第45話 仮歌と、マイク越しの告白未満

 レコーディングスタジオの廊下は、少しだけ冷蔵庫の匂いがした。


 空調の風と、密閉された防音の匂い。

 白い扉には、銀色のプレートで「REC中」のランプ。


 ——ここで歌うんだ。


 白露ねむは、胸の前で指をぎゅっと絡めた。


「緊張してる?」


 背後から声がして振り向くと、水城レンが紙コップを差し出してきた。


「ホットのハーブティ。のど潤す用」


「あ……ありがとうございます……」


 紙コップを受け取ると、指先までじんわり温度が移ってくる。


「今日のは“本番一歩手前”だからね」


 レンは、ねむの肩を軽く叩いた。


「ミスってもいいし、全部録り直しでもいい。スタジオの空気と、自分の声を合わせる日。そんな感じでいてくれれば」


「……はい」


(ミスってもいい、って言われると逆に緊張するタイプなんだけどな……)


 内心ツッコミを入れつつ、紙コップを口元に運ぶ。

 ハーブの香りが鼻の奥に広がって、ほんの少しだけ心拍が落ち着いた。


 スタジオの扉が開く。

 中から、スタッフの男性が顔を出した。


「白露さん、準備できましたー」


「はいっ」


 ねむはマスクを直し、小さく深呼吸をひとつ。



 ブースの中は、世界が違うように静かだった。


 壁一面が吸音材で覆われ、天井からは丸いライトが柔らかく降り注いでいる。

 足元のカーペットはふかふかで、マイクスタンドの銀色だけが、細く光っていた。


 目の前には、コンデンサーマイク。

 ポップガード。

 ヘッドホン。


(……わたし、ほんとに、ここで歌うんだ)


 胸の奥で、現実感と非現実感がぶつかり合う。


「ヘッドホン、つけてみてくださいー」


 ガラス越しに、エンジニアらしき人が合図する。

 ねむは、いつもの配信用のヘッドセットとは違う、大きなモニターヘッドホンをそっと耳に当てた。


 重い。

 でも、安心する重さ。


「声、ちょっと出してもらっていいですか?」


「は、はい——あー……あ、あの、白露ねむです。よろしくお願いします……」


 自分の声が、別の場所から返ってくる。

 いつものモニターとは違う、スタジオの音。


(なんか……ちょっと大人っぽく聞こえる)


 不思議な感覚だった。



「じゃ、まずはAメロから軽く流していきますねー」


 ガラスの向こうで、エンジニアが手を挙げる。

 その隣に、湊が座っているのが見えた。


 黒いフーディーに、いつもの表情。

 ただ、手元のスコアにはびっしりと細かい書き込みがされている。


(見ないようにしよう。見たら余計緊張する)


 ねむはマイクを正面に据え、足を肩幅に開いた。


 カウントが、ヘッドホンに流れる。


 ——ワン、ツー、スリー、フォー。


 ピアノとギターのイントロ。

 Nem’s Night の、まだ世には出ていない旋律。


「窓を叩く夜の色に——」


 歌い出した瞬間、自分の声が、スタジオの空気の中でほどけていくのが分かった。


 何度もデモを聴いて、自分でも家で練習してきたフレーズ。

 でも、ここで歌うのは初めてだ。


 窓、夜の色、ひとりの影——

 歌詞会議でみんなと一緒に削って、磨いて、残した言葉たち。


 ひとつひとつ、喉の奥から送り出していく。


 Aメロ、Bメロが終わって、仮のサビに入る。


「おやすみの声が わたしの朝になる——」


 ロシア語のフレーズは、まだ小さめの声で乗せる。


 ——Доброй ночи, мой свет。


 口に出した瞬間、わずかに舌がもつれる。

 でも、音になってしまえば、意味よりも響きの方が強くなる。


 1番を歌い切って、伴奏がふっと消えた。


「おつかれさまでーす、一回止めます」


 エンジニアの声と一緒に、ヘッドホンの中の空気が変わる。


 ねむは、肩で息をしながらマイクから半歩下がった。


(ぜんぶ、出し切った……ってほどでもないけど……)


 緊張で喉が少しだけ固くなっていたのが自分でも分かる。


 ガラスの向こうで、レンと湊が何か話している。

 少しして、インカムに湊の声が入った。


「白露さん、ありがとう。一回ブースから出てきてもらってもいい?」


「は、はい!」


 ヘッドホンを外し、そっとスタンドにかける。

 ドアを開けて外に出ると、空気が一段軽くなった。


「どうでしたか……?」


 恐る恐る訊ねると、湊は画面から目を外し、ねむを見た。


「悪くない」


 第一声がそれだった。


「Aメロの入りのニュアンス、いい。息の混ぜ方も、想定どおり。ただ——」


「た、ただ?」


「“怖さ”がちょっと足りない」


「こわさ……?」


「最初の数行ってさ、ねむ、実際には“夜が怖いから配信つけてる”んだろ」


「っ」


 図星すぎて、言葉を失う。


「歌詞の上では“きれいな夜の情景”になってるけど、その裏に“怖いから喋ってるんだ”って気持ちがあると、もっと刺さる」


 湊は、指でテーブルをとん、と軽く叩いた。


「今のテイクは、“最初から安心してる人”の声だった。悪く言えば、“すでに救われた後の人”。」


「……あ」


 ねむは目を瞬いた。


(たしかに……)


