第47話 Nem’s Night、世界でいちばん最初の夜

 お昼前、ねむのスマホが小さく震えた。


 画面には、水城レンの名前。

 通知には、一行だけ。


《Nem’s Night、ミックス上がりました。今日17時、試聴できます》


「……っ」


 布団の上でごろごろしていた身体が、一瞬で覚醒する。

 まだ配信まで少し時間がある午後。

 窓から差し込む光が、やけに現実味を持って見えた。


(——上がったんだ)


 昨日まで、“いつか完成する曲”だったものが。

 今日から、“世界に出られる曲”になっている。


「……おなか痛いかも」


 言いながら、自分で苦笑する。


 でも、怖さよりも先に浮かぶのは——

 “ちゃんと聴きたい”という欲張りな感情だった。



【ルミエール本社・試写室】


 壁一面にスクリーンが据え付けられた、窓のない小さなホール。

 映画館を少しだけ狭くしたような空間に、ルミエール箱の面々がずらりと並んでいた。


「おー、なんか、ガチのやつじゃん……」


 天ヶ瀬カイが、椅子の背もたれに片足を引っかけそうになって、ミオに止められる。


「ここで暴れたら、ねむの曲より先に椅子が壊れるからやめなさい」


「はいすみません」


 ねむは、一番後ろの列の端の席に座っていた。

 膝の上には、未だに握りしめたままのスマホ。


 隣には、朝比奈湊。

 前の列には、天音ルナと星野コウ。

 そのまた前には、白神ナオやシン、ユリ、サチたち。


 スタッフ席には、上原監督や音響監督の佐伯、宣伝の鷺沼。

 そして、レン。


 ——Nem’s Night の関係者が、ほとんど全員集まっている。


「じゃ、始めようか」


 レンが前に立ち、マイクを持つ。


「今日は、“灯台”第10話のEDラフ映像に、ほぼ完成形のNem’s Night を仮当てしたものを観てもらいます。歌と画、どっちもまだ微調整入りますが——」


 レンは、ちらりとねむと湊の方を見た。


「“世界でいちばん最初の夜”に立ち会ってもらう感じで」


 ざわっと、白い笑い声が広がる。


「うわ〜、そう言われると緊張する〜」


「エモワード投げてくるね、レンさん……」


 ねむは、喉をからからにしながら、小さく息を吸った。


(……始まっちゃう)



 照明が落ちる。


 スクリーンに、まだ線が少し荒い“灯台”の映像が浮かび上がった。


 嵐の夜。

 崖の上の灯台。

 主人公が、濡れたマントを脱ぎ捨てて走る。


 叫ぶような台詞。

 ノイズ混じりの風のSE。


 クライマックスの余熱が残ったまま、画面がふっと暗転した。


 ——そして。


 ピアノの一音が、静かに鳴った。


 その瞬間、ねむの心臓がひとつ跳ね上がる。


(あ、これ——)


 自分の声が来る前の、一拍の余韻。

 仮歌のときにも聞きなれた、Nem’s Night のイントロ。


 でも今日の音は、少しだけ違って聞こえた。


 低音の揺れ。

 高音の抜け。

 隙間のリバーブ。


 すべてが、昨日までのデモよりも少し“遠くの世界”に近づいている。


「窓を叩く夜の色に——」


 スクリーンの中で、灯台の灯りがゆっくり回転する。

 その上に、白露ねむの声が乗った。


 仮歌で録ったはずの自分の声。

 でも、それはもう、ねむが配信部屋で聞いてきた自分の声とは違っていた。


(わたしの声……だよね、これ)


 でも、“配信のねむ”ではない。

 “Nem’s Night を歌う白露ねむ”という、別の誰か。


 Aメロでは、崖の上の夜の海が映る。

 Bメロでは、灯台の中の階段を淡々と登る主人公の背中。

 視点は、アニメの世界にありながら——歌詞は、どこかで自分の夜と重なる。


 サビに入る前、ほんの一瞬だけ映像が暗くなった。


(来る——)


「おやすみの声が わたしの朝になる——」


 サビの瞬間、画面がふわっと明るくなった。


 夜明け前の海。

 まだ赤くなりきっていない水平線。

 灯台の光が、最後の一回転を終えて、静かに消えていく。


 ねむの声が、その光と重なった。


 ——Доброй ночи, мой свет。


 ロシア語のフレーズが響いた瞬間、背中の奥にぞわりと震えが走る。


(怖い……けど、すき……)


 自分の声なのに、自分じゃないみたいで。

 でも、知ってる。


 歌詞の中に閉じ込めた“誰かひとり”の輪郭を。


 スクリーンの中で、主人公が踵を返して振り向く。

 誰かの眠る部屋に向かって歩き出すラストショット。


 そこに重なるラスサビのフレーズ。


 ——もう眠れるよ。

 ——安心して眠って、そばにいるよ。


 最後の一音が消えて。

 画面が黒く抜けた。



 照明が戻るまで、数秒の沈黙があった。


 ねむは自分の膝をぎゅっと握りしめたまま、うつむいていた。


(……終わった?)


