓子を持ってきますからな」


「それは楽しみ。ぜひお願いします」


 トネさんの穏やかな表情に、ほんとうに解決したんだとわたしは思った。

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