第18章 響かぬ音 <夢河 吹雪>
楽屋の鏡越しに
唯がリップを塗り直していた。
眩しいくらいの笑顔。
ステージ前のこの空気にも
あたしたちは随分慣れたものだ。
「なあ吹雪、今日の客入り
めっちゃ多いんやって!
やっぱりRED SUNS効果かなぁ」
「違うよぉ!それはあたしがカワイイからっ!」
いつもみたいに答えて、あたしはベースを磨く。
ピカピカに光るその表面に、自分の顔が映った。
落ち着いているようで、どこか硬い。
うん、今日の顔はコンディション不良かも。
弦から漂うギターポリッシュの香り。
この匂いを嗅ぐと、いつもあの人を思い出す。
マーティンのギターポリッシュ。
あの人がいつも使っていたもの。
「吹雪、磨きすぎやない?ゲキオチ君使う?」
唯が笑いながら言う。
「なんでだろぉ?暇あると出る癖みたいな?」
ほんとは癖なんかじゃない。
ユウキさんが――“あの人”が
いつもそうしていたから。
あの人の指先は
ベースを愛おしむように扱っていた。
事故の報せを聞いた日も、まだ部屋に
ギターポリッシュの香りが残っていた。
その香りは、あたしを置いて
とっくに消えちゃったけど。
あの日から、あたしは
このスティングレイが恋人になった。
誰かを信じることも、頼ることもなくなった。
男好きなキャラを演じて
すべてを
***
リハーサルが始まった。
照明の熱と、スピーカーからの
低音が足元を震わせる。
シールドをアンプに繋いだ瞬間
少しだけ心拍が落ち着く。
視線の先に、彼がいた。
緋山いつき――RED SUNSのボーカル。
彼の姿を見て、ユウキさんを思い出した。
パートもタイプも違うのに、どこか似ていた。
でも似てるだけ。あの人はもういないんだから。
唯の声が響く。
「吹雪、もう一回頭(アタマ)からいこうか!」
「はいよぉ!」
スティングレイを構え、深く息を吸う。
ピックを使わず、指で弾く。
あの時のあの人と同じように。
答え合わせをするように
心のラインのチューニングをする。
――これでいい。
あたしの音はいつまでもあの人を追っている。
どんなに評価されても
あたしはただ影を追っているだけ。
あたしのベースは本来ならば
評価するにも値しない。
***
本番。
ライトが落ちて、唯の声が会場を満たす。
観客のざわめき、フロアの熱気。
あたしはベースのヘッドを
軽く叩き、心を整えた。
低音が響く。
床の振動が体の芯に伝わる。
音に身を委ねると、世界のノイズが全部消える。
あの人が生きていた頃、
よく言っていた言葉を思い出す。
――“音は生き物だ”
その言葉どおりに、指先で息をするように弾く。
リズムが唯の歌と絡み合い、
ホールが一瞬、音でひとつになる。
それが終わると同時に、客席が歓声に包まれた。
唯が笑い、手を振る。
あたしはいつも通り
ベースを掲げてステージを飛び跳ねた。
――あたしは、まだ過去に囚われたベーシスト。
きっと、自分の音をお客さんに
聴かせることすら出来ていない。
袖の暗がりで、RED SUNSが出番を待っている。
アツシくんがこちらを見て、小さく会釈をした。
ライトが切り替わり
RED SUNSの音が鳴り響く。
その時見たボーカル…
緋山いつきくんは、あたしの心に
ほんの少し何かを残していった。
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