 でも、“曲が終わった”のと、“世界に出る準備が整った”のは、まだ別の話だ。


 胸の奥が、高速で何かを計算しているような感覚。


 レンの声が、暗闇の中で響いた。


「——はい。Nem’s Night、仮完成でございました」


 照明が少しだけ上がる。

 最初に拍手をしたのは、上原監督だった。


 控えめだけど、手のひらから熱が伝わるみたいな拍手。


「いや……すごいですよ、これ」


 監督が振り返る。


「曲が先に来ちゃって、正直“画が負けちゃうんじゃないか”って不安もあったんですけど——」


「え、そんな不安あったんですか……?」


 レンが驚いたように目を見開く。


「ありましたよ。だって、仮デモの時点で、もう一回泣かされたんで」


 ねむは、思わず肩をすくめた。


(監督さん……すみません……)


「でも、今の見て、“ちゃんと並んで歩けてる”って思いました。灯台の話とも繋がってるし、白露さんの歌だけ聴いても完結してるし」


 佐伯も痩せた指で拍手しながら、静かに頷く。


「ロシア語のところ、最初は“凝りすぎかな”と思ってたんですが……正解でしたね。意味分からない人も、雰囲気で泣くやつだ」


「意味も分かるように字幕頑張りますね」


 鷺沼がメモを取りながら笑う。


「配信情報もそろそろ出していいですか? Nem’s Night の音源解禁タイミングと、EDオンエアの告知と——」


「まだ心の準備が……」


 ねむは小さく手を挙げた。


「ちょっとだけ、考える時間くださってもいいですか……?」


 レンが笑う。


「考えなくても、もう出るんだけどね」


「ですよね……」


 知ってる。

 でも、“考える猶予”は欲しい。



 試写室がいったん散会になり、スタッフと箱メンがロビーへと出ていく中。


 ねむは、最後尾からゆっくり歩いていた。


 足元がふわふわしている。

 床にちゃんとついているのに、半分浮いているみたいな感覚。


「白露さん」


 背後から声がして振り向くと、湊がいた。


「感想、聞いてもいい?」


「か、感想……」


(逆じゃない? わたしが朝比奈さんに感想言う側じゃないの?)


 でも、真っ先に口から出てきた言葉は、違うものだった。


「……“わたしじゃない誰かが歌ってるみたい”って思いました」


「うん」


 湊は、少しだけ目を細める。


「それ、多分、正解」


「正解なんですか……?」


「Nem’s Night を歌ってるのは、“配信者の白露ねむ”じゃなくて、“Nem’s Night を歌う白露ねむ”だから」


 言葉遊びみたいな説明。

 でも、変に納得してしまう。


「たとえばさ」


 湊が、ロビーの片隅のソファを指差した。

 ねむが座ると、すぐ隣に腰を下ろす。


「配信のねむって、“日常の夜”の君だろ」


「日常の夜……」


「おやすみ枠での声とか、ゲームしてるときの声とか。“眠れない人たち”の日常と同じ高さで喋ってる」


 ねむは、頷いた。


「Nem’s Night は、“その日常をちょっとだけ俯瞰してる君”の声なんだと思う」


「俯瞰……」


「切り忘れの夜も、タグで埋まったコメント欄も、全部含めて。それを半歩上から見てる“今の君”が、あの日の君に歌ってる」


 説明を聞いているうちに、自分の胸のあたりが熱くなってくる。


(あの日の、わたし……)


