第35話 新居レイアウト会議、恋の配置は未定です
六畳一間の床に、段ボールが積み上がりはじめた。
まだ中身は空っぽだ。
ホームセンターのロゴが入った、真新しい段ボールたち。
「……引っ越しする実感って、段ボールの数で来るんだなぁ」
白露ねむは、床にぺたんと座り込んで、マジックペンをくるくる回した。
【本】
【衣装】
【配信まわり(ぜったい投げない】
雑な字で書かれたラベルを眺めながら、スマホが震える。
【水城レン】
《今日17時〜新居レイアウト会議。事務所の会議室B。来れる?》
ねむは、慌てて返信する。
《行きます!!》
《本日もよろしくお願いします…!》
送信ボタンを押したあと、指先が少しだけ震えていることに気づいた。
(今日、みんなの前で“新居”の話、ちゃんとできるかな)
嬉しい。
でも、それ以上に、恥ずかしい。
そして、ほんの少しだけ怖い。
ねむは立ち上がり、六畳の部屋をぐるりと見渡した。
これから、この景色は変わる。
自分の生活も、たぶん、少し変わる。
(……変わるのって、やっぱり、こわいな)
そう思いながらも、ねむは出かける準備を始めた。
◆
ルミエールの事務所は、駅から少し離れたビルの七階にある。
「お疲れさまです……」
ドアを開けると、会議室Bの前からすでに賑やかな声が漏れていた。
「ねむ、来た?」
「おっ、主役登場だ」
ドアを開けた瞬間、拍手が起きた。
「えっ、な、なにこれ?」
「新居おめでとう拍手」
天音ルナが、両手をパチパチ鳴らしながら笑っている。
横では白神ナオが、すでにホワイトボードに何かを書き込んでいた。
天ヶ瀬カイ、星野コウ、神崎ユウマ、笠原サチ、春名ミナト、凪野レオ――
いつもの顔ぶれに加えて、花咲ユリと黒瀬ミオまで揃っている。
「全員いるじゃないですか……」
「当たり前でしょ。箱の一大イベントなんだから」
ナオがドヤ顔で言った。
「今日の議題はひとつ。
“白露ねむの新居を、最強の配信基地にするにはどうするか”会議です!」
「タイトルちょっと怖くないですか……?」
会議室の真ん中には、大きな白い紙が広げられている。
間取り図だ。
二LDK。
リビング十三畳。
寝室六畳。
もう一部屋四・五畳。
そこに、すでに色とりどりの付箋が貼られていた。
「ここに配信デスクでしょ、ここに歌ブースでしょ、ここに本棚でしょ……」
「ちょっと待ってください、それ私の意見入ってます?」
「これから入れるから!」
ナオが慌てて言い訳する。
「とりあえず座ろっか」
水城レンが、会議室の端から声をかけた。
ノートPCを開き、プロジェクターには、同じ間取り図が映し出されている。
「まずは、ねむちゃんの希望を聞きたい。
なんでもいい。“こういう部屋にしたい”ってイメージ、ある?」
「え、えっと……」
ねむは、間取り図をじっと見つめた。
頭の中には、ぼんやりしたイメージがある。
でも、言葉にするのは、少し怖い。
「……ごちゃごちゃしすぎない、部屋にしたいです」
「ふむ」
「物が多いのは嫌いじゃないんですけど、
配信の前に、部屋が散らかってると、心も散らかるというか……」
六畳の部屋で何度も味わってきた感覚だ。
「だから、ちゃんとしまうところがあって、
でも“生活してる感じ”は残ってて……。
あ、あと」
言い淀んでから、思い切って続ける。
「“おかえり”って言いたくなるような部屋がいいです」
会議室の空気が、ほんの少しだけ静かになった。
ルナが、にこっと笑う。
「いいじゃん、それ。
“おかえりって言いたくなる部屋”」
「キャッチコピーかよ」
カイが突っ込みながらも、口元は緩んでいる。
「じゃあまず、リビングの中心は“ただいまゾーン”にしよっか」
ナオが、リビング中央に大きな丸を描いた。
「ここにソファとローテーブル。
配信でちょこっと映っても“生活感あるけど可愛い”ライン」
「カーテンとラグはパステル系がいいですね……」
ユリがすかさず色見本を出してくる。
「ここはれむちゃんのパーソナルカラーに寄せたい。
