第3話 三〇二号室の記憶


「五年前だよ。被害者の女性は、深夜に帰宅した際、空き巣に鉢合わせしてしまったんだ。部屋の中で刺されて、廊下を這って隣の部屋に助けを求めに行った。そこが彼氏の部屋だったんだけど、ひどい話で、彼氏は気づいてたのに助けなかった。廊下に刃物持った男が見えて、扉を閉めたらしい。それで、彼女はそのまま亡くなった。せめて救急車を呼べば助かったかもしれない。犯人は近所のアパートの住人で、空き巣でもあり、ストーカーでもあったんだ。


「被害者の方、どんな方だったんでしょうか」


「それなんだけど、言っていいもんかなあ。最近は個人情報とか厳しいんだよ。ご遺族の方もいるわけだし」


「この事件、被害者名が報道に出ているからな。調べようと思えばすぐわかる。うちの弟子が送ってきてくれたんだ。これだろう」


 小野瀬さんは慣れた手付きでスマートフォンをいじって、叔父に画面を見せる。

 叔父は「うん、そうですね……それです……仕方ないか」と諦めた様子だった。


 叔父の話によれば、事件は五年前に起こった。被害者の名前は船戸亜沙美さん。わたしと同じ年頃の大学生。

 その情報をもとにスマートフォンで検索するとすぐに出てきた。

 亡くなった船戸亜沙美さんは当時二十歳の大学二年生。市内のアパートの三階で、深夜一時頃に帰宅、ストーカーもしていた空き巣に鉢合わせしてしまい刺殺される。犯人は捕まっていて、余罪もあり無期懲役となった。

 情報としてはそれだけ。

 わたしの先輩だったというその女性が、わたしが見ている霊の正体だったとして、なぜわたしのもとを訪れるのか。同じ年で、同じ大学だから? それとも隣の部屋だから――。いや、叔父の話だと、隣の部屋に這って助けを求めに行ったと。


「船戸亜沙美さんが、隣の部屋に助けを求めて現れているということなんでしょうか」


 わたしが自身なさげに言うと、小野瀬さんは、腕を組んで、目を細めて考えている。


「部屋の住人にいまだに助けを求めているとも考えられるが、助けてくれなかった隣室の住人を恨んでいるとも考えられますよね。情報がまだ足りない。船戸さんのことに詳しい人はいないのかな」


 叔父は、ちらっと窓から見える向かいのアパートに視線を向ける。


「いることはいる……トネさんに聞くのがほんとはいいんだけど、どうかなあ。怒るかもしれないよ」


「三〇一号室の住人の方ですよね。鈴木トネさんと言ったか」


「トネさんは亜沙美ちゃんの親戚なんだ。たぶんおれよりもトネさんに聞いた方が、亜沙美ちゃんのことはよくわかると思う。ただ、彼女が化けて出るなんて話をしたらほんとに怒るからね」


 だからだ。トネさんに部屋におかしなことがないか聞いたら冷たい態度だったのは。きっと仲が良かったのだろう。そんな子が亡くなった話なんてしたくないよね。


「ところで船戸亜沙美さんの写真をお持ちではないですか」


「うちはないなあ。住人が入るとき、写真まで求めてないしね。それもトネさんに聞くのがいいとは思う」


「鈴木トネさんには、お話を伺わないといけないですね。今日は部屋におりますかね」


「たしか昼にフラワーアレンジメントの講師してるから、それが終わってれば部屋にいると思うが」


「夕飯前で迷惑かもしれませんが、早い方がいいですね。あとで行ってみましょう。それから高橋さん、これまでの住人の苦情とか体験談を知っていたら教えてくれますか」


「もちろん。お話しますよ」


 そうして小野瀬さんが高橋さんから聞き取ったのは、高橋さんがこれまでに住人からの訴えで聞いた怪奇現象についてだった。


「三〇二号室ではね、玄関に女が立っているのを見た、なんて話もある。目が合うと、まるで大きな悲鳴を上げたような表情で消えるんだって。声はないんだけど」


 叔父の声が淡々としているぶん、その内容が妙に生々しく響く。


「それから事件の起こった午前一時になると、血だらけの女が這っているって話がある。それで、台所の廊下が見えないように扉を閉めておくと、扉の向こうでバタバタと誰かが走ったり這っている音がするとか、扉の隙間から女が居室の中を覗いているという話もあった」


 午前一時ころ……わたしの体験の時間帯と一致している。三〇二号室から、毎晩、わたしの部屋の前まで移動してくるのだと想像すると、頭から背中まで冷たいものに触れたようにぞわっとする感覚を覚えた。


「それで、だんだんと夜中だけでなくて、いつも誰かの視線を感じたり妙な気配を感じてしまうようになって、長くとも半年ほどで出ていってしまうみたいなんだ。それから、三〇三号室なんだけど……」


