第34話 六畳と二LDKのあいだで
洗濯機の終了音が鳴るより先に、スマホの通知音が小さく震えた。
白露ねむは、部屋着のままベッドの上で丸まっていた身体をむりやり起こす。
カーテンの隙間から差し込む昼の光が、六畳一間の天井を淡く照らしていた。
(……今日だ)
スマホのロック画面には、カレンダーの予定が表示されている。
――13:00 物件見学(2回目)+契約相談
――水城さんと駅待ち合わせ
文字を見ただけで、心臓が一段階早くなる。
「……はあ」
ため息とも深呼吸ともつかない息を吐いて、ねむはベッドから降りた。
足が床につくと、いつもの六畳が一気に“現実”になる。
ベッド。
配信デスク。
小さな本棚。
壁には防音材。
足元にはケーブル。
「今日で……この部屋、“ただいま”じゃなくなるかもしれないのか」
口に出してみると、その言葉は思ったより重たくて、胸の奥に沈んだ。
◆
顔を洗って、軽くメイクをする。
鏡に映る自分は、いつもより少し真面目そうだった。
配信用のがっつりメイクではないけれど、
ご近所コンビニに行く顔でもない。
髪をゆるくまとめ、シンプルなブラウスに、落ち着いた色のロングスカート。
胸元には、ファンからもらった小さな星型のネックレスをつける。
「……よし」
最後に、配信デスクの前に立った。
マイク。
モニター。
リングライト。
サブモニターの前には、昨夜の配信時に飲みかけたペットボトルがまだ残っている。
画面には、昨日のアーカイブのコメント欄が開いたままだ。
【アーカイブ視聴勢】
・新居どうなるんだろ
・れむちゃんの声、もっと伸びるんだろうな
・環境良くしてあげて〜〜〜
・六畳卒業おめ!って言える日が来るのかな
「……勝手に卒業させないでよ」
そう言いながら、ねむは笑う。
でも、頬の内側はほんの少しだけ、苦い。
「ちゃんと……自分で決めるんだから」
モニターの電源を落としてから、部屋をぐるりと見渡した。
ここで泣いて、笑って、歌って、寝落ちして。
この六畳の空間に、“白露ねむ”のほとんど全部が詰まっている。
靴を履く前に、もう一度だけ呟いた。
「行ってきます」
誰にともなく。
◆
駅前のロータリーは、平日の昼にしては人が多かった。
春の終わり。制服姿の高校生と、スーツの人たちが入り混じっている。
「ねむちゃん、こっち」
声のした方を見ると、カフェの前で手を振る水城レンがいた。
ジャケットの袖をまくって、片手には紙袋。
いつものノートPCの入ったカバンも持っている。
「お、おはようございます……」
「おはよう。緊張してる?」
「……まあ……少しだけ」
「“少しだけ”って言えるなら大丈夫だよ」
レンは笑いながら、紙袋を差し出した。
「これ、差し入れ。栄養バーと、のど飴と、カフェイン少なめのペットボトル」
「なんですかこの完璧セット……」
「今日、たぶん頭も心も疲れるからね」
紙袋は予想より軽くて、そのぶん気持ちがふっと軽くなった気がする。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
駅前からバスに乗り、数駅先で降りる。
窓からは、少しだけ緑の多い住宅街が見えた。
レンは、道すがらも仕事モードのようで、時々スマホを確認してはタレントグループにメッセージを飛ばしている。
「……なんか、連絡多くないですか?」
「さあ? 今日何かあるんじゃない?」
意味ありげな笑い方に、ねむは眉をひそめた。
「なにか……?」
「着いてからのお楽しみ」
「こわ……」
◆
白いタイル張りのマンションが見えてきたとき、ねむの足は自然と遅くなった。
前回来たときと同じ建物。
でも、今日は“決めに来た”という重さが違う。
オートロックを抜け、エレベーターに乗り、五階へ。
「深呼吸、忘れずにね」
「……はい」
エレベーターのドアが開く。
歩き慣れてはいない廊下の端に、例の玄関ドアがあった。
前回と同じ管理会社の担当者が待っていて、軽く会釈する。
「本日もよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
レンとの挨拶が終わるころには、ねむの心臓は完全に“配信前”のそれになっていた。
