第4章 田舎のバリスタ<緋山 いつき>
昼を少し過ぎた頃、俺が目を覚ますと、
部屋に香ばしいコーヒーの香りが漂っていた。
安アパートの薄い壁を抜けて、
隣の生活音まで聞こえるような朝。
それでも、その香りがこの部屋を
少しだけ“マシな場所”に変えていた。
比未子が鍋でお湯を沸かし、
安いインスタントの粉を丁寧に溶かしている。
髪は後ろでゆるくまとめて、
俺が貸したTシャツの袖をまくり上げていた。
「緋山さん、おはようございます」
「…おう…オハヨウ」
寝ぼけた声で返すと、比未子が笑った。
「寝起きの声、ゆるキャラみたいですね」
「ゆるキャラって喋らねえだろ?」
「そうかも」
湯気の立つマグを手渡される。
飲んだ瞬間、苦味よりも先に温度が
喉を通っていくのがわかった。
「すげえな、美味い。前職バリスタ?」
「違いますけど。自信はありますよ」
「…うん、悪くないね」
彼女は少しだけ得意そうに笑った。
「そういや、これからどうすんだ?
仕事って当てはあるのか?」
「全然。わたし上京したての田舎者ですから。
オシャレなカフェで働けたら最高なんだけど」
俺は思わず笑った。
「東京のカフェなんて倍率高いぞ。
面接で落とされて泣くタイプだな、あんた」
「泣きません! 多分……」
そんな他愛ない会話が、
なぜか心地よかった。
昨日まで、誰とも共有できなかった
“朝”という時間を、
今日は誰かと一緒に過ごしている。
それだけで十分だった。
***
昨夜、珍しくYouTubeの動画に
コメントの通知が入っていた。
登録者が三十人しかいないしょぼいチャンネル。
そこに久しぶりについたコメントが――
「助けて」
だったのだから、驚きしかない。
普通なら問答無用で110番か119番だろう。
でももしそんな状況なら、
YouTubeのコメントなんかじゃなく、
知り合いに直接連絡するはずだ。
そこで思い出したのが、
数日前の“あの変な女”だった。
名前を聞かれて、俺は
“いつき”としか名乗らなかった。
でもあの女は俺を“緋山さん”と呼んだ。
つまり、俺のことを前から
知っていたということだ。
だからまさかと思った。
これを書いたのは、あの変な女じゃないかと。
もしそうなら行くべき場所は決まっている。
――あいつと初めて会った東京ドーム。
もしあいつが俺に助けを
求めているなら、救いたい。
それが俺の生きている意味であり、
人のためになることが、
俺の音楽を続ける理由だった。
かつて、俺が音楽に救われたように。
***
その日の夕方、
俺は幼馴染にメッセージを送った。
そいつの名は月形 アツシ。小学校からの仲だ。
付き合いだけなら十五年ほどになる腐れ縁。
俺とは対照的で頭も良いし、しっかりした奴。
クールな切れ者っていうのか?
とにかく頭の回転が早い。
『昨日言ってたバイト募集枠、まだ空いてる?』
『空いてるけど誰かいるのか?』
『うん、多分真面目なやつ…だと思う』
『お前のそれを当てにしていいのか?』
『まあいーから親友を信頼しなさい』
『わかった。明日でいいか?
面接スケジュールをオーナーに伝えてみるよ』
会話にも無駄がない。
アツシに連絡を取った後、比未子に話しかける。
「アツシのカフェ、バイト探してるみたい」
「アツシさん?…って誰?」
「腐れ縁。もう十五年になるかな。
大学の単位そっちのけでカフェのバイトしてて
バイトリーダーみたいになってる」
「東京のカフェ!いいなぁ!
そんなところで働けたらいいなぁ」
「アツシに頼んだらオーナーが
面接してくれるって。明日行けるか?」
「はい!」
比未子の目が輝いていた。
失ったものの代わりに、
何かを見つけられそうな瞳だった。
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