第9章 月の恋人<月形 アツシ>
週に二回だけあるカフェのバイトの休みの日。
僕は渋谷の楽器店に来ていた。
ベーシストになる第一歩として、
自分の“相棒”を見つけるために。
目に留まったのは、
ギブソン社製のサンダーバード。
鈍く光るボディに、
どこか孤独な音が宿っている気がした。
指でネックをなぞりながら、心の中で呟く。
「サンダーバード…」
そのとき、背後から賑やかな声が響いた。
「ねー!店長ー!あたしだけどー!
スティングレイちゃんのネック、直ったー?」
「吹雪ちゃんか。さっきメーカーから
戻ってきたよ。弾いてみるかい?」
僕が反射的に振り向くと、
ショートパンツにダメージパーカー姿の
女性が、ベースを受け取り笑っていた。
あっという間にセッティングを終え、
彼女が弦に指を滑らせた瞬間――
重低音がその場の空気を支配する。
たった一音でわかった。
でも二音目からは何をしているのか
全くわからなかった。
「あれは…スラップ…?!」
スラップ奏法。ベースの高等テクニックの1つ。
YouTubeで見たことがあった。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズの
フリー氏が多用していた技術だ。
立ち尽くしたまま息を呑み、
僕は彼女に見入っていた。
彼女がそんな僕に気づいたことさえ、
僕は気づいていなかった。
その女性は軽くウインクをしながら言った。
「ん? キミあたしに見惚れてくれた感じー?
随分と強烈な視線感じちゃったぞぉー!」
その高い声で、我に返る。
たどたどしく言葉を返した。
「…いや、その…あまりにすごくて」
「ん、ありがと。あたしの恋人、
今日入院から帰ってきたばかりなのぉ!」
そう言って彼女は、
持っていたベースを抱きしめた。
「…恋人?」
「この子ねっ」
彼女は指で弦を弾きながら微笑んだ。
低音が響き止むと店内の空気が一瞬やわらぐ。
僕はその光景を見ながら、小さく呟く。
「ベース探しは、恋人探しか…」
「そうそう! ちょっと気難しいけど、
惚れたらきっと一生モノよん?」
彼女は軽く肩をすくめて笑う。
「ベースってね、気分屋でワガママ。
でも、ちゃんと応えてくれるの。
男と違って、逃げたりしないし」
「…あはは」
僕は目の前のサンダーバードを
もう一度見つめた。
そのタイミングで店員が声をかけてくる。
「そのベース、気に入ったかい?」
僕は少し考えてから、静かに頷いた。
「…はい。こいつにします」
「サンダーバードちゃんかー!
キミさ、いい恋人選んだねっ」
女性ベーシストはにっこり笑って指を立てた。
「あたし吹雪! devisionerってユニットで
ベース弾いてるのー!キミ、名前は?」
「アツシ…月形 アツシって言います」
「アツシくんかー!キミのベース、
いつか聴けるの楽しみにしてるっ!」
吹雪さんに会釈をし、レジを済ませ、
ケースを肩にかけて外に出る。
ケースを持つとやっとベーシストとして
スタートラインに立った実感が湧いてくる。
冬の風が頬を撫で、
弦の感触がまだ指先に残っていた。
「こいつと一緒に、このバンドに
“僕の音”を足してやる」
誰に聞かせるでもなく呟いたその言葉は、
街のざわめきに溶けて、夜の底へ消えていった。
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