 叔父は、続けて、これまでの三〇三号室の住人たちの話をしてくれた。

 三〇三号室では、わたしと似た体験が多い。夜中、扉を叩く音がする。女性が助けを求める声が聞こえる。玄関の曇り窓から女性が覗いているとか、血や髪の毛が玄関にくっついているというわたしと同じような訴えもあったと聞いたときは、背中に冷たいものが這い上がった。


「そんなに、怖い体験している人がいたんですか」


 わたしが言うと、叔父は、申し訳なさそうに俯き、歯切れが悪く弁解する。


「悪かった。……部屋を埋めたかった気持ちがあるのは否定できない。ただ、三〇二号室ならまだしも三〇三号室に関しては気のせい、というか精神的な問題だと思ってたんだ」


 しかし、叔父はわたしに三〇二号室と三〇三号室を選ばせようとしていたことは覚えている。何なら三〇二号室に住まわせても構わないと思っていたのだ。


「ちなみに前の住人はどれくらい住まれていたんですか」


 小野瀬さんの問いに、叔父は首をかしげる。


「前は半年くらいかな」


 叔父は頭をかきながら言う。


「去年の春に入居して、夏過ぎに出てっちゃってね。両方の部屋とも示し合わせて出て行ったんだ。夜中に、同じような音が聞こえるって言ってた。それから祥子ちゃんと吉田さんが半年ぶりかな。若い女の子は、亜沙美ちゃん以来だよ」


「それで、高橋さんは本当のところ、幽霊の仕業と思いますか」


 真剣な顔で問われ、叔父は苦い顔になる。わたしにとっても答えにくい質問だ。


「霊なんて信じたくはないけどね、ここまで続くとそうも言ってられないからお祓いにも頼りましたよ。前回は小野瀬さんのお弟子さんの篠山さん、その前にも事件から一年くらいのころに一度だけお坊さんに供養もしてもらってるんですけど」


「ほう。結果はどうでした」


 興味深そうに先を促す小野瀬さん。


「そのときも一応は治まったんだけど、しばらくしたら住人から同じような苦情が出てきちゃいまして。それから、結局人が居つかなくて、それで去年の住人がいなくなった後に、十二月かな、拝み屋を探して小野瀬さんに紹介してもらった篠山さんに依頼したんだ。それで、一旦は落ち着いたのに、今回また始まってしまった」


「これまで出て行った人たちが、苦情を言い始めた時期や内容、年齢や性別をまとめることはできますか」


「わかる範囲ではまとめてみます。日記とか見直さないといけないので、少し時間ください」


「構いません。まとめてみてください。それで今日はですね、まずは氷川さんの部屋と事件のあった三〇二号室も見せてもらいたい。それからできれば鈴木トネさんの話を聞いておきたいです」


「あの、わたしも同行したいんですけど、いいですよね」


「構いませんよ。もう一つ高橋さんに聞いておきたいんだが、今の住人からは、何にも苦情はないんですか」


「祥子ちゃん以外からは今はないです。あ、すぐに出ていってしまった吉田さんは、詳しくは話してくれなかったしこちらも聞かなかったですけど、何かあったんだと思います。あとは下の階の米村さんなんだけど、三〇三号室の前の住人の相談にのって、いろいろと質問してきて。彼はけっこう事件のこと詳しいかもしれませんね」


 たしかに吉田さんにも、もっと詳しく聞いておきたい。米村さんには、できればあまり頼りたくない感じがするが、わたしの偏見かもしれないし、やはり話は聞いたほうがよいのだろう。

 そして三〇一号室のトネさん。前に話した時は、冷たい態度をとられたのだが、本人は何も心霊体験はないのだろうか。


「トネさんからは、幽霊を見たとかそういう話はないんですよね」


「そういう話は聞いてないけどね。同じ三階なのにね。トネさんが親戚だから化けて出ないのかなあ。線香でもあげたいと言えば、話聞かせてくれるかもしれないけれど、亜沙美ちゃんが化けて出るって話は絶対怒ると思うよ」


「お線香って、仏壇か何かあるんですか」


「そうだよ。仏壇に手を合わせるのはトネさん毎日の日課なんだ。俺も、お盆や命日にはトネさんの部屋に手を合わせに行くんだけど、少し変わった仏壇なんだよな」


 変わった仏壇という表現が気にかかった。宗教関係で何か特殊なことがあるのだろうか。あとで実際に見て、仏壇そのものではなく、仏壇の〝あるもの〟が問題になると知ることになるのだったが。

 トネさんとは、わたしも顔を合わせているし、ぜひ話を聞かせてもらわなければなるまい。だが、まずは現場の確認だ。

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