(……今から、人生の“新ステージ”ボタン押すみたいな感じだ……)
鍵が回る音がして、ドアが開く。
白い玄関。靴箱。奥に伸びる廊下。
靴を脱いで中に入った瞬間、前回と同じように、空気が一段階変わった気がした。
広い。
静か。
少し、ひんやりしている。
「前回と特に変更はありませんが、今日は設備の細かいところも見ていただければと」
「は、はい……」
担当者の声はほとんど頭に入ってこない。
ねむはリビングへ進むと、その場に立ち止まった。
何も置かれていない十三畳の空間。
窓から入る光が、床に四角く落ちている。
前回見たときよりも、「ここに自分のものが置かれている未来」が鮮明に浮かぶ。
配信デスク。
歌のブース。
ソファ。
お気に入りのクッション。
本棚。
衣装ラック。
(……全部、置ける)
心の中の声が、小さくそう呟いた。
「水回りももう一度確認しようか」
レンの声で、我に返る。
シンクの高さ。
コンロの数。
換気扇の音。
バスルームの広さ。
独立洗面台の鏡。
担当者が一つずつ説明してくれるたびに、「普通の生活者」としての感覚と、「配信者」としての感覚が交互に顔を出す。
「洗面台、照明が優しいですね……。配信前のメイク、しやすそう……」
「鏡の横にもコンセントあるから、コテもドライヤーも同時に使えるよ」
「そんな贅沢な……」
口から勝手に出た言葉に、自分で苦笑する。
寝室候補の部屋に入ったとき、ねむは床にしゃがみ込んだ。
窓からの光が、ちょうどベッドを置くであろう位置に落ちている。
「ここに、ベッド置いたら……」
朝、目が覚めて。
天井を見上げて。
隣の部屋から、まだ片付け途中の楽器の匂いがして。
リビングから、パソコンのファンの音が小さく聞こえて。
「……変わっちゃうんだなぁ」
思わず漏れたその一言を、レンが聞き逃さなかった。
「“変わる”のは、怖い?」
「……怖い、です。
でも、“変わらないまま”も、怖い、です」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
「このまま六畳にいたら、きっと……どこかで限界来るんだろうなって。
でも、新しいところに行ったら、“今の私”じゃいられない気もして……」
ねむは床から立ち上がり、拳をぎゅっと握った。
「本当に、ここに来ていいのかなって。
まだ“早い”んじゃないかなって」
「“早い”かどうかを決めるのは、ねむじゃなくて――って話、前回したよね」
「視聴者さん、でしたっけ」
「そう。
もうひとつは、“ねむ自身の喉と心”だよ」
レンはリビングの方へ視線を向ける。
「今の六畳でも、まだなんとかやっていける。
でも、“この先5年”を考えたら?
歌も、配信も、案件も、収録も、増えていく。
そのとき、どっちの環境にいる方が、ねむらしい?」
ねむは目を閉じて、イメージしてみた。
六畳の部屋。
マイクの音量を気にしながら歌う自分。
隣室の物音がするたび、びくっとする自分。
深夜配信のあと、ベッドに倒れ込んで、そのまま寝落ちする自分。
二LDKの部屋。
ブースの中で、思いきり声を出す自分。
リビングのソファで、歌詞ノートを広げる自分。
寝室で、ちゃんと寝る準備をしてから眠る自分。
「……こっち、かも」
自然と、後者を選んでいた。
「でも、なんか……“いい人ぶってる”みたいで、恥ずかしいです。
“環境のせいにしてない?”って言われそうだし」
「いい人ぶっていいよ」
レンはあっさりと言った。
「いい環境の方が、いい仕事ができる。その方が、結果的にみんなにとってもいい。
“環境のせいにしてる”って言ってくる人は、たぶん、環境の整え方を知らないだけだよ」
「……そんな、言い切っていいんですか?」
「マネージャーだからね。
“整える側”の事情としては、そう言い切れる」
ねむは、少しだけ笑った。
怖さは、まだ消えない。
でも、“怖いと同時に、ここに立っていたい”という感情が、確かにある。
「東雲社長からも、一応伝言」
「え……」
「“ねむが嫌じゃないなら、あの部屋、会社としても全力で支える。
数字に見合った環境を、遠慮せずに使ってほしい”って」