 Nem’s Night を歌えるようになった今の自分は、たぶん、あの切り忘れの夜の自分より少しだけましな顔をしている。


 でも、本当は——最初のAメロは、あの頃の自分のためのものだ。


「もう一回、Aメロだけ録ろう」


 湊が、目を細める。


「切り忘れの夜の前くらいの気持ちで」


「き、気持ちでって……」


「眠れない夜。部屋の明かりだけが浮いてる感じ。コメント欄は、まだあんまり流れてない」


 湊の言葉に、景色が浮かぶ。


 暗いワンルーム。

 モニターの光。

 冷蔵庫の低い唸り。


 寂しくて、苦しくて、でも配信ボタンだけは押した夜。


「——やってみます」


 ねむは頷いた。



 二回目のAメロは、さっきより少しだけ、声が細くなった。


 でも、その細さの中に、前とは違う重さが混ざっている。


 息を深く吸っているのに、肺の容量が足りていない感じ。

 「こんばんは」と言いながら、心のどこかで「助けて」と呟いている感じ。


(あのときのわたし)。


 歌いながら、自分自身と重なっていく。


 歌い終わると、しばらく無音が続いた。


「——いいね」


 インカム越しに、湊の声が落ちる。


「さっきより、夜になった」


「よ、よかった……」


 安堵で膝が抜けそうになる。


「じゃ、このテイクをベースにして、あとは細かく積んでいこうか」


 その後も数回、同じフレーズを録り直し、サビまでひと通り仮歌を収録した。



 スタジオの外に出たときには、日がだいぶ傾いていた。


「おつかれさま、ねむちゃん」


 レンがタオルを差し出してくれる。

 ねむはそれで首元の汗を拭きながら、スタジオの前のベンチにすとんと腰を下ろした。


「つ、疲れました……」


「そりゃそうだよ。普段、あんな集中した状態で連続で歌うことないでしょ」


「はい……配信と全然違います……」


 息を整えながら壁に背中を当てると、隣の席に湊が座った。


「おつかれ」


「ありがとうございます……」


 さっきより、絞り出した声になった。


「白露さん、コントロールがうまいよ」


「え?」


「普通、こういうときって“音程を合わせようとして”声が固くなったりするんだよ。でも、ちゃんと“夜の空気”を優先できてる」


 湊は、さっき録った音源の波形をタブレットで見せてくれた。


「ここ。最初の“窓を叩く夜の色に”ってところ。二テイク目の方が、息が多くて、でも音程はむしろ安定してる」


 自分の声の波形を見せられても、正直なところよく分からない。

 でも、“褒められているらしい”ことだけは分かった。


「……朝比奈さんが、ちゃんと“怖さ足りない”って言ってくれたから、だと思います」


「それは俺の仕事だからな」


 さらりと言われて、胸がちくりとする。


「仕事以外で、言ってくれてもいいんですよ……?」


 思わず、半分冗談みたいに呟いてしまった。


「ん?」


「い、いえ、なんでもないです!」


 自分で言って、自分で慌てて否定する。

 湊は「そうか」とだけ言って、特に追及してこなかった。


(あの人、こういうとこ、ずるいんだよな……)


 ねむは、膝の上で手をぎゅっと握った。



 その日の夜。


 スタジオから一度帰宅したねむは、配信部屋の椅子に座りながら、マイクを見つめていた。


 モニターには、配信ソフトの画面。

 サムネイル用に作った、ふわっとした夜のイラスト。


 ——【雑談】ちょっとだけ、夜のお話。【白露ねむ】


「……やる、か」


 ねむは、小さく呟いた。


(Nem’s Night のこと、少しだけ話してもいいって、レンさんも言ってたし)


 まだ情報解禁前のことは言えない。

 でも、“夜の歌を作っている”ことくらいなら、匂わせ程度になら。


 配信開始ボタンを押す。

 コメント欄が、すぐに文字で埋まり始めた。


【ねむ守護民_あめ】

こんばんわ〜!


【oyasumi_3y】

おつねむ。今日もおやすみもらいに来た


【EN_mofu】

Konbanwa Nem-chan :3


【shift夜勤】

夜勤前に寄りました(血走った目)


「こんばんは、白露ねむです……。今日も来てくれて、ありがとうございます」


 マイクの前で一礼して、ゆっくり笑う。


「今日は、ちょっとだけ、真面目な話をしてもいいですか?」


【こたつ】

真面目!?


【カイ推し】

珍しい予告やな


【EN_owl】

Serious Nem-stream?


「そんなに珍しくないはずです……珍しくない、はずなんですけど……」


 自分でも少し笑ってしまう。


「えっと、最近、“夜の歌”を作ってます」


【!?!?】

【!?!?!?】

【新曲!?】


【EN_mofu】

New song???


