第46話 Nem’s Night、本番テイクの向こう側

 スタジオのロビーの時計が、ぴったり十時を指していた。


 ガラス張りのエントランス越しに見える空は、まだ少しだけ朝の青さを残している。

 白露ねむは、その青を見上げながら、ぎゅっと手を握った。


(——今日は、本番)


 Nem’s Night の、正式レコーディング。


 仮歌の日から、まだ数日しか経っていないのに、胸の中の時間感覚はぐちゃぐちゃだった。

 歌詞を書き直して、ロシア語の発音を練習して、配信して——気づいたら、ここにいる。


「おはよう、ねむちゃん」


 後ろから、聞き慣れた声がした。

 振り向くと、水城レンが片手に大きな紙袋を提げて立っている。


「おはようございます……それ、なんですか?」


「差し入れ。飴と、喉にいいやつと、糖分」


「糖分……」


「本番テイクの日は、メンタルの血糖値も大事だからね」


 ひらりと笑って紙袋を持ち上げるレンの横で、もうひとりの影が動いた。


 フード付きのパーカーに、黒いキャップ。

 いつも通りなのに、何かが少し違って見える。


「……おはようございます」


 朝比奈湊が、キャップのつばに指をかけて、軽く会釈した。


「おはようございます……」


 反射的に頭を下げながら、自分の声が半音高くなっているのに気づく。


(おちつけ。仮歌のときも一緒だったじゃん)


 でも、“今日の湊”は、“曲の作り手”というより、“Nem’s Night を世界に出す窓”みたいに見えた。


「調子どう?」


「き、緊張で、胃が逆流してます……」


「やめなさい不穏な表現」


 レンが即ツッコミを入れる。


 湊は、少しだけ目を細めた。


「昨日、寝られた?」


「三時間くらいは……」


「じゃあじゅうぶん」


「じゅうぶん……?」


「眠れない夜に歌う曲なんだから、歌い手が完璧に寝てる必要はない」


「説得力あるようで全然ないやつ……」


 ねむは思わず笑ってしまう。

 いつものように、緊張の糸が少しだけ緩んだ。



 レコーディングブースの手前のコントロールルームは、前回よりも人が多かった。


 エンジニアに加えて、アニメ側の音響監督・佐伯、宣伝の鷺沼、そして——モニターの前には、監督らしき男性までいる。


(うわ、増えてる……)


 心の中で縮こまるねむに、レンがこっそり囁く。


「見る人が増えるってことは、それだけ期待されてるってことだからね」


「プレッシャーの増え方も比例しませんか……?」


「それはそう」


 正直だな、と思う。


「白露さん、今日もよろしくお願いします」


 佐伯が、軽く頭を下げた。

 監督も、少し照れたように笑う。


「アニメ側の監督の、上原です。EDで、何度も救われてます」


「え、まだ出てないのに……?」


「仮音源で、だいぶ救われました」


 言われている意味は分からないけれど、褒められているのは分かった。

 ねむは小さく頭を下げる。


(……ここにいる人たち、みんな“夜”に関わってるんだ)


 灯台のアニメを作る人たち。

 Nem’s Night の音を作る人たち。


 自分の声は、その中のほんのひとつのピースに過ぎない。

 でも、そのひとつが欠けたら、きっと絵は完成しない。


(ちゃんと、やらなきゃ)


 握りしめた拳に、少しだけ力を入れた。



 ブースに入る前に、ロビーの隅の小さなソファで、湊とふたりきりになる時間があった。


「キーの最終確認、しとくか」


「はい……」


 湊がタブレットで音源を出しながら、ねむに視線を向ける。


「家で練習したとき、高音きつかったところある?」


「サビ終わりの、“朝になる”の“る”が、たまにひっくり返りそうになります……」


「裏返るのは悪いことじゃない」


「えっ」


「抑え込もうとして、喉固める方が危ない。ひっくり返りそうになったら、そのまま“ほどける”方を優先していい」


「ほどける……」


「Nem’s Night のサビは、“完璧に歌う歌”じゃない。“今にも泣きそうなのを、ギリギリで踏みとどまってる声”が欲しい」


 湊の言葉は、やっぱり少し危ない。


 “泣きそう”とか“ほどける”とか——歌じゃないところにも刺さる。


「で、ロシア語のところ」


 タブレットに表示された歌詞に、湊が指を滑らせる。


「“Доброй ночи, мой свет”と“Я слышу тебя — и дышу”。ここは、意味よりも響き優先でいい。でも——」


 彼は、少しだけ表情を和らげる。


「どっちかひとつでも、“誰かの顔を思い浮かべて歌える”と、たぶん強くなる」


「……誰かの顔、ですか」


「うん。誰でもいい」


 嘘つけ、と思った。


 でも、口には出さない。


「歌詞会議のとき言っただろ。“誰を思って書いたか、教えなくていい”って。今日もそれでいい」


 湊は、立ち上がりながらキャップを少しだけ深く被った。


「ただ、ブースに入って、マイクの前に立ったときだけは、“誰かひとり”を選んでくれれば」


 心臓が、痛いくらい鳴った。


「……はい」


 選ばない、とか。

 全員に、とか。


 そういう逃げ道を、今日は封じられた。


(ひとりだけ)


