第5話 三〇一号室 コシロサマ

 わたしたちは、三〇一号室の前に立つ。このアパートは三階建てで、各階に三部屋ずつが並ぶ。

 二階の住人は新しい住人ばかりだが、三〇一号室の住人、鈴木トネさんは、このアパートが建ったころから住んでいる古株だという。

 六十は過ぎているだろう、上品な雰囲気の婦人。お世話好きで、引っ越しで挨拶に行ったときにお菓子を渡したら、わざわざお返しのお菓子を持ってきてくれた。先日も『引っ越しで大変だろうから』と煮物のおすそ分けをもらい、近況を話したりもした。世話好きなだけでなく、かなり話し好きなのだろうと思ったが、もしかすると、わたしを亜沙美さんと重ねていたのかもしれない。

 トネさんの、部屋に人が居付かないという噂を話したときに見せた冷たい反応は、きっと何か知っているはず。


「トネさんにどんなことをきけばいいんでしょう」


「必要かは話をしてみないとわからんがな。故人のことを知ることで重要なヒントを得られるということはままある」


 亜沙美さんのことは触れたくはない話題のはずだ。そう考えると、これから亜沙美さんの幽霊の話をすることは気の毒な気がする。そのことは小野瀬さんたちにも話して、できるだけ気を遣うようにお願いする。

 もう午後五時過ぎ、もしかすると夕飯の準備中かもと思いながら部屋をノックする。


「はあい」


 元気な返事。トネさんは、上品でどことなく懐かしさと親しみを覚える老婦人である。


「トネさん、急で申し訳ないのですが、うかがいたいことがあって」と、わたしから切り出した。


「あら、どうしたの、氷川さん。高橋さんまで。そちらはどなた?」


「あの、こちらは小野瀬さんと言って、高橋さんの知り合いです。それで、実は姪の船戸亜沙美さんのことなんですけど」


 わたしの言葉を聞いて、トネさんは眉をひそめた。


「亜沙美さんのことを知りたくて、トネさんに話を聞かせてもらえないかと」


「そういうことね。もしかしてそちらは拝み屋さんか何かかしら。高橋さんにはそういうの困るって言ったはずよね。前の方が最後だって話じゃなかったかしら」


 トネさんは叔父を睨む。勘のいい方だ。これはごまかしても仕方がないのではと思いながら、小野瀬さんの出方を伺ってみる。


「私は、高橋さんから依頼を受けました拝み屋の端くれです。氷川さんが困っているとのことでしたので、彼女が安心できるようにするためにも、ぜひ亜沙美さんの御供養をさせていただきたいと思っています」


 小野瀬さんは、焦る様子もなく、すらすらと自然体で話す。


「供養、ものは言いようね。氷川さんには申し訳ないけど、そういう話ならお断りします。亜沙美は、優しい子です。亡くなっても関係ない人たちに迷惑をかけるような子ではないんです」


 にこやかだが、確かな拒絶を感じた。しかし、こちらも簡単には引けないのだ。


「トネさん、亜沙美さんにお線香あげさせてくれませんか。事件のことを知ってほんとうにかわいそうでならなくて。こちらに仏壇があるって聞いたから手を合わせたいって思ったんです。亜沙美さんのことが知りたいだけなんです」


 トネさんは、ちょっと考えるそぶりを見せる。


「お願いします。亜沙美さんを悪者にするつもりはないんです」


 ふう、とため息をつくと、トネさんは私たちを迎え入れてくれる。


「貴方からそう言われるとね。入りなさい」


 通されたワンルームの部屋には、小さな仏壇が置かれていた。

 部屋は明るく整頓されているのに、仏壇の周囲だけ、空気が冷んやりと沈んでいるようだった。静寂の中、換気扇の音が小さく、耳鳴りのように響く。

 目を引いたのは仏壇に飾られた写真。そこに写る女性には、確かに見覚えがあった。先ほど見たばかりの女の人。ただ、この写真の中の女性は、健康的で利発そうなお姉さんといった雰囲気。その唇には鮮やかなルージュ。


「わたしが見た人」私が言うと、尚くんも「おれが見た女の人」と言う。


 トネさんは、「そう」と、無感情に一言つぶやいて、ろうそくに火を点した。

 仏壇の背後の壁の向こう側が三〇二号室であることに気がつくと、なんだか小さな仏壇に恐ろしいほどの存在感を感じた。

 そこに何かを感じ取ったのか、尚くんは、じっと仏壇と壁を見つめる。そういえば、さっき小野瀬さんと尚くんは、三〇二号室で、こちらの部屋の方向を気にしていた。この仏壇の存在を、特殊な感覚で察知していたのかもしれない。

 わたしは、仏壇の横に飾ってある複数の写真に目をやった。子供時代からの写真が、時代順に並んでいるようである。それをみていたら、なんだか、自然と目頭が熱くなった。

 わたしたちは、順番に亜沙美さんの仏壇に線香をあげ、手を合わせた。

 線香の匂いに、ふっと生臭さが混じったような気がした。同時に感じたのは視線。あの夜に玄関の採光窓から覗いていた生首を彷彿とさせるねっとりした視線。亜沙美さんから見られている、そんな気がして顔をあげると、そこにあったのは細長い人形。

 仏壇の真ん中、亜沙美さんの写真と並んで、立っているそれは、服を着た白い棒のような……人形? 棒の頭の部分が小さく丸く削られ、布を何枚も巻くように着せられている。一番表の布は白い着物だった。特徴的なのは首の長さだろうか。首の長さがちょうどわたしの手の人差し指くらいで、頭も親指よりも小さいくらい。

