第33話 はじめての二LDK
目覚ましの音より先に、スマホの通知音がねむを起こした。
まぶたの内側が、うっすらと明るい。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、六畳一間の天井を白くなぞっている。
(……あさ……?)
枕元をまさぐってスマホを探し、画面をつける。通知の数字が、いつもより明らかに多かった。
Xの未読:99+
Discord:@メンション4
事務所メール:3
ぼんやりした頭で、昨日の夜を思い出す。
――祝50万人記念配信。
――アニメED曲の話。
――Nem’s Night プロジェクトの発表。
――「ここからがスタートだな」と笑った東雲社長。
――「環境整えようね」と言ってくれた水城レン。
「……あ、そうだ」
ねむはようやく、頭の中で数字の形をつかまえた。
登録者数:510,000人。
昨夜のアーカイブ再生:すでに四十万を超えたという通知。
現実感は、まだ薄い。
でも通知の量だけは、容赦なく“今”を突きつけてくる。
布団から上半身を起こす。エアコンの風が少し肌寒い。
目の高さで、配信ブースが視界に入る。
IKEAで買った小さいデスク。
その上に、マイクスタンドと安めのアーム。
背後に貼った防音スポンジは、ところどころ角がめくれている。
リングライトは、脚が一本ガムテープでぐるぐる巻きだ。
「……おはよう、ねむ」
自分にだけ聞こえる声でそう言ってから、ねむはベッドから降りた。
◆
朝ごはんは、いつものメニューだった。
トースト一枚と、コンビニのカップスープ。
喉のためのハチミツ入りあったかいお湯。
冷蔵庫の中には、昨日ファンから届いたフルーツゼリーが三つ。
テーブル代わりのローテーブルにそれらを並べる。
座椅子にぺたりと座って、ねむはスマホを立てかけた。
Xのタイムラインには、まだ「#おやすみが届いた日」「#ねむちゃん50万人おめでとう」が流れている。
絵師たちが描いた新しいファンアート。
アニメのワンカット風に仕上げた“ねむと夜景”のイラスト。
寝落ちしてしまったリスナーが、「アーカイブ見てまた泣いた」と書いたポスト。
(……すごいなぁ)
ねむはスープをひと口飲んでから、画面をスクロールする指を止めた。
自分のアイコンが、タイムラインのあちこちに浮かんでいる。
どれも、少しずつ違う「白露ねむ」だった。
かわいく描いてくれる人。
綺麗に描いてくれる人。
どこか疲れた目をしているねむを描く人。
(こんなに、見てくれてるんだ)
胸の奥が、ふわっと温かくなって、それと同じくらいきゅっと縮む。
視線を上げる。
ワンルームの全体が、あらためて目に入った。
壁一面に貼られたメモ。
歌いたい曲リスト。
コラボ案。
ネタ帳。
借りてきた譜面。
その全部が、六畳の空間にぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
クローゼットの前には、段ボールがひとつ。
過去の配信で使った小道具と、まだ出していないグッズのサンプル。
足元には、開きっぱなしのケーブル箱。
ねむはスープのカップをテーブルに置き、立ち上がった。
配信デスクに近づいて、リングライトの脚をそっと撫でる。
ガムテープの段差に指先が引っかかった。
「……ありがとね。ここまで、一緒に頑張ってくれて」
誰にともなくそう呟く。
ライトも、机も、防音材も、みんな“最初から”の仲間だ。
でも――
(このまま、ここで……は、もう限界かも)
歌枠をするたび、隣室に音が漏れないかびくびくしていた。
深夜雑談をするたび、下の階の人のことを考えて音量を下げた。
それでも「白露ねむ」としてやっていきたくて、無理やりこの部屋に押し込んできた。
昨日の会議で、東雲社長が言った言葉が、耳に蘇る。
『ねむの活動は、もう“趣味の延長”じゃない。
ちゃんと守るし、ちゃんと投資する。引越しとスタジオの話を、レンと詰めておいてくれ』
スープの湯気が、少しだけ目にしみた。