アイコンの淡いブルーと、声の柔らかさに合わせて」
「そこまで……」
ねむは、じっと自分のアイコン画像を思い出した。
淡い水色と、夜の星。
(本当に、私なんかに、こんな部屋……いいのかな)
そんな不安が、ちらりとよぎる。
◆
「配信デスクは、窓際か、壁際か」
コウが真顔で訊ねた。
「歌もやるなら、防音のこと考えると壁際の方がいいかも。
でも、窓からの光を活かしたカメラアングルも捨てがたい」
「歌ブース、どこに置く?」
ミナトが、間取り図の四・五畳の部屋を指さす。
「ここ、全部“歌部屋”にしちゃう案もあるけど」
「でも、あんまり“仕事しかない部屋”にしちゃうとしんどくない?」
サチが、おずおずと口を挟んだ。
「わたし、家に仕事持ち込みすぎて、一回メンタル潰れたことあるので……」
「あー、わかる」
ミオがすぐに頷く。
「だから、歌部屋と生活部屋、ちゃんと分けた方がいいと思うな。
リビングに“歌の気配”があるくらいがちょうどいい」
「じゃあ、こうしよ」
コウがペンを取った。
「四・五畳の部屋に“機材置き場&衣装部屋”を作る。
歌はリビングの一角に簡易ブースを組んで、
配信画角から少し外れたところに置く」
「それ、なんか……贅沢じゃないですか」
「贅沢していいんだよ、ねむ」
ユウマが静かに言った。
ねむは、ユウマの方を見る。
無口で、いつも少し眠そうな顔。
でも、音のことになると、誰よりも真剣になる。
「喉、これから絶対酷使する。
歌も、配信も。
環境で守れる部分は、守っとかないと」
「……うん」
「それに」
ユウマは少しだけ言葉を選んでいるようだった。
「“帰ってきたくなる部屋”って、
“仕事しかない部屋”じゃないと思うから」
その言葉に、胸の奥がじん、と熱くなる。
「……ずるい」
「え?」
「今の、なんか……ずるいです。
いいこと言って……」
「仕事なので」
さっきのレンと同じ台詞を言われて、ねむは思わず笑ってしまった。
◆
会議は、ほとんどお祭りのようだった。
「キッチン周り、どうする?」
「収納は多いけど、手が届く位置考えないとね」
「れむって、自炊どれくらいするの?」
「え、えっと……カップ麺と、パスタと、焼きそばと、冷凍うどんと……」
「炭水化物しかない!!」
「料理配信案件やる前に、家事トレーニングからだなこれ」
「ガスコンロ横にスパイスラック置いて、
見た目だけ“料理上手そう”にするのどう?」
「詐欺じゃないですかそれ」
「見た目から入るのは大事だよ」
笑い声が絶えない。
その真ん中で、ねむは何度も「これ、本当に私の部屋の話なんだよな」と思った。
六畳の部屋では、こんな会議は想像できなかった。
一人で、夜中に、電気ケトルの音を聞きながらカップ麺を啜っていた。
あの頃の自分が、この光景を見たら、なんて言うだろう。
(きっと、信じないだろうな)
「そういえば」
ふと、レンがねむの方を見た。
「ねむちゃんさ」
「はい?」
「お母さんには、新居のこと、もう話した?」
空気が、ほんの少しだけ変わった。
ねむは、ペンを握りしめる指に力が入るのを感じた。
「……まだ、です」
「そうなんだ」
「なんか……
“ちゃんとした形になってから伝えよう”ってずっと思ってて」
六畳の部屋に引っ越してきたときも、
Vを始めたときも、
歌に力を入れようと決めたときも。
「お母さん、心配性なので。
“また夜遅くまで変なことしてるんじゃないか”って、よく言われてて」
電話の向こう側の、ため息混じりの声が頭に浮かぶ。
『またあんた、夜中まで起きてるんでしょう。
身体壊したらどうするのよ』
(そのときは、そのときだよ、なんて……言えなかったんだよな)
ねむは視線を落とした。
「お母さんが夜勤してる間、
ひとりでご飯食べて、テレビ見て、
ラジオとか配信とか、音だけ聞いて寝るのが普通で」
口に出してみると、思っていた以上に、その記憶は鮮明だった。
「誰かの声があるだけで、“あ、今日も一日終わったな”って思えて。
だから、配信始めたとき、どこかで“怒られるだろうな”って……」
