第34話 六畳と二LDKのあいだで

 洗濯機の終了音が鳴るより先に、スマホの通知音が小さく震えた。


 白露ねむは、部屋着のままベッドの上で丸まっていた身体をむりやり起こす。

 カーテンの隙間から差し込む昼の光が、六畳一間の天井を淡く照らしていた。


(……今日だ)


 スマホのロック画面には、カレンダーの予定が表示されている。


 ――13:00 物件見学(2回目)+契約相談

 ――水城さんと駅待ち合わせ


 文字を見ただけで、心臓が一段階早くなる。


「……はあ」


 ため息とも深呼吸ともつかない息を吐いて、ねむはベッドから降りた。

 足が床につくと、いつもの六畳が一気に“現実”になる。


 ベッド。

 配信デスク。

 小さな本棚。

 壁には防音材。

 足元にはケーブル。


「今日で……この部屋、“ただいま”じゃなくなるかもしれないのか」


 口に出してみると、その言葉は思ったより重たくて、胸の奥に沈んだ。



 顔を洗って、軽くメイクをする。

 鏡に映る自分は、いつもより少し真面目そうだった。


 配信用のがっつりメイクではないけれど、

 ご近所コンビニに行く顔でもない。


 髪をゆるくまとめ、シンプルなブラウスに、落ち着いた色のロングスカート。

 胸元には、ファンからもらった小さな星型のネックレスをつける。


「……よし」


 最後に、配信デスクの前に立った。


 マイク。

 モニター。

 リングライト。

 サブモニターの前には、昨夜の配信時に飲みかけたペットボトルがまだ残っている。


 画面には、昨日のアーカイブのコメント欄が開いたままだ。


【アーカイブ視聴勢】

 ・新居どうなるんだろ

 ・れむちゃんの声、もっと伸びるんだろうな

 ・環境良くしてあげて〜〜〜

 ・六畳卒業おめ!って言える日が来るのかな


「……勝手に卒業させないでよ」


 そう言いながら、ねむは笑う。

 でも、頬の内側はほんの少しだけ、苦い。


「ちゃんと……自分で決めるんだから」


 モニターの電源を落としてから、部屋をぐるりと見渡した。


 ここで泣いて、笑って、歌って、寝落ちして。

 この六畳の空間に、“白露ねむ”のほとんど全部が詰まっている。


 靴を履く前に、もう一度だけ呟いた。


「行ってきます」


 誰にともなく。



 駅前のロータリーは、平日の昼にしては人が多かった。

 春の終わり。制服姿の高校生と、スーツの人たちが入り混じっている。


「ねむちゃん、こっち」


 声のした方を見ると、カフェの前で手を振る水城レンがいた。


 ジャケットの袖をまくって、片手には紙袋。

 いつものノートPCの入ったカバンも持っている。


「お、おはようございます……」


「おはよう。緊張してる?」


「……まあ……少しだけ」


「“少しだけ”って言えるなら大丈夫だよ」


 レンは笑いながら、紙袋を差し出した。


「これ、差し入れ。栄養バーと、のど飴と、カフェイン少なめのペットボトル」


「なんですかこの完璧セット……」


「今日、たぶん頭も心も疲れるからね」


 紙袋は予想より軽くて、そのぶん気持ちがふっと軽くなった気がする。


「じゃあ、行こうか」


「はい」


 駅前からバスに乗り、数駅先で降りる。

 窓からは、少しだけ緑の多い住宅街が見えた。


 レンは、道すがらも仕事モードのようで、時々スマホを確認してはタレントグループにメッセージを飛ばしている。


「……なんか、連絡多くないですか?」


「さあ? 今日何かあるんじゃない?」


 意味ありげな笑い方に、ねむは眉をひそめた。


「なにか……?」


「着いてからのお楽しみ」


「こわ……」



 白いタイル張りのマンションが見えてきたとき、ねむの足は自然と遅くなった。


 前回来たときと同じ建物。

 でも、今日は“決めに来た”という重さが違う。


 オートロックを抜け、エレベーターに乗り、五階へ。


「深呼吸、忘れずにね」


「……はい」


 エレベーターのドアが開く。

 歩き慣れてはいない廊下の端に、例の玄関ドアがあった。


 前回と同じ管理会社の担当者が待っていて、軽く会釈する。


「本日もよろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 レンとの挨拶が終わるころには、ねむの心臓は完全に“配信前”のそれになっていた。


(……今から、人生の“新ステージ”ボタン押すみたいな感じだ……)


 鍵が回る音がして、ドアが開く。

 白い玄関。靴箱。奥に伸びる廊下。


 靴を脱いで中に入った瞬間、前回と同じように、空気が一段階変わった気がした。


 広い。

 静か。

 少し、ひんやりしている。


「前回と特に変更はありませんが、今日は設備の細かいところも見ていただければと」


「は、はい……」


 担当者の声はほとんど頭に入ってこない。


 ねむはリビングへ進むと、その場に立ち止まった。


 何も置かれていない十三畳の空間。

 窓から入る光が、床に四角く落ちている。


 前回見たときよりも、「ここに自分のものが置かれている未来」が鮮明に浮かぶ。


 配信デスク。

 歌のブース。

 ソファ。

 お気に入りのクッション。

 本棚。

 衣装ラック。


(……全部、置ける)


 心の中の声が、小さくそう呟いた。


「水回りももう一度確認しようか」


 レンの声で、我に返る。


 シンクの高さ。

 コンロの数。

 換気扇の音。

 バスルームの広さ。

 独立洗面台の鏡。


 担当者が一つずつ説明してくれるたびに、「普通の生活者」としての感覚と、「配信者」としての感覚が交互に顔を出す。


「洗面台、照明が優しいですね……。配信前のメイク、しやすそう……」


「鏡の横にもコンセントあるから、コテもドライヤーも同時に使えるよ」


「そんな贅沢な……」


 口から勝手に出た言葉に、自分で苦笑する。


 寝室候補の部屋に入ったとき、ねむは床にしゃがみ込んだ。


 窓からの光が、ちょうどベッドを置くであろう位置に落ちている。


「ここに、ベッド置いたら……」


 朝、目が覚めて。

 天井を見上げて。

 隣の部屋から、まだ片付け途中の楽器の匂いがして。

 リビングから、パソコンのファンの音が小さく聞こえて。


「……変わっちゃうんだなぁ」


 思わず漏れたその一言を、レンが聞き逃さなかった。


「“変わる”のは、怖い?」


「……怖い、です。

 でも、“変わらないまま”も、怖い、です」


 自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。


「このまま六畳にいたら、きっと……どこかで限界来るんだろうなって。

 でも、新しいところに行ったら、“今の私”じゃいられない気もして……」


 ねむは床から立ち上がり、拳をぎゅっと握った。


「本当に、ここに来ていいのかなって。

 まだ“早い”んじゃないかなって」


「“早い”かどうかを決めるのは、ねむじゃなくて――って話、前回したよね」


「視聴者さん、でしたっけ」


「そう。

 もうひとつは、“ねむ自身の喉と心”だよ」


 レンはリビングの方へ視線を向ける。


「今の六畳でも、まだなんとかやっていける。

 でも、“この先5年”を考えたら?

 歌も、配信も、案件も、収録も、増えていく。

 そのとき、どっちの環境にいる方が、ねむらしい?」


 ねむは目を閉じて、イメージしてみた。


 六畳の部屋。

 マイクの音量を気にしながら歌う自分。

 隣室の物音がするたび、びくっとする自分。

 深夜配信のあと、ベッドに倒れ込んで、そのまま寝落ちする自分。


 二LDKの部屋。

 ブースの中で、思いきり声を出す自分。

 リビングのソファで、歌詞ノートを広げる自分。

 寝室で、ちゃんと寝る準備をしてから眠る自分。


「……こっち、かも」


 自然と、後者を選んでいた。


「でも、なんか……“いい人ぶってる”みたいで、恥ずかしいです。

 “環境のせいにしてない?”って言われそうだし」


「いい人ぶっていいよ」


 レンはあっさりと言った。


「いい環境の方が、いい仕事ができる。その方が、結果的にみんなにとってもいい。

 “環境のせいにしてる”って言ってくる人は、たぶん、環境の整え方を知らないだけだよ」


「……そんな、言い切っていいんですか?」


「マネージャーだからね。

 “整える側”の事情としては、そう言い切れる」


 ねむは、少しだけ笑った。


 怖さは、まだ消えない。

 でも、“怖いと同時に、ここに立っていたい”という感情が、確かにある。


「東雲社長からも、一応伝言」


「え……」


「“ねむが嫌じゃないなら、あの部屋、会社としても全力で支える。

 数字に見合った環境を、遠慮せずに使ってほしい”って」


「……」


 東雲隼の顔が頭に浮かぶ。

 配信の時に見せる冗談まじりの社長顔ではなく、昨日の会議で見た真剣な眼差し。


(遠慮、かぁ)


 ねむはリビングに戻り、もう一度真ん中に立った。


 何もない床に、自分の足音だけが響く。


「……ここで、“ただいま”って言っていいですか?」


 誰に向けてというわけでもなく、そう呟いた。


 レンは少しだけ首をかしげる。


「試しに、言ってみたら?」


「えっ、今……?」


「今」


 ねむは喉を鳴らし、小さく咳払いをした。


 少しだけ腰を落とし、イメージする。

 配信終わり。

 案件終わり。

 夜のスタジオから帰ってきて。

 玄関を開けて、靴を脱いで。


「……ただいま」


 リビングの空気が、一瞬だけ揺れたように感じた。


 誰も「おかえり」とは言ってくれない。

 まだ家具も、何もない。


 でも、自分の声が、ここに“居てもいい”と許してくれた気がした。


「……ここに、住みたいです」


 今度は、はっきりとした声で言った。


 レンの表情が、そこでやっと変わる。

 仕事用の、冷静な目が、少しだけ“嬉しそうな大人”のものになった。


「うん。じゃあ――契約の話、進めようか」



 契約の説明は、正直、ほとんど呪文だった。


 敷金。礼金。仲介手数料。

 更新料。火災保険。保証会社。

 事務所名義と個人名義の比率。

 芸能・配信業者としての特約条項。


 ねむは重要そうなところにだけ全力で耳を傾け、それ以外は必死にメモを取り続けた。


(こんなの、一人じゃ絶対無理……)


 途中で一度、軽く眩暈がしたくらいだ。


 そのたびに、横でレンがさりげなくフォローしてくれる。


「この部分は、ルミエール側で負担します」

「ここはうちの社内規定ともすり合わせるので、持ち帰りで」

「タレントさんは、ここだけ理解しておいてくれれば大丈夫です」


 管理会社の人も慣れたもので、“タレント本人にどこまで説明するか”の線引きがうまい。


 書類にサインをする瞬間だけ、ねむの手は震えた。


 自分の名前。

 本名。

 白露ねむじゃない、もうひとつの名前。


 その文字が、この二LDKと結びつく。


「今日のところは、これで大丈夫です。

 入居は最短で来月頭から可能ですが、配信機材などの搬入スケジュールは事務所さんとご相談のうえで」


「はい……」


 説明が全て終わったとき、ねむはどっと疲れが押し寄せて、リビングの真ん中にぺたりと座り込んでしまった。


「おつかれ」


 レンが、さっきの紙袋からのど飴を一つ差し出す。


「今日は、もう“十分すぎる”くらい頑張ったよ」


「……なんか、まだ実感ないです」


「実感は、荷物が入ってからでいい。

 それまでは、“少し広いスタジオの下見”だと思ってて」


「スタジオ……」


 その言葉に、ほんの少しだけ胸が高鳴る。


「そういえば」


 レンがスマホを取り出し、にやりと笑った。


「引越しの件、タレントの何人かにはもう話してあるんだけど」


「えっ」


「みんな“手伝う”って。

 さっきもグループチャット、うるさかったでしょ」


 ねむは自分のスマホを取り出し、通知を開いた。


【Lumière/Talents】

天音ルナ:

《ねむの新居祝い、いつ????》

白神ナオ:

《掃除担当ならまかせて》

天ヶ瀬カイ:

《冷蔵庫だけは俺に運ばせろ(筋トレ)》

星野コウ:

《配線係:俺》

笠原サチ:

《カーテン選びたいです!!》

春名ミナト:

《照明とカメラ位置、全部やりたい……》

凪野レオ:

《ゲーム用の回線引く時呼んで》

黒瀬ミオ:

《観葉植物係》

神崎ユウマ:

《音の反響チェックする》


 ねむは、思わず吹き出した。


「なにこれ……」


「引越しって、“イベント”だからね。

 箱としても、単純に楽しいし」


「私、なんか……すごい派手なことになってます?」


「大丈夫。

 そのぶん、片付けも一気に終わるから」


 レンは肩をすくめた。


「近いうちに、一回“新居レイアウト会議”を事務所でやろう。

 配信デスクどこに置くか、歌ブースどこに置くか、照明のラインどうするか」


「なんですかその楽しそうな会議……」


「むしろれむが主役だから。覚悟しといて」



 マンションを出るころには、夕方の気配が少しずつ街を染め始めていた。


 駅までの道を歩きながら、ねむは何度もマンションを振り返った。


「……本当に、決めちゃったんだ」


「うん。

 “決めちゃった”って言い方、嫌い?」


「いえ、なんか……

 すごく、まだ“借りた言葉”って感じがして」


「そのうち、“自分の言葉”になるよ」


 レンは信号待ちの横断歩道で立ち止まり、空を見上げた。


「ねむ」


「はい」


「引越しして、環境が良くなって。

 歌い方とか、配信の感じとか、変わると思う?」


「……たぶん、変わると思います。

 良くも悪くも」


「うん。

 そのとき、“今まで通りでいてほしい”って言う人も出てくるかもしれない」


 ねむは、ぎゅっと手を握りしめた。


「“売れたら変わった”とか、そういうこと……ですか」


「うん」


 レンはあっさりと頷く。


「だけど、僕は――マネージャーとしては、“変わってくれた方がいい”と思ってる。

 変わらないままの方が、むしろ心配」


「……」


「だから、もし誰かに“変わったね”って言われたら」


 レンは少し笑って、ねむの方を見た。


「“ありがとうございます”って、言ってみて」


「えっ」


「“変われるくらい、ちゃんと生きてるってことなので”って」


 そんな答え方、考えたこともなかった。


 ねむは、胸の奥がじん、と熱くなるのを感じた。


「……水城さんって、たまに卑怯ですよね」


「え、どこが」


「そうやって、いいこと言って……

 私に、“もう一歩だけ頑張ってみようかな”って思わせるところ」


「それはマネージャーの仕事なので」


 あっさり返されて、ねむは笑いながら目頭を押さえた。


「泣くなら新居で泣きなよ」


「……そうですね。

 六畳の床、泣きすぎてきっともう湿ってますし」


「それはそれでホラーだからやめて」



 その日の夜。


 ねむは帰宅してすぐ、六畳一間の真ん中に立った。


 ベッド。

 配信デスク。

 ハンガーラック。

 段ボール。

 コンセントに刺さったままのタップ。


 さっき契約してきた二LDKと、目の前の六畳が、頭の中で二重写しになる。


「……ここから、出ていくんだ」


 少しだけ寂しくて、でもそれ以上に、不思議な気持ちだった。


 スマホを取り出し、タレントグループにメッセージを打つ。


白露ねむ:

《今日、例の二LDKと正式に契約しました……!》

《引越しの日程が決まったら、また共有します》

《手伝うって言ってくれて、本当にありがとう》


 すぐに返事が来た。


天音ルナ:

《やったあああ!!》

《新居配信いつ!?!?》


天ヶ瀬カイ:

《冷蔵庫担当だからな。俺が運ぶ》


白神ナオ:

《掃除と収納、全力でやります》


神崎ユウマ:

《とりあえず、床の反響と壁の響き、測らせて》


星野コウ:

《PCと配線は任せろ》


花咲ユリ:

《カーテンとラグの色、相談のせてね》


笠原サチ:

《新居に似合うクッション持っていきます!!》


春名ミナト:

《照明組むの楽しみすぎる》


凪野レオ:

《ゲーム部屋できるなら俺も住みたい》


黒瀬ミオ:

《観葉植物、選んどく》


氷室リア(他箱):

《招待待ってます(配信越しで)》


 ねむは、スマホを胸に押し当てた。


「……なんかもう、“一人で引越しする”って感じしないな」


 六畳の部屋の天井は、相変わらず低い。

 でも、今日だけは、その向こう側に二LDKの天井がきちんと繋がっているように感じた。


 配信デスクに座り、PCの電源を入れる。


 今夜は、短めの雑談枠だ。

 「正式にお部屋が決まりました報告」と、「今日から少しずつ片付けしよう雑談」。


 配信ツールを立ち上げて、マイクの音量を確認する。


「……よし」


 配信開始のボタンにカーソルを合わせる前に、ねむは小さく呟いた。


「配信、まだ……切れてませんよ?」


 それは、視聴者に向けた言葉であり、

 六畳の部屋に向けた言葉であり、

 二LDKの未来に向けた言葉でもあった。


 “変わること”が、もう前ほど怖くはなかった。


 ――クリック。


 赤い「LIVE」が、いつも通り画面の隅に灯る。


「こんばんは。白露ねむです。

 えっと……今日は、みんなに大事なお話があって――」


 六畳と二LDKのあいだで、

 ねむの声は、少しだけ誇らしげに震えていた。

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