第10章 太陽が降りた日<緋山 いつき>
それから初めてのライブが
決まったのは、一か月後のことだった。
ヒカルの友人がブッキングしている
ライブハウスから初出演の誘いが届いたのだ。
昼を少し過ぎた頃、
下北沢のライブハウス“SEED”の
看板に灯りが点く。
狭い路地に人のざわめきと機材車の音が混ざり、
街の空気が少しだけ浮き立っている。
俺たち RED SUNSは
初めてのステージを迎えようとしていた。
「緊張しちゃダメですよ。
緊張するとミスるから」
ケンがドラムスティックを握りしめ、
くるくると回しながらぼそりと呟く。
「何言ってんだ。お前だけは
全く緊張なんかしてねえだろ?」
ヒカルが笑いながらギターのペグを回す。
アツシは黙って弦を拭いていた。
不思議と、ただの友達だったこいつが、
今は“ベーシスト”に見える。
――俺も、こいつから見たら
ちゃんと“ボーカル”に見えてるんだろうか。
その時、楽屋に比未子が顔を出した。
手には紙袋。
「差し入れ、買ってきたんです。
終わったらみんなで食べてくださいね」
「サンキュ。なんか胃が動く気しねぇけど」
「大丈夫。今日は絶対に
笑える日になりますよ。頑張って!」
そう言って、比未子はそっとドアを閉めた。
「ひゅー! いいなー、彼女がいるヤツは!」
ヒカルが冷やかすが
口笛は音になっていなかった。
控室のドアがノックされる。
「RED SUNSさん、そろそろ本番です」
俺はマイクを握って、
幕の下りたステージの真ん中に立った。
緊張じゃない何かで手が震える。
けれど、身体はどんどん熱くなっていく。
照明が落ちた。
ステージの向こうから、
観客のざわめきが聞こえる。
30人ほどだろうか。けれど、
確かに誰かが“待っている”。
「なあ、いつき」
ヒカルがこちらを見て言った。
「今日さ、お前の魂、見せろよ!」
「は? 何だよ急に」
「おれたちの看板はお前だ。
お前にしか出来ない事を
おれたちにも見せてくれ」
ヒカルの笑顔は冗談めいているのに、
その奥の目だけは真剣だった。
俺は小さく息を吐いて、マイクを握り直す。
「…看板か…悪くないね」
ヒカルが口角を上げる。
「へへ…そうこなくちゃな」
幕が上がると同時にケンが
大きな声でドラムカウントを取る。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
ヒカルのギターが叫び、
ケンのスネアが鋭いリズムを刻む。
アツシの低音が観客を揺らし、
俺の声がその上を走る。
一瞬で、全部が繋がった。
音も、熱も、夢も。
誰かの歓声が聞こえる。
ステージの光が眩しくて、
比未子がどこで見ているのかもわからなかった。
けれど、この瞬間だけは確かに思えた。
――俺たちは一つになれる。
次の瞬間、体が勝手に動く。
マイクを握る手が熱を帯びる。
照明が真っ白に弾け、音が俺を突き抜けた。
「――叫べぇぇぇぇッ!!!」
その瞬間、客席が一斉に拳を上げた。
音が一つになった。
そして俺は唐突に、
目の前がホワイトアウトするのを感じた。
***
気づけば、ライブは終わっていた。
ヒカルが満面の笑みで俺の肩を揺さぶる。
「なあ、いつき! どうよ? 俺たち!」
息を切らせながら、俺は答えた。
「…ああ、悪くないね」
ステージを降りた瞬間、
世界が一気に静かになった。
心臓の音が聞こえるほどの静寂。
照明の残光が頭の奥でチカチカして、
体の中に、何かがまだ
燃え続けている感覚だけがあった。
ケンはペットボトルの水を一気に飲み干し、
「終わっちゃったなあ」
と小さく呟く。
ヒカルはギターを置くと、
無言で拳を突き出してきた。
俺たちは拳を突き合わせる。
「…な?」
「…ああ」
アツシはスツールに腰を下ろし、
ベースを抱いたまま黙って天井を見上げていた。
ドアが開く音。
比未子が入ってきた。
両手に差し入れの紙袋を抱え、
そのまま言葉もなく俺たちを見つめていた。
「どうだった?」
と聞こうとして、声が出なかった。
喉が枯れて、息だけが漏れた。
比未子は小さく笑って、目尻を拭った。
「…すごく、よかったです」
涙がこぼれて、
それでも彼女は泣き笑いのまま続けた。
「…うまく言えないけど、太陽みたいでした」
俺は何も言えず、
ただマイクを握った手の震えを感じていた。
比未子の言葉が、耳の奥でまだ響いている。
――「太陽みたいでした」
ライブハウスを出て、
夜風を感じながら歩いていると、
ふと隣を歩く比未子の横顔が目に入った。
「どうかしたんですか?」
「いや…何でもない」
「ふふ。さっきの緋山さんとは別の人みたい。
不思議な感じ」
「うるせえ、さっきは必死だったんだよ」
比未子が笑う。
街灯に照らされたその笑顔が、
まるでステージの光よりも眩しく見えた。
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