「……引越し、かぁ」
口に出してみると、それは想像より重たくて、同時にちょっと甘い響きだった。
◆
洗濯機を回して、簡単に掃除機をかける。
浴室乾燥に洗濯物を吊るしていると、スマホが震えた。
ディスコードの通知。
ルミエール/Talent & Staff サーバから、個人宛メンション。
水城レン:
《おはよう、ねむちゃん。体調どう?》
ねむは濡れた手をタオルで拭き、急いで返信した。
白露ねむ:
《おはようございます。大丈夫です!ちゃんと起きてます……!》
すぐに返事が来た。
水城レン:
《よかった。今日、このあと少し時間ある?》
《例の“生活と環境”の話、具体的にしようかなと思って》
心臓が、どくん、とひとつ鳴る。
(……来た)
ねむはスマホを持つ手にぎゅっと力を込めた。
白露ねむ:
《はい、大丈夫です……!》
《お昼過ぎなら、いつでも》
水城レン:
《じゃあ、駅前のカフェで13時からどう?》
《ついでに、ひとつ“見学”もしよう》
“見学”という単語の意味を理解するのに、数秒かかった。
(見学……)
頭の中に、昨日チラッと見せられた資料の表紙が浮かぶ。
――「配信者向け防音対応物件リスト(都内)」
――「芸能・ストリーマー向け住宅サポート規約」
ねむは、喉の奥で小さく息を飲んだ。
白露ねむ:
《……はい。行きたい、です》
送信ボタンを押した指が、すこしだけ震えていた。
◆
駅前のカフェは、平日昼のわりに混んでいた。
仕事の合間らしいスーツ姿の人。
タブレットで何か描いている学生。
小さな子どもを連れた親子。
窓際の席で、レンはすでにノートPCを開いて待っていた。
シンプルなシャツにジャケット。
画面を覗き込む横顔は、配信画面のコメント欄を見ているときとよく似た真剣さを帯びている。
「あ、おはようございます……」
ねむがそっと声をかけると、レンは顔を上げて笑った。
「おはよう、ねむちゃん。来てくれてありがとう」
その笑顔が、ねむの中で“仕事”と“安心”をごちゃ混ぜにする。
席に座ると、足元が少し落ち着かない。
「飲み物、何にする?」
「あ、その……カフェラテで……」
「了解。じゃあ僕も同じやつで」
レンがさっと注文を済ませる。
ねむは膝の上で両手を組んで、小さく深呼吸した。
(大丈夫、大丈夫……ただの、会議。うん。ただの、会議……)
しばらくして運ばれてきたカフェラテは、カップの上に小さなハートのラテアートが描かれていた。
ねむは一瞬だけ目を丸くして、それから慌てて視線を逸らす。
「かわいいね」
「……見ないでください……」
「いや、ラテの話なんだけど」
「ラテも、です」
自分でも何を言っているのかわからなくなって、ねむは耳まで赤くなった。
レンはくすっと笑ってから、PCの画面をくるりとねむの方へ向けた。
「じゃあ、本題いこうか」
画面には、さっき見たばかりの数字が並んでいた。
【白露ねむ】
チャンネル登録者:511,000人(前日比+10,500)
直近30日再生:6,800,000
広告収益+スパチャ+メンバー:一定のレンジを超えて安定。
「……こんなに、増えてるんですね……」
「うん。アニメEDの影響もあるし、何より“おやすみの夜”からの流れが強い。
このくらいの規模になると、こっちも本格的に“投資”を考えなきゃいけない」
レンの指が、次のタブを開く。
そこには、いくつかの物件の写真と簡単なスペックが並んでいた。
所在地。広さ。間取り。築年数。防音性能。家賃。
「ねむちゃん、前に“歌のブースがほしい”って言ってたよね」
「……はい。あの、今の部屋だと、やっぱり不安で……」
「隣室に音が抜ける感覚、わかる。夜中の枠だと特にね。
で、昨日の社長との話で、“本格的に環境移行を進めよう”ってことになった」
ねむは思わず背筋を伸ばした。
「移行……って、引越しの……?」
「そう。もちろん、強制じゃないよ。
でも――ねむちゃんは、もう“プロ”なんだ。
環境が追いついてないのは、正直もったいない」
その言葉は、少し怖くて、同じくらい嬉しかった。