 “今日も誰も見てないや”。

 “おやすみって言ってもらえたら、生きていけるんだよね”。


 無防備な寝言みたいな本音。


「……たしかに、そんな感じ、かもです」


「だから、“自分じゃないみたい”って感じるのは、たぶん合ってる。いい意味で」


 湊は、少しだけ微笑んだ。


「“Nem’s Night の白露ねむ”を、これから君も推してやればいい」


「自分を、自分で推すってことですか……?」


「そう。箱に一人くらい、自分推しのVいてもいいだろ」


「どうなんですか、それ……」


 思わず笑ってしまう。

 でも——心の中の何かが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。



「とりあえず、配信のこと決めちゃおうか」


 レンがソファの前にやってきた。


「Nem’s Night の音源解禁は、“灯台”第10話のオンエアと同時にします。EDとしてテレビで初オンエア。そのあと、YouTubeでショートサイズ解禁」


「ショートサイズ……」


「フル尺は、MVか配信での披露まで、ちょっと焦らす。ねむちゃんのチャンネルでも、何かしら“世界最速試聴枠”をやりたいんだけど」


 レンが、ねむをまっすぐ見る。


「どうする? “Nem’s Night 世界でいちばん最初の夜”ってタイトルで、同時視聴+EDオンエア後に1コーラスだけ流すとか」


「な、名前がもうエモいんですよ……」


「いいでしょ」


 鷺沼がすかさずメモを取る。


「ハッシュタグは #NemsNight #ねむちゃんの夜 で固定して……」


「配信の構成は——」


 コウが口を挟む。


「前半:アニメ同時視聴。後半:Nem’s Night について語る雑談。最後に1コーラスだけ流す」


「歌はその場で生で歌うんですか?」


 ねむが尋ねると、レンが少し考える。


「初回は、あえて“レコーディング音源”を流すのがいいかな。生歌は、もうちょい後の“リリース記念ライブ”で」


「……ライブ」


 単語の重さが、喉に残る。


「今、さらっと恐ろしいこと言いました?」


「言いました」


 レンは悪びれない。


「でも、Nem’s Night の完成で、そういう話も見えてきたからね。焦らず段階踏むけど」


 ねむは、自分の膝の上で手をぎゅっと握った。


(ライブ……)


 まだ遠い未来の話みたいで。

 でも、“歌が世界に出る”という一点では、今日と地続きの話だ。


「とりあえず、同時視聴配信のサムネと告知文は、今日のうちに粗案作っとくね」


 レンがそう言って、ねむにウィンクする。


「Nem’s Night の“世界でいちばん最初の聴き手”が、ちゃんとここにいるってことを、ちゃんと伝えたいから」


「……はい」



【同日・夜 ねむ配信部屋】


 部屋の灯りを落として、モニターだけがぼんやり光っている。


 机の上には、さっきレンから送られてきたデータのフォルダ。

 ファイル名には、シンプルにこう書かれている。


 ——Nem’s Night_mix_v3_master.wav


「……こわ」


 声に出してみる。

 でも、再生ボタンには、自然と手が伸びていた。


 イヤホンを耳に差し込む。

 息をひとつ飲む。


 クリック。


 イントロが流れる。

 さっき試写室で聴いた音より、少しだけ冷静な耳で聴ける気がした。


 Aメロ、Bメロ、サビ——。


 ひとつひとつの言葉が、イヤホンの中で輪郭を持って立ち上がる。


(本当に……歌になってる)


 紙の上で震えてた文字たちが。

 歌詞会議で、みんなと削った単語たちが。


 今、音楽として、自分の鼓膜を叩いている。


 ロシア語のパートに差し掛かった瞬間、ねむは目を閉じた。


 ——Доброй ночи, мой свет。

 ——Я слышу тебя — и дышу。


(おやすみ、わたしの光。

 君を聞くたび、息ができる——)


 胸の奥に、あの夜のワンルームと、今日のスタジオと、配信画面と、誰かの横顔が、全部ごちゃ混ぜになって押し寄せてきた。


「……っ」


 気づけば、頬を何かが伝っていた。


(やだ、泣くつもりじゃなかったのに)


 息を吸い込むと、鼻の奥がつんとする。


 そのとき、机の上のスマホが震えた。


 イヤホンを片耳だけ外し、画面を見る。


《朝比奈湊》

《もし起きてたら》

《今のミックス、どうだったか教えてください》


 時間は、22:47。

 メッセージは三行だけ。


(……起きてます)


 ねむは、涙を拭いながら、ゆっくりと文字を打った。


《泣きました》

《自分の曲で泣くの、ずるいと思います》


 送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。


《それが仕事なので》


「ずるいな……」


 思わず、声に出して笑ってしまう。


 少し間を置いて、もう一通メッセージが届いた。


《でも、一番最初に泣いたのが、白露さんでよかったです》


 胸の奥が、また違う種類の痛みでぎゅっと締め付けられる。


(ああ、もう……)


 Nem’s Night の歌詞の、まだ空白になっている部分が、ひとつずつ埋まっていく気がした。


 “誰かひとり”に向けて書いたつもりで。

 でも、歌はきっと、それ以外の誰かにも届いてしまう。


 それでも——。


《Nem’s Night、ちゃんと好きになれそうです》


 送信すると、少し長めの「入力中」が表示されたあと、短い返事が返ってきた。


《それがいちばんうれしいです》


 画面を見つめたまま、ねむは大きく息を吐いた。


 配信ボタンを押さない夜。

 でも、イヤホンの中には、Nem’s Night が流れている。


 世界でいちばん最初の夜は、案外静かだった。


「……おやすみ」


 誰にともなく呟いて、再生ボタンをもう一度押す。


 Nem’s Night のイントロが、再び部屋の中に灯りを点した。

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