「……」
東雲隼の顔が頭に浮かぶ。
配信の時に見せる冗談まじりの社長顔ではなく、昨日の会議で見た真剣な眼差し。
(遠慮、かぁ)
ねむはリビングに戻り、もう一度真ん中に立った。
何もない床に、自分の足音だけが響く。
「……ここで、“ただいま”って言っていいですか?」
誰に向けてというわけでもなく、そう呟いた。
レンは少しだけ首をかしげる。
「試しに、言ってみたら?」
「えっ、今……?」
「今」
ねむは喉を鳴らし、小さく咳払いをした。
少しだけ腰を落とし、イメージする。
配信終わり。
案件終わり。
夜のスタジオから帰ってきて。
玄関を開けて、靴を脱いで。
「……ただいま」
リビングの空気が、一瞬だけ揺れたように感じた。
誰も「おかえり」とは言ってくれない。
まだ家具も、何もない。
でも、自分の声が、ここに“居てもいい”と許してくれた気がした。
「……ここに、住みたいです」
今度は、はっきりとした声で言った。
レンの表情が、そこでやっと変わる。
仕事用の、冷静な目が、少しだけ“嬉しそうな大人”のものになった。
「うん。じゃあ――契約の話、進めようか」
◆
契約の説明は、正直、ほとんど呪文だった。
敷金。礼金。仲介手数料。
更新料。火災保険。保証会社。
事務所名義と個人名義の比率。
芸能・配信業者としての特約条項。
ねむは重要そうなところにだけ全力で耳を傾け、それ以外は必死にメモを取り続けた。
(こんなの、一人じゃ絶対無理……)
途中で一度、軽く眩暈がしたくらいだ。
そのたびに、横でレンがさりげなくフォローしてくれる。
「この部分は、ルミエール側で負担します」
「ここはうちの社内規定ともすり合わせるので、持ち帰りで」
「タレントさんは、ここだけ理解しておいてくれれば大丈夫です」
管理会社の人も慣れたもので、“タレント本人にどこまで説明するか”の線引きがうまい。
書類にサインをする瞬間だけ、ねむの手は震えた。
自分の名前。
本名。
白露ねむじゃない、もうひとつの名前。
その文字が、この二LDKと結びつく。
「今日のところは、これで大丈夫です。
入居は最短で来月頭から可能ですが、配信機材などの搬入スケジュールは事務所さんとご相談のうえで」
「はい……」
説明が全て終わったとき、ねむはどっと疲れが押し寄せて、リビングの真ん中にぺたりと座り込んでしまった。
「おつかれ」
レンが、さっきの紙袋からのど飴を一つ差し出す。
「今日は、もう“十分すぎる”くらい頑張ったよ」
「……なんか、まだ実感ないです」
「実感は、荷物が入ってからでいい。
それまでは、“少し広いスタジオの下見”だと思ってて」
「スタジオ……」
その言葉に、ほんの少しだけ胸が高鳴る。
「そういえば」
レンがスマホを取り出し、にやりと笑った。
「引越しの件、タレントの何人かにはもう話してあるんだけど」
「えっ」
「みんな“手伝う”って。
さっきもグループチャット、うるさかったでしょ」
ねむは自分のスマホを取り出し、通知を開いた。
【Lumière/Talents】
天音ルナ:
《ねむの新居祝い、いつ????》
白神ナオ:
《掃除担当ならまかせて》
天ヶ瀬カイ:
《冷蔵庫だけは俺に運ばせろ(筋トレ)》
星野コウ:
《配線係:俺》
笠原サチ:
《カーテン選びたいです!!》
春名ミナト:
《照明とカメラ位置、全部やりたい……》
凪野レオ:
《ゲーム用の回線引く時呼んで》
黒瀬ミオ:
《観葉植物係》
神崎ユウマ:
《音の反響チェックする》
ねむは、思わず吹き出した。
「なにこれ……」
「引越しって、“イベント”だからね。
箱としても、単純に楽しいし」
「私、なんか……すごい派手なことになってます?」
「大丈夫。
そのぶん、片付けも一気に終わるから」
レンは肩をすくめた。
「近いうちに、一回“新居レイアウト会議”を事務所でやろう。
配信デスクどこに置くか、歌ブースどこに置くか、照明のラインどうするか」
「なんですかその楽しそうな会議……」
「むしろれむが主役だから。覚悟しといて」
◆
マンションを出るころには、夕方の気配が少しずつ街を染め始めていた。