“プロ”。
頭の中でその音を転がしてみる。
まだしっくりこない。
でも、レンの声に乗ると、すこしだけ本物みたいに聞こえた。
「今日は、その候補の中から、ひとつだけ――
実際に見に行ってみない?」
レンが指し示した先には、ひときわ大きな間取り図が映っていた。
【2LDK/58㎡/築5年/防音仕様】
リビング:13畳
洋室①:6畳(寝室想定)
洋室②:6畳(スタジオ想定)
家賃:22万(※事務所サポート適用で実質11万)
「…………っ」
喉の奥に、言葉にならない息がつっかえた。
六畳一間の世界しか知らなかったねむには、五十八平方メートルはほとんど“別世界”の単語だ。
「そんな、広すぎませんか……? 私……ひとり、なのに……」
「広い方がいいよ。
歌う場所と、寝る場所と、ごはん食べる場所は分けた方がいい。
心も、喉も、長持ちする」
レンは淡々と、でもどこか優しく言った。
「もちろん、実際に見てみて“違うな”と思ったらやめていい。
今日は、体感してほしいだけ」
ねむは、自分の指先がカップの縁をぎゅっと掴んでいるのに気づいた。
(……見たい。
見て、みたい。
でも――)
怖さもあった。
“今のねむ”には場違いなんじゃないか、という感覚。
そんな躊躇の隙間に、レンの声がすっと入り込んだ。
「ねむちゃん」
「……はい」
「君はもう、“そういう部屋”を使っていい段階にいるよ。
それくらいのことは、胸張っていい」
カフェのざわめきが、一瞬だけ遠のいたように感じた。
胸の真ん中に、ぽん、と小さな灯りがともる。
「……行って、みたいです」
ねむは、できるだけまっすぐな声でそう言った。
◆
物件は、ねむの今の家から電車で十五分ほどの場所にあった。
駅から少し歩いたところにある、白いタイル張りの中層マンション。
オートロックのエントランス。
宅配ボックス。
防犯カメラ。
共用部の案内板には、「ピアノ可」「楽器相談可」の表示。
ねむは、エントランスの前で一度足を止めた。
「……きれい……」
「築浅だからね。管理会社も配信者やアーティスト入居に慣れてるとこだよ」
レンが管理会社の担当者に挨拶し、暗証キーを押してドアを開ける。
ひんやりした空気が、外とは違う匂いで迎えてくれた。
エレベーターの中で、ねむは自分の顔を鏡越しに見た。
マスクで半分隠れているのに、目だけで緊張しているのがわかる。
横に立つレンの肩越しに、階数表示のランプが一つずつ光っていく。
五階で止まるチャイムが、心臓の鼓動と妙に同期していた。
「深呼吸、大丈夫?」
「……ちょっとだけ、怖いです」
「怖かったら、それはそれで教えて。
“今じゃない”ってサインかもしれないから」
ねむは小さくうなずいた。
◆
玄関の扉が開いた瞬間、空気が変わった。
白い壁。
木目がやわらかいフローリング。
細長い廊下の先に、窓から光が差し込んでいる。
「うわ……」
思わず声が漏れた。
靴を脱いで一歩踏み込む。
足裏に伝わるフローリングの感触が、今の部屋のそれと違う。
古い合板のきしみではなく、しっかりとした“面”がそこにある。
「こっちがリビング」
レンに続いて進むと、視界がいっきに開けた。
何もない空間。
大きな窓。
バルコニーの向こうに、遠くのビルの稜線。
天井の高さも、今の部屋より少し高い。
「十三畳……くらいですね」
管理会社の担当者が淡々と言う。
ねむは数字を聞き流して、ただぐるりと見渡した。
(広い……)
声に出したら、そのまま壁に跳ね返ってきそうなくらいの広さ。
ここに、机を二つ置いて――
ソファを一つ置いて――
配信用の棚を置いて――
歌の譜面を並べて――
頭の中で、家具が勝手に並び始める。
「ここに、簡易の防音ブースを置く想定で設計されてます」
担当者がリビングの一角を示した。
縦横2メートルほどのスペースに、天井吊り下げ用のフックとコンセントが集約されている。
「配信者さんや、歌い手さんがよく入居されるので。
遮音等級も高めにしてあります」
レンが横から補足する。