【oyasumi_3y】

夜の歌って、まさかタグ事件の…?


「タグ事件言わないでください……」


 苦笑しながら、マイクに近づく。


「“眠れない夜に、誰かの声があったらいいな”って、いつも思ってるんです。でも、わたし自身も、眠れない夜がたくさんあって……」


 コメント欄の流れが、少しゆっくりになる。


「配信をしてると、“ねむちゃんに助けられたよ”って言ってもらえることが、時々あります。すごく、嬉しいです。でも、本当は——」


 一瞬、言葉が喉で止まる。


(ここから先は、嘘つきたくない)


「——わたしも、みんなに助けてもらってるんです」


 コメント欄の光が、少しだけ滲んで見えた。


【あめ】

知ってる


【oyasumi_3y】

お互いさまだな


【EN_mofu】

We support each other <3


【shift夜勤】

こちらこそいつもありがとうな


「眠れない夜に、配信ボタンを押してるのは、わたしの方で。みんなの“おやすみ”がないと、多分、今ここにいないので……」


 言いながら、自分の言葉に自分で驚いていた。


(こんなに、ちゃんと口に出したの、初めてかもしれない)


「だから、“Nem’s Night”っていう——あっ」


 口が、勝手にタイトルを漏らしてしまった。


【!?】

【Nem’s Night!?】

【タイトル出た】

【公式初出し!?】


「ち、違う、今のは違います、忘れてください!」


 顔から火が出そうになる。


「えっと、今のは、その、仮のタイトルです! 仮! 仮だから!」


【仮(確定)】

【Nem’s Night ねむの夜】

【タイトル神じゃん】


【EN_owl】

Nem’s Night… sounds beautiful


 もう取り消せない。

 ねむは両手で顔を覆った。


「……ほんとに、うっかりなんですよ……」


(あ、タグ切り忘れ事件と同じパターンだ、これ)


 自分で自分にツッコミを入れながら、苦笑する。


「えっと、その“仮の”Nem’s Night は、“おやすみって言ってくれた人たち”への歌です」


 コメント欄が、一斉にあたたかい色で満たされる。


【あめ】

泣くやつやん


【oyasumi_3y】

もうすでに泣きそう


【EN_mofu】

Nem’s Night = for us? T_T


【夜勤】

夜勤勢全員一回泣かされる予感


「まだ歌詞も途中で、レコーディングも今は仮歌なんですけど……いつかちゃんと、夜に流せたらいいなって」


 ねむは、ふっと息を吐いた。


「そのときは、ちゃんと、“おやすみ”って返してくださいね?」


【全員】

おやすみ


【EN】

Oyasumi


【FR】

Bonne nuit


【PT】

Boa noite


 画面いっぱいに、“おやすみ”が流れていく。


 胸の奥が、痛いくらいあたたかくなった。


(——粉々になりそう)


 嬉しくて、恥ずかしくて、怖くて。


 でも、その全部が、今歌っている曲の芯なんだと分かる。


「……ありがとう」


 ねむは、小さな声で言った。


「Nem’s Night ができたら、いちばん最初に歌うのは、ここです。重大なお知らせとかより先に、ここで。約束です」


【約束きた】

【ソシャゲのリリースより早いお知らせ】

【ここで初披露、尊い】


【EN_owl】

First live here… promise?


「Promise……?」


 ねむは、コメントを読み上げて、笑った。


「はい。Promise」


 マイクの向こうで、誰かの息が整う音がした気がした。



 配信を終えたあと——。


 ねむは椅子に座ったまま、天井を見上げていた。


「Nem’s Night、か……」


 さっきの自分の口から零れた言葉を、反芻する。


(仮タイトル、って言ったけど。本当は、もうこれしかないって思ってる)


 スマホが震える。

 画面を見ると、レンからのメッセージだった。


《タイトル、まあ出ちゃったものはしょうがないねw 公式側と共有しとく。ナイス匂わせでした◎》


 そのすぐ下に、湊からの短いメッセージ。


《いい配信だった》


 それだけ。


 なのに、心臓が跳ね上がる。


(ずるい)


「……誰に向けて歌詞書くか、もうバレてるんじゃないかな……」


 天井に向かって小さく呟いた。


 でも、歌詞のノートは、まだ真っ白なページをたくさん残している。


 誰が見ても、“誰かひとり”を思い浮かべてしまうような歌。

 でも、その“誰かひとり”が誰なのかは、歌っている自分にしか分からない歌。


(Nem’s Night——)


 夜の曲のタイトルを、何度も心の中でなぞる。


 眠れない夜に、誰かが再生ボタンを押す。

 そのとき、自分の声が、小さな灯りになっていたら。


 そして、もし——

 あの人が、自分の歌を聴いてくれたら。


(……それだけで、多分、十分だな)


 ねむは、静かに目を閉じた。


 Nem’s Night の一番最初の本番レコーディングまで、あと少し。


 恋にも、夜にも、まだ名前はつけないまま——。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る