 自分の夜に、ただひとり。


 Nem’s Night の向こう側に、そっと立たせる人。



 ブースに入るときは、前回より足取りが軽かった。


 ヘッドホンをつけて、マイクの位置を調整して、軽く息を吐く。

 ガラスの向こうには、さっきよりたくさんの人影。


 でも、いちばんよく見えるのは——湊の肩越しの横顔だった。


(……ひとり)


 心の中で、決めてしまう。


 あの夜、“君の声がないと眠れない”って書きかけて、慌てて“声”に書き換えたとき。

 すでに、誰の名前を思い浮かべていたかなんて。


(最初から、知ってたくせに)


 マイクに向かって立つ。


 カウントが流れる。


 ——ワン、ツー、スリー、フォー。


「窓を叩く夜の色に——」


 一行目を歌った瞬間、自分の声が、自分のものじゃないみたいに滑り出した。


 怖さ。

 寂しさ。

 でも、配信ボタンを押した夜。


 それを、ひとつ残らず、喉の奥から引っ張り出していく。


 Aメロ、Bメロ。

 息は苦しいのに、言葉の方が先に走る。


 サビの手前で、一瞬だけ目を閉じた。


(——誰かの夜に届きますように)


 それからもう一度。


(できれば、その中のひとりに——)


「おやすみの声が わたしの朝になる——」


 サビの言葉が、スタジオの空気を塗り替えていく。


 ロシア語のパートに差し掛かったとき、喉の奥がひゅっと鳴る。


 ——Доброй ночи, мой свет。


(おやすみ、わたしの光)


 言葉の意味を、今日ははっきりと胸の中でなぞった。


 ガラスの向こうで、誰かの肩がわずかに動いた気がした。


 2番、サビ、ラスサビ——。


 最後のフレーズ。


 “もう眠れるよ”。


 歌い終わったとき、息が一瞬止まった。


 完全な無音。

 自分の心臓の音だけが、耳の奥に響く。


「——おつかれさまでした、一回止めます」


 エンジニアの声が入った途端、膝が少しだけ笑った。


「ど、どうでしたか……?」


 ブースから出ると、空気の密度が違って感じる。

 喉の奥が焼けるように熱い。胸のあたりは、逆に冷たい。


 ガラスの向こうで、一斉に視線が自分を見る。


「すごかったです」


 最初にそう言ったのは、監督の上原だった。


「正直、アニメの画を思い浮かべる余裕がないくらい、一曲で完結してました。——いい意味で」


「う、うれしいです……」


 佐伯も、ヘッドホンを外しながら頷く。


「ロシア語のニュアンスも、かなり綺麗に出てましたね。ちょっと発音の調整はしますけど、“意味”はちゃんと乗ってました」


「ありがとうございます……」


 鷺沼が、少しだけ涙目になっているのを見て、ねむは本気で驚いた。


「すみません、普通に泣きました……。なんか……最初のAメロのところで、“まだ真夜中なんだけど、朝の匂いがする”って感じがして」


「それ、めちゃくちゃエモいコメントですよ」


 レンが笑う。

 ねむはただただ、頭を下げるしかなかった。


(そんな大層なもの、歌いましたか、わたし……)


 自分では分からない。

 でも、少なくとも——“今のが、今できる全部”だったのは本当だ。



 いったん休憩に入り、再テイクやハモリの確認をする段取りが決まったあと。


 コントロールルームを出たところで、湊に呼び止められた。


「白露さん」


「は、はい」


 振り返ると、彼はタブレットを小さく掲げる。


「今のテイク、ちょっとだけ一緒に聴いていい?」


「あ、はい……」


 隣に並んで、イヤホンを片方ずつシェアする。


 自分の歌声が、さっきより少し落ち着いた音質で流れてくる。


 Aメロ、Bメロ——。


「ここ」


 湊が、サビ前のフレーズで一時停止した。


「“まだ誰もいない部屋で”の“いない”のところ。少しだけ、笑ってる」


「えっ」


「完全に落ち込んでる人の声じゃない。“でも、画面の向こうには誰かいる”って知ってる人の声」


 言われて初めて、自分でもそのニュアンスに気づいた。


(……たしかに)


 歌ったときの感覚が、少しだけ蘇る。


 怖い。

 寂しい。


 でも——


(“誰もいない”って言いながら、本当は“いる”って知ってる)