「壁の厚み、床の素材、窓のガラスの構造――全部、音の逃げ方を考えた仕様。
もちろん完璧じゃないけど、“今の六畳”よりはずっと気楽に歌えるよ」
ねむは、足先をそっとそのスペースに滑らせた。
立ってみると、本当に歌のブースを置いた自分の姿が想像できてしまう。
マイクスタンド。
ポップガード。
ヘッドホン。
譜面台。
歌詞を映したタブレット。
歌っている白露ねむ。
どこにもぶつからず、どこにも怯えず、自分の声を出せる空間。
「……ここで、歌っていいの……?」
気づけば、そう口にしていた。
レンは少しだけ目を細めて笑った。
「ねむちゃんが、歌いたいなら。
ここを、“ねむの声の部屋”にしてもいい」
胸の奥がきゅうっとなった。
怖さと嬉しさが同時に押し寄せると、涙腺の近くが勝手に熱くなる。
「ベッドルームは奥の洋室です」
担当者が廊下の先を指し示す。
ねむは慌てて瞬きをして、そちらへ歩いた。
六畳の部屋が二つ。
一つは寝室向きの落ち着いた色合い。
一つは少し明るいトーンで、収納も大きい。
たしかに、ここを衣装と小物の部屋にして、配信前の準備スペースにするのも楽しそうだ。
「寝る部屋と、歌う部屋と、ごはん食べる部屋が……全部、別なんだ……」
ぽつりとこぼした言葉に、自分で驚いた。
今まではベッドの横で配信をしていた。
起きた場所で、そのままおはよう配信をして、そこでご飯を食べて、そのまま倒れるように寝ていた。
全部が一つの箱の中に詰め込まれていた。
「……贅沢、すぎませんか……?」
本音だった。
自分だけ、こんな広いところに行ってしまっていいのか。
六畳一間で頑張っている配信者は、まだ山ほどいるのに。
レンは、ねむの言葉を否定も肯定もしない表情で聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「贅沢かどうかを決めるのは、ねむじゃなくて――」
「……じゃなくて?」
「“ねむを見てくれてる人たち”だと、僕は思うよ」
ねむが顔を上げると、レンは続けた。
「君がここで、前より元気に、前より楽しそうに、前よりいい声で歌ってくれるなら。
きっとみんな、“良かったね”って言ってくれる。
それなら、これは贅沢じゃない。必要経費」
事務的な言い回しなのに、妙にあたたかい。
ねむは言葉の意味を、胸の中で何度も転がした。
(前より元気に。前より楽しそうに。前よりいい声で)
そんなふうになれている自分を、想像できるだろうか。
――できてしまった。
リビングに簡易ブースを置いて、
ここで深夜の「おやすみ配信」をして、
別の日にはここで歌枠をして、
時々はキッチンから料理配信もして。
画面の向こうで、「部屋かわいい」「声が前より響いてる」と言ってもらえる自分。
想像をしただけで、頬の内側が熱くなった。
「……でも、私……たまに、すぐ怖くなっちゃうから……」
ぽつりと漏らすと、レンは首を横に振った。
「怖くなくなったら、それはそれで危ないよ」
「え……?」
「怖いまま、ちゃんと一歩ずつ進もうとしている人の方が、ずっと信用できる。
ねむちゃんは、いつもそうやってきたでしょ」
それは、ねむ自身よりも、ねむを知っている人の言葉だった。
喉の奥がつん、と痛くなった。
泣きそうになって、慌てて天井を見上げる。
「今日、ここで決めなくていいから」
レンが、少しだけ声を柔らかくした。
「一回全部忘れて、いつもの配信に戻ってみて。
それで、“それでもここがいいかも”って思ったら――そのときもう一回、見に来よう。
ねむのペースで決めていい」
「……はい」
「それに、別の候補もまだあるしね。
防音特化のワンルーム・スタジオタイプとか、ちょっと郊外だけど庭付きとか」
「じ、庭付き……?」
「庭でASMRできるよ」
「や、やめてください……そんなの、贅沢の極みじゃないですか……」
思わず笑ってしまった。
さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけほどける。
管理会社の人が、細かい設備説明を一通り終える。
ねむはその間にも、何度も視線をリビングと部屋の間で往復させた。
何度見ても、広かった。
何度見ても、“ここに自分が住む”という現実感は薄いまま。
でも、全くゼロではない。
◆
マンションを出る頃には、日が少し傾き始めていた。
歩道のアスファルトが、うっすらオレンジ色に光っている。
駅へ向かう道すがら、ねむは何度も振り返った。
白いタイル張りの建物。
さっきまで自分がいた五階のあたり。
「……不思議な感じ、ですね」
「うん?」
「さっきまで、あの中に私がいたんだって思うと……なんか……」
言葉を探していると、レンが代わりに続けた。
「“まだ夢みたい”って感じ?」
「……そうです。
夢みたい、だけど――」
ねむは一拍置いて、そっと言葉を足した。
「ちょっとだけ、現実になってくれてもいいかも、って……思いました」
レンは少しだけ驚いたような顔をしてから、ふっと目を細めた。
「それなら、十分。
今日は“それ”が聞きたかった」
信号待ちで立ち止まる。
隣でレンが、ポケットからスマホを取り出して、何かメモを打ち込んでいた。
「……そんなに、私のことでメモ取らなくていいですよ」
「いや、忘れたくないからね。
“白露ねむが初めて二LDKに足を踏み入れて、夢と現実の中間地点でこう言った”ってメモ」
「そんな長文のメモなんですか……」
「いつかパンフレットのネタにするから」
「絶対やめてください」
でも、そうやってからかってくれる温度が、ねむにはありがたかった。
怖さを残したまま、笑える余白がある。
◆
六畳の部屋に戻ってきたとき、ねむは玄関で立ち尽くした。
いつも見慣れた光景。
靴箱の上に乗った小さな観葉植物。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた本棚。
天井の低さ。
配信デスクのすぐ横に寄せられたベッド。
さっき見た二LDKが、急に遠くの国みたいに感じて、胸がざわつく。
荷物を置いて、防音材の貼られた壁に近づいた。
角の一つに指先を当てる。
紙やスポンジのざらついた感触。
そこに、いままでの夜が全部しみ込んでいる気がした。
「……ありがと」
小さな声でそう言う。
誰もいない部屋の空気が、少しだけ震えた。
「まだ、もうちょっとだけ……一緒にいてね」
そう続けてから、ねむは顔を上げた。
白露ねむの配信デスク。
安物のマイクスタンド。
ガムテープで補修されたリングライト。
その全部が、今の自分そのものだ。
でも――
(変わりたい、って思った)
二LDKの広いリビングに立ったとき、確かにそう感じた。
もっとちゃんと歌いたい。
もっとちゃんと眠りたい。
もっとちゃんと、みんなの「おやすみ」に応えたい。
「……引越し、しよっかな」
天井に向かって呟いてみる。
さっきより、言葉は少しだけ軽くなっていた。
スマホを手に取る。
DiscordのDM欄には、さっき別れたばかりのレンとの会話が残っている。
水城レン:
《今日はおつかれさま。ゆっくり休んでね》
《物件のことは、焦らなくていいから》
ねむは短く、でも慎重に文字を打った。
白露ねむ:
《ありがとうございました》
《……あの部屋、もう一回見たいなって、少し思いました》
送信ボタンを押す。
戻ってきた“既読”マークが、胸の奥をトン、と叩いた。
すぐに返事が届く。
水城レン:
《了解。じゃあ、来週もう一回、ゆっくり見に行こう》
《ねむの“歌う場所”の話、またしようね》
ねむはスマホを胸に抱えて、ベッドに倒れ込んだ。
天井はいつもの高さ。
でも今日だけは、その向こう側に、少し広い天井が続いている気がした。
「……歌、もっと上手くなれるかな」
自分にだけ聞こえる声でそう呟いて、目を閉じる。
六畳一間の静けさの中で、二LDKの未来が、まだかすかな音を立てて息をしていた。
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