 白い粘土のような質感。目と口だけが深く窪み、笑った口が赤で塗られていた。

 その赤が滲んで垂れているように見えた。


「この赤は……」


 尚くんが、自身で描いたスケッチに最後に赤い一筆を加えていたことを思い出した。まるで、あのスケッチに書いてあったものが、この人形のことであったかのように連想してしまう。

 

「コシロサマよ」


 わたしが気にしているのがわかったのか、トネさんが教えてくれた。


「家の守り神ですか。オシラサマのような形状だが」


 小野瀬さんは言う。オシラサマという名前は聞いたことがある。岩手県で有名な各家庭で祀る神様のはず。


「亜沙美が小さい時にね、粘土の工作で作ったの。それでシロさまって呼んで飾ってたのよ。わたしの実家では今小野瀬さんがおっしゃったオシラサマを祀ってたから、それを亜沙美が真似して作ったのね。ちょっと不気味な仕上がりなのがまた可愛くて。亜沙美が大きくなって捨てられそうになってたんだけれど、わたしが引き取ったの。亜沙美の思い出の品はほとんどは妹の一家が持ってるから、これがわたしにとっては、大事な形見になっちゃったのね……」


 トネさんは、昔を懐かしむようにして、しんみりとした笑顔を見せる。


「その口だけ赤いのは、なにか意味があるんですか」と、わたしが気になっていたことを聞いてみた。


「これは、そう、誰が塗ったんだったかしら……でも、亜沙美がお母さんの口紅を勝手に自分の口に塗って、コシロサマとお揃いだって言って並んでたのは覚えてるわ。亜沙美、学生になって、口紅の色にはけっこうこだわってたっけ……」


「シロさまと呼んでいたのが、コシロサマになったんですか」と小野瀬さん。


「そう。たしか、シロさまって呼ぶと、うちで飼っていた犬と紛らわしいから、コをつけて呼んだのよね」


「オシラサマってそもそも何なんですか?」わたしが聞くと、トネさんは首を傾げる。


「うちでは子供の守り神だって言われてたわね。長い首は子供を見張るためなんだって聞いたわ」


「私も昔調べていたことがありましたが難しい。子供の守り神という話もあるのは確かですし、特に養蚕の神様として扱われた記録が多く、農業や馬の神様でもある。蛇との関連もあり、二体で一組のことも多い。個々の家で祀る守り神のようなものだが、地域によっても家庭によっても祀り方が違う。そして、祀り方を間違えると祟ることもある。このコシロサマも、ある意味では立派な神様と言えるかもしれんな」


 なるほど。オシラサマは各家庭の神様。そしてそれを真似たコシロサマはトネさんと姪の亜沙美さんの共通の思い出の品なのだ。


「興味深い。失礼ですがご出身はどちらで。このような文化を残している地域は今となっては貴重なものです。いつか訪問してみたいものだ」


「岩手県の南の方に、ほんと何もないところなんですが、青田村というところがありまして」と、トネさんが話すのを、小野瀬さんがスマホにメモした。けっこうな高齢だと思うのに、紙のメモじゃないんだな、と一瞬だけ思う。


「トネさんは、毎日仏壇にお参りされていると高橋さんに伺ったんですが、コシロサマにお祈りしているんですか」と、小野瀬さん。


「ずっと朝晩の日課よ」


「孫が気になっているようなので、絵を描かせていただいてもよいですかな。描くものを探してスケッチブックを離さんのですよ」


「もちろん構わないわ。皆さんお茶をどうぞ。こんなにお客さんが来るなんて久しぶり。お菓子も出しましょうね」


 尚くんは、しばらくコシロサマを凝視していたが、スケッチブックを開き色鉛筆を取り出した。

 トネさんに座布団に座るように促され、小野瀬さんと叔父と三人で座る。尚くんは一人で、仏壇の前で、あの人形をスケッチしている。もしかすると彼には何かが見えているのかもしれない。


 トネさんがお茶を淹れて、一旦、皆が落ち着くのを待ち、わたしは深呼吸した。そして、準備していた言葉を一息に語った。


「トネさん聞いてください。ここに引っ越してから夜に何かが玄関を訪れるんです。わたし見たんです、亜沙美さんらしき女の人。それで、大家さんにもいろいろ話を聞いて、亜沙美さんのことを知らなければならないと思ってここに来たんです」


 トネさんは、じっとわたしの顔を見ていたが、ふうとため息をつき肩を落とした。そして、悲しそうな顔をして、「亜沙美は、まだ、怨んで迷ってるのかねえ」と呟いた。


 何を言ったらいいか迷う。亜沙美さんの話を聞きたかったが、何を言ってもトネさんを傷つけそうな気がしてしまう。


「怨んでいるとは、犯人のことですか」


 しばしの沈黙のあと、小野瀬さんはトネさんに問いかけた。

 トネさんは、仏壇を見つめたまま、しばらく口を閉ざし、指先で、コシロサマの布の端を優しく撫でた。

 顔をあげると、そこには、悲しみと、怒りが同居していた。


「当然怨んではいるでしょうけれど、でも、問題はあいつの方よ」


「あいつとは?」


「亜沙美が、付き合ってた男」


 その言葉に重なって、室内の静寂に一石を投じるように、カタッと小さな音が仏壇の方から聞こえた。仏壇に視線を向けると、目鼻の形も曖昧なコシロサマの顔が、こちらを見つめているように思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る