 配信のログ。

 “おやすみ”で埋まったコメント欄。

 OMAKE枠の静かなチャット。


「それでいいと思う」


 湊は、静かに言った。


「Nem’s Night は、“絶望の歌”じゃない。そこ、よく出てた」


「……よかった……」


 胸の奥が、じんわり温かくなる。


「で——」


 湊が、ラスサビの手前までスキップする。


 自分のロシア語のフレーズが流れる。


 ——Я слышу тебя — и дышу。


「ここも」


「はい……?」


「歌詞会議のときの意味、覚えてるか」


「“君を聞くたび、息ができる”……ですよね」


「うん」


 湊は、画面から目を離して、ねむの方を見る。


「誰を思い浮かべて歌ったか、聞かないって言ったけどさ」


「え」


「今のテイク、ちょっとだけ嘘ついてた」


「!?」


 心臓が、変な跳ね方をした。


「な、なんで、わかるんですか……」


「感覚」


 あまりにもざっくりした答えに、逆に納得してしまう。


「“君を聞くたび、息ができる”って言ってるのに、声が“まだ息を我慢してる”感じがしたから」


「……」


「だから、次のテイクで、そこだけもう一段、踏み込めるといいなって」


 湊は、イヤホンを外して、タブレットを閉じた。


「怖かったら、そのままでいい。でも、白露さんがもう一歩行けそうなら、行ってほしい」


「もう一歩……」


「息、我慢しないで歌うって、けっこう勇気いるから」


 ねむは、喉に触れた。


(息、我慢しないで)


 配信でも、歌でも。

 いつだって、自分の呼吸の音を殺そうとしてきた気がする。


 限界を見せたら、嫌われるんじゃないか。

 苦しそうな声を聞かせたら、負担になるんじゃないか。


 Nem’s Night だけは、そうじゃなくていいのかもしれない。


「……やってみます」


 ねむは、小さく頷いた。


「嫌われたら、そのときに考えます」


「嫌われない」


 即答だった。


 湊の声は、いつもより少しだけ、強かった。


「そういう声が好きなやつの方が、多い」


「断言しましたね……?」


「感覚」


 またそれか、と思う。


 でも、不思議と、信じられた。



 午後のセッションでは、細かいテイクの録り直しと、ハモリやコーラスを重ねていった。


 ラスサビの“息を我慢しないテイク”は、喉の奥が痛くなるくらい、ぶつけた。


 息が荒くなっても、声がかすれても、そのまま。


 歌い終わったあと、湊は何も言わなかった。

 ただ、タブレットの画面をじっと見つめていた。


 数秒の沈黙のあと——。


「——これ、使おう」


 その一言で、肩の力が抜けた。



 全ての録りが終わったころには、外は完全に夜になっていた。


 スタジオの前で、ねむは大きく伸びをした。


「つ、つかれた……」


「そりゃそうだよ」


 レンが苦笑しながら、ねむの肩を軽く叩く。


「でも、おつかれ。Nem’s Night、今日で“世界に出せる状態”になったよ」


「まだミックスとかなんとかがあるんですよね……?」


「あるけど、それはこっちの仕事。ねむちゃんは、今日ここまで出し切った。それで十分」


 そう言って、レンは少しだけ真面目な顔になった。


「ねむちゃんさ」


「はい」


「Nem’s Night の歌詞、“おやすみって言ってくれた人たちへの歌”って配信で言ってたじゃん?」


「い、言いましたね……」


「それ、ちゃんと入ってたよ」


 胸の奥が、きゅっとした。


「歌詞を知ってる側からすると、“あ、このフレーズは“あめ”のことだな、とか“oyasumi_3y”のことだな、とかちょいちょい分かるのよ」


「えっ」


「でも、何も知らない人が聴いたら、“自分のことだ”って思える言葉になってる。ちゃんと、両方の顔を持ってる」


 レンは、いたずらっぽく笑った。


「……恋の相手も、ちゃんと分かるけどね」


「はいストップですレンさん」


「お、本人からストップ入った」


 慌てて口を塞ごうとするねむを見て、レンは声を立てて笑った。


「ま、どっちにせよ」


 笑いを収めて、視線を少しだけ柔らかくする。


「Nem’s Night は、ねむちゃんの“真夜中”と“今”の間に架かった橋みたいなもんだよ。向こうに渡るかどうかは、聴く人次第」


「橋……」


「今日、その橋脚ぶっ刺してきたんだから、胸張っていい」


 レンの言葉は、やっぱりプロのそれだった。


 ねむは、小さく息を吸って、吐いた。


「——Nem’s Night、ちゃんと好きになれそうです」


「曲を?」


「自分が歌ってる、自分の声を」


 その答えに、レンは満足そうに頷く。


「それがいちばんの収穫かもね」



 スタジオを出て、夜風を吸い込む。


 スマホを見ると、通知がいくつか溜まっていた。

 ファンからのリプライ、箱メンバーのグループチャット、そして——


 湊からの、短いメッセージ。


《今日のラスサビのテイク、すごく良かったです》


《あれは、息を我慢してない声でした》


 画面を見つめながら、ねむの胸の奥で、何かがやわらかく笑った。


(——ばれてる)


 誰を思い浮かべて歌ったかなんて、最初から全部。


 でも、それでいいのかもしれない。

 歌詞の中でしか言えない言葉が、世界にはたくさんある。


 Nem’s Night の本番レコーディングは終わった。

 でも、この夜の続きは、まだ始まったばかりだ。


「……おやすみ、わたしの光」


 誰にも聞こえないように、口だけでそう言ってみる。


 Nem’s Night が、誰かの夜の窓を叩くその日まで——。


 ねむは、少しだけ軽くなった足取りで、家への道を歩きはじめた。

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