「なんで?」
カイが首をかしげる。
「だって、“夜の声”側に回っちゃったから」
ねむは、自分の胸に手を当てた。
「お母さんが働いてる時間に配信して、
夜勤から帰ってきたお母さんが寝てるときに、
歌ったり喋ったりして。
“うるさい”って思われてないかなって、いつも怖くて」
それは、六畳の部屋に貼りついていた不安だ。
「だから、新しい部屋は……
“お母さんが知らなくてもいい場所”にしたいなって」
そう言った瞬間、レンがゆっくりと首を横に振った。
「……それは違うと思うな」
「え」
「“知らなくていい”じゃなくて、“安心してもらえる場所”にしよう」
レンの声は、いつもより少しだけ、柔らかかった。
「ねむがさっき言ってたみたいにさ。
“おかえりって言いたくなる部屋”って、
ねむだけのためじゃないと思うんだ」
「……」
「ねむが“いま、ちゃんと元気でやってるよ”って、
お母さんに見せてあげられる場所でも、あると思う」
ねむは、返す言葉を失った。
「言いづらいのはわかる。
でも、いつかどこかのタイミングで、
“ちゃんと自分で選んだ生き方してるよ”って言えたら、それが一番強いから」
「……そんな、格好いい言葉、私に言えるかな」
「言えなかったら、LINEで書けばいいよ」
ユウマがぽつりと言った。
「電話じゃなくてもいいし。
“今度、遊びに来てね”って一言だけでも」
「あ、それはなんか……」
「なんか?」
「すごく、いいかもしれないです」
ねむは、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
(“知らなくていい場所”じゃないんだ)
(“いつか、見せたい場所”なんだ)
◆
会議は、二時間近く続いた。
照明の色温度。
カメラの位置。
配信と生活の動線。
冷蔵庫と電子レンジのベストポジション。
「じゃあ、まとめようか」
レンがホワイトボードを見渡した。
「・リビングは“ただいまゾーン”+配信スペース
・四・五畳は機材&衣装部屋
・寝室は“仕事禁止エリア”
・歌ブースはリビングの一角に簡易設置」
「仕事禁止エリア……」
ねむは、その響きを反芻した。
「寝ることに、ちゃんと贅沢してほしいから」
ミオが微笑む。
「声の仕事してる人が、寝るの削ったら、その時点で破綻だからね」
「うん……」
頭ではわかっている。
でも、六畳の頃は、それができなかった。
新しい二LDKで、それができるだろうか。
(できるようになりたいな)
そう思えた自分に、少し驚いた。
◆
会議室を出るとき、なぜかカイと二人きりになった。
「おつかれ」
「お疲れさまです……」
廊下の窓から夕方の光が差し込んでいる。
ビルの隙間に沈みかけた夕日が、橙色に世界を染めていた。
「……ねむさ」
「はい」
「今日、一瞬だけ、本気で泣きそうだったろ」
「えっ」
「“知らなくていい場所”って言ったとき」
カイは、窓の外を見たまま言った。
「泣かなかったの、えらいなって」
「……それ、褒め方、合ってます?」
「合ってる。俺基準では」
ねむは、ちょっとだけ笑った。
「泣いてもよかったんだけどね。
この箱、泣いてるやつに優しすぎるから」
「それは……知ってます」
何度も、画面越しに見てきた。
誰かの涙に、コメント欄が一斉に「大丈夫」「好きだよ」で埋まる光景を。
「でも、あの場で泣いたら、
“お母さんにちゃんと話す”って決める前に、
甘えちゃいそうで」
「甘えちゃいけないの?」
「……甘えたいのは、山ほどあるんですけど」
ねむは、窓ガラスに映る自分を見つめた。
「ちゃんと、自分で決めたい日だったので。
新しい部屋のことも、お母さんにどう話すかも」
「そっか」
カイは、少しだけ笑った。
「じゃあ、決めたら教えて」
「え?」
「“ちゃんと話したよ”って。
そしたら俺、“よくやった”って言いにいくから」
その言い方が、あまりにもまっすぐで。
胸の奥が、ほんの少しだけ跳ねた。
「……なんですかそれ」
「約束」
カイはそう言って、軽くねむの頭をぽん、と叩いた。