駅までの道を歩きながら、ねむは何度もマンションを振り返った。
「……本当に、決めちゃったんだ」
「うん。
“決めちゃった”って言い方、嫌い?」
「いえ、なんか……
すごく、まだ“借りた言葉”って感じがして」
「そのうち、“自分の言葉”になるよ」
レンは信号待ちの横断歩道で立ち止まり、空を見上げた。
「ねむ」
「はい」
「引越しして、環境が良くなって。
歌い方とか、配信の感じとか、変わると思う?」
「……たぶん、変わると思います。
良くも悪くも」
「うん。
そのとき、“今まで通りでいてほしい”って言う人も出てくるかもしれない」
ねむは、ぎゅっと手を握りしめた。
「“売れたら変わった”とか、そういうこと……ですか」
「うん」
レンはあっさりと頷く。
「だけど、僕は――マネージャーとしては、“変わってくれた方がいい”と思ってる。
変わらないままの方が、むしろ心配」
「……」
「だから、もし誰かに“変わったね”って言われたら」
レンは少し笑って、ねむの方を見た。
「“ありがとうございます”って、言ってみて」
「えっ」
「“変われるくらい、ちゃんと生きてるってことなので”って」
そんな答え方、考えたこともなかった。
ねむは、胸の奥がじん、と熱くなるのを感じた。
「……水城さんって、たまに卑怯ですよね」
「え、どこが」
「そうやって、いいこと言って……
私に、“もう一歩だけ頑張ってみようかな”って思わせるところ」
「それはマネージャーの仕事なので」
あっさり返されて、ねむは笑いながら目頭を押さえた。
「泣くなら新居で泣きなよ」
「……そうですね。
六畳の床、泣きすぎてきっともう湿ってますし」
「それはそれでホラーだからやめて」
◆
その日の夜。
ねむは帰宅してすぐ、六畳一間の真ん中に立った。
ベッド。
配信デスク。
ハンガーラック。
段ボール。
コンセントに刺さったままのタップ。
さっき契約してきた二LDKと、目の前の六畳が、頭の中で二重写しになる。
「……ここから、出ていくんだ」
少しだけ寂しくて、でもそれ以上に、不思議な気持ちだった。
スマホを取り出し、タレントグループにメッセージを打つ。
白露ねむ:
《今日、例の二LDKと正式に契約しました……!》
《引越しの日程が決まったら、また共有します》
《手伝うって言ってくれて、本当にありがとう》
すぐに返事が来た。
天音ルナ:
《やったあああ!!》
《新居配信いつ!?!?》
天ヶ瀬カイ:
《冷蔵庫担当だからな。俺が運ぶ》
白神ナオ:
《掃除と収納、全力でやります》
神崎ユウマ:
《とりあえず、床の反響と壁の響き、測らせて》
星野コウ:
《PCと配線は任せろ》
花咲ユリ:
《カーテンとラグの色、相談のせてね》
笠原サチ:
《新居に似合うクッション持っていきます!!》
春名ミナト:
《照明組むの楽しみすぎる》
凪野レオ:
《ゲーム部屋できるなら俺も住みたい》
黒瀬ミオ:
《観葉植物、選んどく》
氷室リア(他箱):
《招待待ってます(配信越しで)》
ねむは、スマホを胸に押し当てた。
「……なんかもう、“一人で引越しする”って感じしないな」
六畳の部屋の天井は、相変わらず低い。
でも、今日だけは、その向こう側に二LDKの天井がきちんと繋がっているように感じた。
配信デスクに座り、PCの電源を入れる。
今夜は、短めの雑談枠だ。
「正式にお部屋が決まりました報告」と、「今日から少しずつ片付けしよう雑談」。
配信ツールを立ち上げて、マイクの音量を確認する。
「……よし」
配信開始のボタンにカーソルを合わせる前に、ねむは小さく呟いた。
「配信、まだ……切れてませんよ?」
それは、視聴者に向けた言葉であり、
六畳の部屋に向けた言葉であり、
二LDKの未来に向けた言葉でもあった。
“変わること”が、もう前ほど怖くはなかった。
――クリック。
赤い「LIVE」が、いつも通り画面の隅に灯る。
「こんばんは。白露ねむです。
えっと……今日は、みんなに大事なお話があって――」
六畳と二LDKのあいだで、
ねむの声は、少しだけ誇らしげに震えていた。
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