第29章 沈黙のリフレイン<夢河 吹雪>

リハーサルスタジオの照明は昼でも少し薄暗い。






窓もなく、時間の感覚が狂う。

けれどこの空気が、あたしは嫌いじゃない。





アンプのスイッチを入れると、

電流の「ブゥン」という音が空気を震わせた





スティングレイを抱えた瞬間、胸の奥のスイッチも同時に入る。







ドアが開き、アツシくんが入ってきた。

いつもより少し遅れての登場。






「すみません、電車が止まってて」


「気にしないでー!大丈夫よぉ。

 あたしもセッティング、まだだから」




アツシくんは軽く頭を下げ、

ケースを開けてサンダーバードを取り出した。







その仕草が、やけに慎重だった。





「今日はRED SUNSのリハだったの?」


「ええ。まだまだ休んでいられません」


「なるほどねぇ」





彼は少し照れくさそうに笑った。

でもいつもの穏やかさとは違う、どこか思い詰めた表情。






あたしはベースの弦を指で軽く弾く。








その音に呼応するように、

アツシくんの低音が追いかけてきた。



「…へぇ、前より音の出し方が変わったねぇ。

 前は指弾きなんてしてなかったよね?」


「そうですか?」


「うん。あとちょっと強くなった。

 でも…無理してる感じもちょっとする」







アツシくんが手を止めた。一瞬、空気が止まる。







「…無理、か。メンバーにも言われました」



その一言で胸の奥に何かが刺さった気がした。

音のことだけじゃない。






その言葉の奥には、もっと別の“重さ”があった。







「ねえ、アツシくん」


「なんですか?」


「キミ、誰かのために弾こうとしてるでしょ?」







アツシくんは目を伏せた。

そして、少しの沈黙のあとで答えた。







「…そうかもしれない」


「“そうかもしれない”って言葉、いちばん優しくて、いちばん残酷だね」






自分で言って、胸の奥が痛んだ。

アツシくんは驚いたように顔を上げる。






「どういう意味ですか?」


「その人を想ってるのに、自分ではまだ認めたくない時に使う言葉だから」








アツシくんは何も言わなかった。







指先で弦を押さえたまま、ただ沈黙の中で小さく息を吐いた。







「キミ…比未子ちゃんを想って 弾こうとしてるんじゃないの?」


「……」





あたしが核心を突いたからだろう。彼は黙って下を向いていた。





「…僕、間違えてるのかもしれない」


「何を?」


「“音”も、“人”も」





その瞬間、あたしの胸の奥に衝撃が走った。

今、あたしは押してはいけないボタンに触れた。









そのボタンをあたし自身が押してしまった事を悟った。










(あたし…何てことを…)










誰かの心を揺らすのは簡単じゃない。





でも、壊すのは――あっけないほど一瞬だ。





あたしは今、彼が“壊してしまう”方向に背中を押してしまった。








***








練習が終わった帰り際。

わたしたちはスタジオの外で別れた。







「吹雪さん、今日はありがとうございました。

 …少しだけ、楽になった気がします」


「…そっか。ならよかった」







アツシくんが去っていく背中を見送った後、

あたしは脚に力が入らなくなった。





その場に座り込まないよう懸命に堪える。








(ほんとは、あたし聞こえてた。

 アツシくんの中で何かが壊れていく音を――)








だけどそれを止める方法を、あたしは持っていなかった。










――ううん。持っていた。









でもきっと、あたし自身が止めたくなかったんだと思う。








霜の残るアスファルトが、足元でかすかに鳴った。





それはまるで、

心に“ヒビ”が広がっていく音のように聞こえた。

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