驚きで言葉が出ない。
(なに今の……)
頭に残る感触を、ねむはどう処理していいかわからなかった。
甘えみたいで、嬉しくて、でも少し恥ずかしくて。
「ほら、エレベーター来た」
「あ、はい……」
カイと並んでエレベーターに乗り込む。
密閉された小さな空間に、二人の息遣いだけが響く。
(なんで、こんなに心臓うるさいの、私)
配信前でも、歌の収録前でもない。
ただ、先輩とエレベーターに乗っているだけ。
なのに。
「れむ、変わったね」と言われる未来が、ふと頭をよぎった。
(……変わりたくないわけじゃないんだよな)
(“変わっても、好きでいてくれる人”がいるって、知りたいだけで)
エレベーターの扉が開く。
「じゃ、またな」
「はい。
……気をつけて帰ってください」
「お前がそれ言うの、じわるな」
笑いながら歩き出す背中を見送ってから、
ねむは事務所のロビーを抜け、外に出た。
◆
新居のある街へ向かう電車は、思ったより空いていた。
窓から見える景色は、いつもと同じはずなのに、
どこか違って見えた。
(お母さん、なんて言うかな)
スマホの画面には、「母」の名前が並んでいる。
すぐに押せば、声が聞ける。
でも、その一歩が、重い。
代わりに、ねむはメモ帳アプリを開いた。
《お母さんへ》
《元気ですか? わたしは元気です》
文字を打つ手が止まる。
(これ、なんか……小学生みたいだな)
笑いながら、消す。
《お母さんへ。
突然だけど、引っ越すことにしました》
また止まる。
(これもなんか、怖いな)
消す。
結局、ねむは一行だけ残した。
《今度、ちょっとだけいい話ができそうです》
送信ボタンは押さない。
下書きのまま保存する。
(ちゃんと話せる日が来たら、そのとき送ろう)
そう決めて、スマホをポケットにしまった。
◆
新居の前に着いたときには、空は薄暗くなりかけていた。
オートロックを抜け、エレベーターで五階へ。
まだ何も入っていない部屋に足を踏み入れる。
「……ただいま」
昼間と同じように、そっと言ってみる。
やっぱり、誰も「おかえり」とは言わない。
でも、さっきの会議室で聞いた声たちが、
この空間のどこかに残っている気がした。
《冷蔵庫はここ!》
《歌ブースはここでしょ》
《仕事禁止エリア大事〜》
《お母さんにも見せられる部屋にしよ》
リビングの真ん中に立ち、天井を見上げる。
「……変わるの、こわいけど」
ぽつりと呟いた。
「こわいまま、変わってみるか」
そのときだった。
隣の部屋から、かすかな歌声が聞こえてきた。
(……え)
壁越しに聞こえる、柔らかいハミング。
男女どちらとも取れる、中性的な高さ。
歌詞は聞き取れない。
でも、メロディだけはしっかりと耳に残る。
(ここ、まだ誰も住んでないって聞いてたけど……)
管理会社の人の言葉が頭をよぎる。
『同じフロアに、音楽関係のお仕事されてる方が一人入る予定でして』
その“予定”が、どうやら現実になったらしい。
「……わ。
なんか、ちょっとだけ、負けてられないですねこれ」
ねむは、思わず笑った。
見えない隣人。
まだ名前も、顔も、知らない声。
でも、“ここで歌ってる誰か”がいると思うだけで、
この空間が急に心強くなった気がした。
「よろしくお願いします……」
壁に向かって、小さく頭を下げる。
返事は、もちろんない。
代わりに、ハミングが一瞬だけ止まり、
すぐに違うフレーズが始まった。
(あれ。今の、もしかして聞こえた?)
そんなことを考えて、また一人で笑う。
「配信、まだ……切れてませんよ?」
誰にも聞かれないように、そっと呟く。
六畳の部屋から、二LDKへ。
夜の声に救われていた少女が、
今度は誰かを救える声になろうとしている。
恋の配置も、まだ決まっていない。
でも、部屋のレイアウトみたいに、
少しずつ「ここだ」と思える場所に置いていけばいい。
そう思えたことが、
今日一番の、前進だった。
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