第20章 ベーシスト<月形 アツシ>
日曜日の午後。
真新しいマンションの階段を上り
5階の突き当たりから3部屋目。
どうやら楽器がOKという
東京では珍しいマンションのようだ。
その奥の部屋のドアには、
小さなプレートが貼ってあった。
──“fubuki’s room”
僕は小さく息を吸い、ノックをした。
「どうぞー! 開いてるよぉー!」
中から聞こえたのは、
まるでライブハウスの
MCみたいに明るい声だった。
ドアを開けると、部屋の中は
想像以上に“音の巣”。
壁には何本ものベース。
床にはエフェクターが無造作に並び、
ケーブルが絡まり合っている。
その真ん中でTシャツとショーパンという
ラフな服装の吹雪さんが座り、
足でリズムを取りながら練習をしていた。
「お、来た来た。緊張してるねぇアツシくん?」
「…はい。正直、ちょっと」
「それくらいがちょうどいいのよ。
音って、真面目すぎたら死ぬし、
ふざけすぎたら軽くなるのさっ」
吹雪さんは立ち上がり、
隣に置かれたベースを手渡した。
「まずは基本のルート弾きねっ!
ドラムのバスドラの音を意識して」
僕は無言で頷き、ピックを持つ。
弦に指が触れると、
“ボンッ”という低音が
部屋の床を伝って響いた。
「うん、悪くない。けど…」
彼女は僕の背後に立ち、指先を軽く添えた。
「右手の角度、ちょっとだけ下げて。
ほら、もっと腕全体でリズムを刻む感じで」
背中越しに伝わる彼女の呼吸と胸の感触。
僕は喉が鳴るのを押し殺した。
「…そう。今の音、ちゃんと“生きてる”」
吹雪さんは笑い、椅子に腰を下ろす。
「ベースってさ、自分が目立つ楽器じゃないの。
誰かを光らせるための楽器なんだよね。
でもその“誰か”が光れば光るほどに
自分の音もより良く強くなるの」
僕は黙って弦を弾いた。
その音はまだ拙いけれど
確かに前より温度があった。
吹雪さんは僕の手元をしばらく眺めていたが、
ふと、遠くを見るような目をした。
「…アツシくんさ、
いっちゃんとはもう長いのぉ?」
「え?緋山…ですか?」
「こないだの打ち上げの時
見てて仲良さそうだなって思ってさっ!」
「そうですね、
もう15年くらいの付き合いです」
「ふぅん…」
やはり緋山はこうした初対面の人にも
インパクトを残すことができるのだと悟った。
「いっちゃんってさ、
あたしの知り合いにそっくりなんだぁ」
「吹雪さんのお知り合い…
バンド関係の方ですか?」
僕がそういうと吹雪さんは
立ち上がって伸びをした。
「うん、あたしのベースの師匠でー
音楽の先生でー…彼氏でもあった人。
たぶんあたしが世界で一番尊敬してた人」
僕の中にまた何かが湧きあがった気がした。
恋愛でも嫉妬でもない例のあの気持ちだ。
「どんなにステージが小さくても、
その人の音は大きくて優しくて
まるで“日の光”みたいだった。
見てるだけで胸が熱くなるような人。
そんな人ってそうはいないよねぇ」
彼女は言葉を切り、少しだけ視線を落とす。
「でもその人はもういない。
あたしはその人を今も
追いかけているだけなんだ」
僕は弦を押さえる指を見つめた。
吹雪さんの言葉が、
心の奥で何かを静かに叩いた。
「僕も誰かの心を熱くできる音を出したい…」
「えへへ…たぶんキミと
いっちゃんなら絶対できると思うよ!」
吹雪さんはそう言って笑い、
軽く僕の肩を叩いた。
「ほら、練習の続きやるぞい!
リズムは心臓!止めちゃダメよん」
僕は頷き、再び弦を弾いた。
その音は、さっきよりも少しだけ深く響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます