第4話 扉の中にいるもの

 まずは三〇三号室、わたしの部屋を確認する。人が一緒というだけで怖さは薄れるもので、わたしもすんなり自分の部屋に戻る気になれた。


「これが、話にあった髪の毛と血ですか。……本物でしょうか」


 小野瀬さんが見るのは扉の郵便受け。わたしが昨日の朝に怯えた髪の毛はまだそのままだった。

 などと考えていると、小野瀬さんの指示で叔父は髪の毛を写真に撮り始める。さらに追加で指示が出る。


「あとでチャック付きの袋にでも入れておいてください」


「あの、それどうするんですか」


「専門の機関に調べてもらうかもしれませんから、一応取っておきましょう」


「それって、心霊専門の調査機関があるってことですか」


 拝み屋がいるのであれば、心霊的な調査機関も存在するのだろうか。


「いえ、警察とか、分析機関ですよ」


 ――現実的な言葉に、急に日常に引き戻された気がした。たしかに普通の事件であれば、まずは警察に相談すべきなのだ。そういえば、今回も警察に言わなくてよいのだろうか。


「専門の業者ってのもなくはないが」と気になることを呟きながら、小野瀬さんはわたしの部屋の中に入って、玄関付近を見渡している。


「何か気になることありますか?」


 わたしが尋ねると、小野瀬さんは、採光窓の下端までの高さを指で見積もり、顎に手を当てた。


「ここからか。余程の高身長の男性なら届かなくもないが。女性だったんですよね。どんな感じでしたか。角度は?」


 聞かれて、あのときのことを覚えている限り詳しく説明する。下から徐々に上がってきた、採光窓を通してぼやけた顔、その赤い口を思い出し、身震いする。


「普通に考えると人間ではなさそうですね」


「やっぱり普通じゃないですよね」


「そうですね……」小野瀬さんは、少し間を置いてから、言葉を継いだ。


「……ただ、二人組なら脚立を使えば可能かもしれない。あとは棒とか人形使えばそれらしく見せられたかもしれません」


 確かにそれでわたしの見たものは説明できるかもしれない。一人が扉を引っ掻き、一人が部屋を覗くという絵を想像する。それはそれで異常すぎて怖いのだが。


「尚、どうだ?何かあるか」


 ぶんぶんと首を振る尚くん。


「盛り塩は、自分で考えたんですか」


 散らばった塩を見て、小野瀬さんがわたしに向かって聞いてくる。


「下の階の米村さんという方がアドバイスをくれて、効果はなかったみたいですが」


「効果はあったのかもしれませんよ。効くときは効くので。反発を招くこともありますが、反応をみるという意味では意味があったかと」

 

 反発を招く……不穏なことを話す小野瀬さん。やはり、素人が適当な対策を取るべきではなかったのだろうか。 


 次にわたしたちは隣の部屋の前に移動する。問題の三〇二号室へ。


「電気は通じてないんですよね」


「はい」と、高橋さんは応じる。


 小野瀬さんはチャイムのボタンを押してみるが反応しない。ドアノブに触ってみたが、鍵がかかっている。


「開けますよ」


 叔父は、鍵穴に鍵を差し込む。がちゃり、鍵が開く。

 暗い部屋に明かりが差し込む。重たいどんよりとした冷気が、部屋の中から流れ出してきた。

 部屋の中を無表情でじっと見つめる小野瀬さん。これまでの彼の穏やかな雰囲気とは違う、張り詰めた空気を感じる。

 玄関から伸びる短い廊下、その先にある扉は開いており部屋の中が見える。カーテンはレースだけ。窓から日光が差し込んでいる薄暗い部屋。人が亡くなったと聞いているせいか闇が深く感じた。この部屋の女性が亡くなって、そして、わたしのもとを夜に訪れているのかもしれない。考えると、ぶるっと寒気がした。


「爺ちゃん。ここやだ。曇ってる」


 尚くんが、小野瀬さんの後ろに隠れた。顔が真っ青だ。


「ふむ、空気が重いな」


「ですよね」と、叔父が同意する。わたしも同感だ。部屋探しのころに見たときは、こんなに嫌な雰囲気はなかったと思う。部屋の前にいるだけで、呼吸が浅くなる。


「念のためな」


 小野瀬さんが懐から取り出したのは鈴だった。鈴を鳴らしながら、何か呪文のようなものを唱える。そして二本指で挟んだ御札を軽く払うように振った。

 すると、鈴の音の余韻が消えると同時に、すっと空気が軽くなり、呼吸が楽になった。


「尚、どうだ」


 尚くんは、おそるおそる部屋を覗き込む。


「少しきれいになったと思う。今は何もいないかな」


「入ってみよう。常に慎重にだぞ。幽霊屋敷の類いは何が起こるかわからん」


 靴を脱いで、静かな足取りで部屋の中まで入っていく小野瀬さん。尚くんも後に続こうと靴を脱ぎだす。

 今、幽霊屋敷と言ってたよね。どうしようか。部屋に踏み込むことをためらう。

 玄関の扉に触れると、金属扉の冷たさは、わたしを拒絶するかのように感じられた。


「あの、わたしらはどうすれば」


 叔父が小野瀬さんに判断を仰いでくれた。いかにも入りたくないという雰囲気で。


「高橋さんは大家なんだから来てもらわなきゃ。氷川さんは入らないで待ってなさい」


 叔父は「そうだよねえ」と声を漏らしながら、渋々と靴を脱いで玄関に置く。

 わたしは玄関から皆の動きを見守る。

 玄関からでは、部屋の一部しか視界に入らないが、家具がなく閑散とした雰囲気であることはうかがえた。

 小野瀬さんは足音を立てずに部屋の中をぐるっと回っていたが、ふと立ち止まって、さきほどと同じように鈴を鳴らして、呪文のような言葉を唱えているのが見えた。

 尚くんは部屋の入り口付近で、玄関のわたしからも見える場所に立って、部屋の中を見渡していた。尚くんの視線がある方向に向かって止まった。わたしの部屋の反対側、三〇一号室側の方向だ。何か見えているのだろうか。

 小野瀬さんは、部屋を一通り見て回ると、尚くんに声をかける。


「どうだ」


「ここじゃない。となりかも」


「わかった。一旦出るか」


 小野瀬さんが提案してくれて叔父がほっとしている。尚くんが小野瀬さんの後をくっ付いて歩き、叔父が早足に追いかける。叔父は恰幅はよいが小心者なのだ。

 叔父が部屋を出る直前だ。何かがその後ろに動いた気がした。見ちゃいけない、直感がそう告げていたのに、わたしは確認してしまう。

 背筋がぞわりとした。部屋の空気が、急に冷たくなり、肌の表面に細かい鳥肌が立つ。思わず両腕をさする。

 闇が深まっていた。台所に白い影がうずくまっている。それは腹這いになってこちらを見上げていた。苦悶に歪んだ目と、わたしの目があった。

 亜沙美さんだ、そう思った。亜沙美さんは、ここで刺されて、廊下を逃げて、隣の部屋に助けを。

 体が硬直し、全身に悪寒が走る。それは、そのまま、這うように、ぬるりと滑るように外に向かってきた。

 

「あ」


 やばいと思った途端、きぃと蝶番の音がわずかに鳴り、目の前で扉が勢いよく閉じた。小野瀬さんが扉を押さえていた。


「大丈夫ですか」


 今のは船戸亜沙美さんなのか。心臓がどくどく鳴る。なんで今。ここが亡くなった現場だからか。


「い、いま、今の見ましたか?見えてたでしょう。女の人がするするって滑ってきて」


「残念ながら見えてはいませんが、よくないものがいたのはわかります。あなたの反応から、まずいと思って閉めたのですが」


「いたよ、女の人。廊下をするするって動いて、蛇みたいに」


「ちょっとちょっとみんな怖いこと言わないでくださいよ」叔父は、恐る恐るといった感じで部屋に鍵をかける。


「氷川さんは、少し船戸亜沙美さんのことは考えない方にした方がいい。あなたには関係ない人だと、しっかり線を引きなさい。近寄りすぎている」


「近寄りすぎ、ですか?」


「同情していますよね。意識するほど見たくないものが見えてしまうと言うことはあります。踏み込まないことです。あちらから境界を超えてくるのを、迎え入れてしまうことになる」


 確かにわたしは船戸亜沙美さんに同情していたかもしれない。意識するからよくないと言われても、意識してしまっている今となっては、意識しないなんて無理というものだ。


「とりあえずの対処ということで」と言って、小野瀬さんは扉に御札を貼る。


「四隅に順に、最後に中央」と尚くんに説明しながら、御札を一枚一枚を丁寧に、念をこめるように貼り、指二本で縦横に格子の線を引くような動作を繰り返し、最後に真ん中の御札に指先で触れながら何か呟いている。


「本格的な祓いができるまで封じてしまいたいんだが、さて、どうなるかな」


 これで夜中に亜沙美さんの霊が出現しても部屋から出て来れなくなったかもしれないということか。部屋で刺された亜沙美さんは、今度は、部屋から逃げることもできずに、逃げ場を失ってしまう。そう思うと、胸の奥がずしりと重くなった。


「まずはこれから鈴木トネさんに会って話を聞いてみたい。お二人も来ていただけますか」

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